カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

先月のできごと(2013年9月)

2013年09月28日 | 先月のできごと

・・・菊池教会、9月のできごと・・・


・9月15日(日)

 9月16日「敬老の日」を前に、神父様からミサのなかで皆さんに健康でますます・・・

してくださいと祝福がありました。併せて、お孫さんのいらっしゃる高齢の方にはささやか

なプレゼントがありました。


・9月19日(木)

 熊本刑務所内で洗礼式がありました。以前から勉強を重ねてこられた2名の方に、3名の

信者立合いのもと神父様が洗礼を授けられました。洗礼を受けられた2名の方は、大きな喜

びをもって信仰生活を続けていかれます。

C年 年間第二十六主日

2013年09月25日 | 神父様からメッセージ(C年)
  キリスト信者の心には欠かせない特徴があります。それは聞く心です。自分の心、自分の体全体を耳にすることです。耳を傾けて神様が話される声を聞いています。有名な神学者もキリスト信者をみ言葉を聞く人とよんでいます。神様はそよ風の中で話してくださり、嵐の中でも預言者の時代のように話されます。モーセに茨のやぶの中から話されました。サムエルは夜中に夢の中で神様から呼ばれました。聖書の中に神様がしばしば雲の中から話される場面があります。神様は人の心の沈黙の中でも話されています。イエス様が神様の言葉になって山から話しかけられたり、小さい船からでも群衆に話されていました。洗礼者ヨハネは声として言葉であるイエス様に耳を傾けるように、自分の命を掛けて勧めました。小さいものたち、貧しいものたち、病者の中に宿るイエス様が、このような人々を通しても話してくださいます。キリスト信者はこのような不思議な、神秘的な言葉に一生耳を傾けています。その中に人生の喜び、幸せ、救いが含まれているからです。
「ルカによる福音書」 16・19-31
聖書によると富はむしろ人の心を縛る枷であり、人の目も暗くして、神様のこと、他人のことも見えなくします。また神様の言葉も聞こえなくなるのです。このような心を持った人は貧しい人、弱い人を差別し、神様から見捨てられています。富にとらわれた人は心がかたくなで慈しみと憐れみのない人になります。預言者の言葉を通して、富のためだけしか生きていない人達を、神様が厳しく裁かれていることで明らかです。当ルカの福音書の例え話で注目するところは、貧しい人には名前があります、金持ちには名前はありません。貧しい人はできものだらけの汚れた者で、犬がそのできものをなめています。しかし例え話の中心になるのは死後に起こることです。隣人のことを完全に見えなくなった金持ちは地獄に落ちて、貧しい人はアブラハムの懐に受け入れられています。当福音書はあくまでも例え話です。死後、正確に何が起こるか誰も知りません、しかし例え話は死後、生きていた通りに報われることになると言っています。とうとう金持ちは自分の兄弟について心配しはじめます。アブラハムの答えは、ラザロは助けに行けないが預言者を通して宣べられた神様のみ言葉を聞くべきだと告げています。最後に例え話が強調するのは、神様のみ言葉を聞き、心を変える、その言葉の力を受け入れる人だけが神様を見、神様に従う、隣人を愛するということです。自分の心が縛られることなく富から自由になることによって、素晴らし天上の音楽を聞くことになります。それはわたし達の救いの歴史の歌です。
                               モヨリ神父

C年年間第二十五主日 

2013年09月19日 | 神父様からメッセージ(C年)
「ルカ福音書」 16・1-13
神様は人間に自分が父であることを示し、愛と赦しで満ちた人生を任せ、ご自分の永遠の命、普遍的な喜びを供えてくださいます。それに対して人間は、この世の持ち物を通して豊かさ、名誉、栄光を探し求めています。自分の人生で何を選択するかによって、自分の人生の価値観のもとに、人と神様との関わりの中で、どれかを選ぶとすれば、選んだことに対して他を拒否しなければなりません。当主日の集会祈願は共同体の声になって、このように神様に願っています:「貧しさに徹して生きる道を示してください。まことの豊かさを知ることが出来ますように。」また第一朗読によると、富にとらわれた人は現実を見失い、富に縛られて、相手を物理的なもので犠牲にします。福音書の課題は正義に生きるように勧めますが、わたし達の思いは神様の思いに従って富の為ではなく人の為、むしろ他人に富を分かちあって生きるように勧めています。イエス様が語られた例え話を通して、豊かに生きる為にいくつかの教えを勧めてくださいます。まず、思いがけない不幸な目にあっても、あきらめないでそれを肯定的な行動で乗り越えなければなりません。主人に不正な管理人が誉められたのは、厳しい時があっても賢く、徹底的に働いたからです。イエス様の弟子でも、どんな時でも、このように行わなければなりません。次に富の使い方についても教えがあります。富に対して人間は中立になることができません。心が富にとらわれた場合、富の力に口説かれる場合が多く、冷静に神様に忠実に生きることはできません。どうしても不正な道の方に引っ張られて、その下り坂をたどるようになります。どんな場合でも現世的なものに元づいて考えれば、人生を乱します。正儀と不正義を同時に生きることはできませんから、イエス様の弟子は常に目覚めているべきです。そして神様の恵みによって迷わず正義の道を選ぶべきです。

C年 年間第二十四主日 

2013年09月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
キリストに従う者達でも誰でも、同じように希望を持って探し求めるものがあります。キリスト信者は不満や寂しさからだけで探し求めるのではありません、まず感謝の心をもって生き、希望をもって探し求めています、それは神様の心です。どんなことが起こっても、キリスト信者はその中に神様の愛を見出します。現在の大切な一瞬一瞬を生きるとき、神様と一緒に生きていることを味わっています。未来の方に目を向けると、神様の思いやその救いの計画を、神様のみ言葉と出来ごとの中に探し求めながら、神様の心を果たすことができると思っています。イエス様に従いたい者たちは、いろんな人の心の中に神様の姿を探していて、それを大切にします。最後にイエス様ご自身が言われているように「探しなさい!求めなさい!」その中に含まれているのは確かに良いこと、人の喜びと幸せ、それに失った小さくても大切なものもあります。小さなものでも全て神様のものですから、キリスト信者は神様の心を映しながら、良い牧者のように、母親のように、放蕩息子の父親のように、弱い者、罪人、それら全てを探し求めて大きな愛で包んでしまいます。
「ルカによる福音書」 15・1-32
イエス様の時代、罪人は神様に嫌がられて、よい人から離れるべきものだと考えられていました。残念ながらこのような考え方はまだ現在でも残っています。それに従って赦しは自分の罪を認めた人だけに与えるべきだと思われます。イエス様はそのような考えを乗り越えて、罪人は神様に大切にされるもので、罪人が神様に受け入れられ、神様のもとに戻る時の喜びを強調されています。赦しを与える方も赦しをいただく方も共に大いに喜んでいます。イエス様が例え話を通して、福音書の目的を見せています。赦す時に、赦された時により大きな愛の体験になります。その時に救いを見出しますから、喜び祝うことは当たり前ではないでしょうか。当福音書でイエス様が語られた例え話は二つのパターンにつながっています。一つ目は「失ったもの、探し求めたもの、大喜び」。二番目は「出発し、戻る、祝うこと」。これらのイエス様の例え話を読むと三つの慈しみの例え話、つまり失った羊を見つけた時の例え話、見失った銀貨を見つけた時の例え話、放蕩息子が帰った例え話に大きな喜びで結びついています。上記のイエス様の例え話が罪人に対する神様の心の有り様を語っています。さて、物語の大詰めは、神様と人間とが大きなものを分かち合った喜びです。この例え話を、憐れみの例え話と言いますが、イエス様は自分の心と同時に神様の心を開いて見せています。ルカ福音記者は信仰を持つに至る異邦人の為に福音書を書いていますから、新しい神様のイメージをそれらの人々の為に徐々に作ろうとしています。ギリシャ人にとって神様は不動であり、厳しい姿を見せながら、失敗した人(罪人)は適切に罰せられるものとして知られています。しかし、イエス様が教えられる神様の心は、相手の事情によって慈しみの心に変わるもので、失敗した人、失った人を非常に愛して、その人と出会って、その人が改心した場合、共に大いに喜んでいます。イエス様の例え話を朗読する人は、素晴らしい優しいキリスト教の神様の姿に導かれていきます。            
                                     モヨリ神父

C年 年間第二十三主日

2013年09月07日 | 神父様からメッセージ(C年)
 ヨーロッパの伝統的な思想では、人の心の中に価値観の階段を作るように目指します。つまり何より大事なことは皆の心の中に欠かせないものがあって、まずそれを探し求めるように勧められています。たとえば、階段の最上階に立つのが愛だとすれば、家族の愛、友人の愛が優先され、その後社会的な義務、次に仕事などと続きます。それとは違って豊かな心をもった日本人にとって、このような価値観は築きにくいと思います。なぜなら、日本人の心の中には何が一番大切だと決めて求めるよりも、宇宙のような心の中に沢山の素晴らしいことの順番を並べるよりも、素晴らしい出来ごと、社会の平和、家族と集落の行事、大自然の現象、美の調和等を全て組み合わせて探し求めているからです。日本のキリスト信者にとっていらないものは一つもありません。全て組み合わせて、心の豊かさを示しながら神様の素晴らしさを表します。このような心を持ったキリスト信者も、イエス様に出会って、イエス様に従う方法をより深く考えていきます。
「ルカによる福音書」14・25-33
イエス様を信じて従う事は、神様の大きな贈り物です。その贈り物をいただく心が必要です。その受け入れる心がまえには形があります。身内より神様を愛する心、イエス様と一緒に十字架を背負うのを怖れない人、自分の持ち物より神様を大切する人です。確かにキリスト信者でも、完全に完璧にイエス様のおっしゃる言葉を受け入れてもなお、その通りに生きることは出来ません。しかし欠点のあるままで、あいまいな思いのままでも、イエス様がおっしゃる言葉を理想にしてそれを目指していきましょう。
 今日の典礼の中でもイエス様に従う為に、特に人間にとって実現しにくいことが記されています。それは、自分にとって一番大切なものを拒否すること、自分の持ち物を横に残すこと、自分のアイデンティティを最後まで保つことです。当福音書にはイエス様が大変厳しい言葉で、自分に従いたい者たちに、当時の表現を用いながら厳しい選択を(身内を憎むことまで)迫っています。実際にイエス様が何をおっしゃっているのかを少し深めてみましょう。イエス様は、どんな人間観関係の中でも、神様との関係を優先すれば、全ての調和である神様の愛の中に、人間の愛と人間関係を包んでくださるということなのです。イエス様の十字架をイエス様と一緒に運ぶのは、イエス様のご受難の苦しみを一緒に背負うことになり、その苦難を乗り越えることです。場合によっては信仰の厳しさを運び続けることです。最後に人間は素晴らしい神様の作品ですから、この世の物理的なものにとらわれてはいけません。イエス様を信じる者たちは、いつも自由な心をもって何ものにも縛られることのないようにして、イエス様にいつでもどこででも、従うのです。
                                     モヨリ神父