カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第18主日

2016年07月26日 | 神父様からメッセージ(C年)
 2016・7・31

 この苦しい暑さの中で風鈴の音にそよ風を感じる時、体だけではなく心まで涼しさがしみ込んで大きな喜びを味わいます。風のように、風鈴の音のように神様の言葉はわたし達の心に届きます。その音、またそよ風は聖霊と神様の存在をたとえています。神秘的に神様が語ってくださることは多いのです、命について、真理について、愛について話されていますから、それに耳を傾けなければなりません。わたし達にたくさんの良い行いも勧めてくださいます。人間であるだれでも、神様の神秘的なしるしを探し求めています。神様のしるしは、そよ風のようにわたし達の中で思いを変えて、素晴らしい世界、神様のふところの愛を見せてくださいます。八月のルカの福音書の個所の特徴は、神様の思いです。あるいはどのようにして人間と違って神様が考えてくださるのかを語られています。
「ルカ福音書12・13-21
 キリスト信者は出来るだけ欲張らないように生きるとをイエス様の言葉に強調されています。今日のミサの最初の祈りも、自己中心的な心から、欲張りな心を解放できるように神様に願っています。人間は自力でこのような欲望から自身を解放することができないので、それに打ち勝つ為に神様の力と支えが欠かせないのです。
 ところで、ルカの福音書のテキストは二つに分けられていますが、両方の場合とも、欲張る心にならないようにとのイエス様の注意につながっています。神様は自分より財産を頼る人を望まれないし、人生の成功も財産を目標にして望む人は神様の前に豊かになりません。当福音書の第一部は自分の兄弟と分けようとする遺産についてイエス様に相談に乗ってもらうように願うのです。第二部は自分に出来た財産について満足して喜んだ人の思いのたとえ話です。上記のたとえ話に正しい望みが含まれていても、イエス様が強調するのは、どちらにしても欲張る心も隠されてあるから、注意しなければならないということです。自分に対する正義を求める時、あるいは自分の出来た仕事に対して喜ぶのは当たり前ですが、物や財産に欲張りな心がとらわれれば神様の心から離れてしまいます。実はイエス様が批判されるのは自己中心的な心の態度で、そして全て自分の為に何でも欲しがりながら、隣人には何も分かち合わない心です。このように「欲張り」という単語によってイエス様が心の硬さ、偶像崇拝、自分の欲望を満たすために人の尊さと権利を踏みつける心の態度も示し、その改心を求めています。だからイエス様が注目されるのは単なる欲望のことではなく、人に対する無私の心です。言い換えれば欲望とは人間の愛に対して総合的な罪の源だということです。イエス様は一般の人の考えの見直しを求めています。どんな時でも人生の素晴らしい経験の中で、欲張る心に縛られないように暖かく勧められています。
                               モヨリ神父


C年 第17主日

2016年07月20日 | 神父様からメッセージ(C年)


「ルカによる福音書11・1-13」
 初代キリスト信者の間の教えの中に、断食について話してから、主の祈りを教えられています。そしてイエス様が教えられたようにいつも祈るように勧められて、主の祈りは一日3回唱えるような習慣がありました。この祈りによって初代キリスト信者は独特なグループであることを実感しました。イエス様の福音書が照らす光によって、イエス様が教えられた祈りを深く理解出来ます。イエス様の祈りの意味は、福音書全体を通して明らかにされているからです。現在の教会ではマタイによる福音書に書かれたイエス様の祈りが使われますが、ルカの福音書にも主の祈りがもっと簡単な形で伝えられています。わずかな言葉で主の祈りを説明するのは難しいのですがしかし、ほんの少しだけでも、中身にそって主の祈りの素晴らしさを深めるようにしましょう。皆のお父さんである神様が、あなたの命によって、一人一人、人類の歴史を生かしてくださいます。人間的な考え方を乗り越えてあなたの思いをお伝えください。わたし達にとって、この世界にとってもあなたの思いは確実であり、未来の安心です。神の国のしるしを通してわたし達に必要なこと、霊的な、又物理的なことも全てお与えください。わたし達の罪を赦してください、そうすることによってわたし達もすぐに人をそうできるようなものになれます。いつもお父さんのように抱っこしてください。わたし達の愛するお父さんであることをちっとも疑わないようにしてください。いつもどんな悪いものからでもお守りください。イエス様が祈りを教えられてから、いつでも、力強く絶えず祈るように勧めています。イエス様が祈りを勧めているのはしつこく自分の思い通りの願いを得る方法ではなく、聖霊を願う方法です。なぜなら聖霊だけがわたし達に必要なことを祈りに転換して神様に届けることが出来るからです。
                          モヨリ神父 

C年 第16主日

2016年07月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
              
 キリスト信者とはこの世間に派遣された人です。イエス様に従ったものは皆、一人残らず派遣されています。実はイエス様自身この世に使わされて神様の心を示すことにしました。派遣されたキリスト信者の目的はイエス様と同じように人の心と体を癒し、命をもたらし、悪と戦う、清い心で神様を見ること、人の心に神様の平和を送りこむことです。イエス様に派遣去れて行ける場所は世界の全て、全ての人類の全人生です。つまり自分の居場所、それぞれの役割に応じて、家庭、職場、関わる共同体のことです。そして出発にあたり必要とされるのは持ち物や道具ではなく、イエス様の勇気、イエス様の憐れみ、イエス様が教えられた愛情だけで十分だとイエス様は何回も繰り返しおっしゃっています。布教の時に物理的な支えは、邪魔なだけです。イエス様の平和をもたらすのが最高の目標です。
 
「ルカによる福音10・38-42」
 ある研究者は、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会った時、「ラブニ」(意味=わたしの先生)と呼んでいたことにとても驚いて困っています。なぜなら当時女性たちは、偉い先生の弟子になるのが許されていなかったのです。しかし当福音書で明らかにされたのは、イエス様が当時のラビ(先生)の間に初めて女性を弟子として認められたことです。このようにマグダラのマリアは女性にとって新しくイエス様に従う形のはじめになりました。またマルタとマリアの出来ごとの物語は、イエス様の弟子になる方法を語られています。キリスト教の中でマルタは活動する生活の象徴であり、マリアは感想的な生活の象徴です。最初の修道生活を送る兄弟の共同体の中でマルタ、マリア、ラザロがいました。その中にマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。さてこの表現は独特な発言に聞こえますが、実は当時のラビの弟子になることを示しています。使徒パウロもイスラエルの法を勉強する為にエルサレムに行った時に同じ言葉を使って、ガマリエルの弟子になったことが示されています。だからマリアはイエス様の弟子になったことで、イエス様がはっきりとそれを一番いい方法を選んだとおっしゃいます。注目するところはまだあります。ルカの福音書の当個所の直前に、イエス様がサマリア人たちに拒否されましたが、ここでマリアとマルタが心からみ奉仕とみ言葉を聞いたことによってイエス様を受け入れています。それがイエス様にふさわしい接待になりました。現在、優しい心でボランティアの奉仕が広がっていますが、キリスト信者にとってより深い思いから発生します。まずイエス様の言葉を聞き、それを受け入れ、小さい者におられるイエス様自身に使えることが出来ます。普通にキリスト信者は、奉仕活動によってイエス様に対する愛情を示すことになると考えるのですが、イエス様が今日の福音書で強調するのは、イエス様の言葉を聞きいれた後にこそ、より大きな愛を示すことが出来るということです。       モヨリ神父      

C年 第15主日

2016年07月07日 | 神父様からメッセージ(C年)
 2016・7・10

「ルカによる福音書10・25-37」
 時代を通して、よきサマリア人のイエス様の例え話はいくつかの形で解説されましたが、有名になったのは教父たちの解説です。それは良きサマリア人はイエス様です。追いはぎに襲われた人はキリスト信者です。追いはぎは罪です。通りかかる祭司とレビ人は救いまで至らない人間の力を表しています。傷の上に注がれた油とワインはイエス様の慈しみと憐れみのことです。襲われた人が乗せられたロバはイエス様の人間性を示し、どのようにイエス様がわたし達の弱さを背負ってくださるかを象徴しています。宿は教会を象徴し、宿の主人は司祭のこと、デナリオン二枚とは二組の秘跡を示しています。しかし近代の解説によって、良きサマリア人の例え話の中に新たな特徴が強調されています。当福音書では、二つの質問が基本となっています。一番目、何をして永遠の命を受け継ぐでしょうか。二番目はだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。このようにイエス様がイスラエル人の考えから新しいメッセージを宣べています。永遠の命を得るには、神様と隣人と自分も愛さなければなりません。人間はイエス様の言葉を聞いて、神様のご計画に従ってその命を全うした時にこそ、神様が自分を愛し大切にされていたことを示すことになります。しかし隣人を愛するとはどのようなことでしょうか、確かにイエス様が良きサマリア人のやり方を真似するように勧めています。しかし、それだけではなく、聞き手の人にイエス様が新たな質問を投げかけます。「あなたは誰の隣人になっているのですか」と。正しく神様への愛と自分への愛を理解すれば、隣人への愛はキリスト信者にとって、欠かせない心の形、言い変えれば慈しみと愛のある心となっています。慈しみと憐れみはキリスト信者の心の土台であり、常に苦しんでいる人の立場に立てるように勧められています。
                                      
                          モヨリ神父