カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 待降節第一主日

2008年11月29日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
序文
「時雨」秋から冬にかけて、急にぱらぱらと降っては止む雨のことですが、そんな冷たい雨の中でもお茶の花は咲いています。白色五弁のふっくらとした姿を見せる花で、詫びと寂の風情が日本人に愛されています。菊池地方のお茶の産地は山間部まで広がりお茶の花をたくさん見ることができます。いつも素晴らしい大自然に恵まれて、待降節の第一日曜日を迎えることになりました。降誕祭の準備に入るころに赦しの秘跡を受けることは、もっともふさわしいことだと思います。神様の慈しみと憐みに支えられて、イエス様の誕生を新しい心で迎えることになります。イエス様はご自身が神の子でありながら、私たちのところに来ようとしておられます。その出会いのために、完全に赦されて、喜びに満ちた心で準備して、来られるイエス様を受けいれる心を持ちましょう。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9
今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。
マルコによる福音書 13・33-37
マルコ福音記者の福音の個所は待降節の雰囲気へと皆を導いています。待降節の欠かせない課題はいくつかありますが、それはマルコの福音書に取り上げられています。まず、いつも目を覚ましているように誘われています。このような誘いは4回も繰り返されています。マルコ福音記者はこの場合だけではなく、イエス様が、ご受難の直前にゲッセマネに弟子たちと一緒におられたとき、居眠りをする弟子たちに目を覚ましているように勧められたと記しています。つまり、気をつける、試練中自分の身を守る、真実を理解することです。なぜなら神様が私たちの喜びを求めながら働いています。だからどんな時でも、どんな出来事においても神様と会える場となります。イエス様が語られるたとえ話の主人が、いつ帰ってくるか知らなくても、僕にとって恐ろしいことではありません。むしろ希望と楽しみで満ちた期待となっています。だから、常に信じるこころで祈りながら、再び会える、帰ってくる神様を期待しましょう。                      モヨリ神父


毎週の一言 A年 王であるキリストの主日

2008年11月22日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

暑かった10月から一転、今月は急に寒い日が多くなりました。先週末からの寒さで、慌ててコートを出した方が多かったのではないでしょうか。今週後半はいったん寒さが緩み、小春日和となりましたがしかし、来週に入ると新たな寒気が流れ込み再び寒くなります。このごろ落ちつつある葉、すでに落ちた葉、ともに「おちば」と言います。その落ちる様子、音、散り敷く状態に風情があり、無常を感じさせるものがあって、多くの人が心を寄せています。それに従って、神様の出会いをいつも求める私たちに、寿命の短さを思い起こさせます。しかし、同時に神様のみ摂理には、葉が落ちても神様に大切にされます。王である主の日を迎えるわたしたちには命の日を祝い、共同体の宴会の時になっています、神様は喜びであふれるメニューを準備されています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りを貧しい人と分かち合う時になっています。

使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28
使徒パウロはいろんな話題に踏みつけるとキリストから発進して、キリストに戻ることになっています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っています。使徒パウロによるとイエス様が来たのは死者が命を得るためです。使徒パウロの思う死者とは体で亡くなった者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者のようなものです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来ました。皆を神様の方に取りもどすためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の心に戻るのは確かに使徒パウロがおっしゃったように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、最後にその他の者全て、そしてどんなことでも神様のところにもどります。このようなことは宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標であり、イエス様が人間を悩ませる敵、その中の死にもまで打ち勝って、皆をもともとあったように神様のふところにすべて取りもどしたいのです。

マタイによる福音書 25・31-46
ローマのバチカンのシスチーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後審判が力強く見事に描かれました。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対、欠かせないのは私たちのすぐそばにあるものはイエス様自身です。そして周囲にあるものたちに何かしたことがあればイエス様自身にされたことになっています。そう実感することによって人間の喜びと救いが携わっています。
モヨリ神父

毎週の一言 1 - 32 (A 年 年間第三十三主日)

2008年11月15日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

七五三は11月15日に、三歳、五歳の男児、三歳、七歳の女児を祝う行事です。熊本では、男児女児とも三歳の髪置、四歳の紐解に当たる子が、親に付き添われ着飾って氏神様に参拝し、お世話になった方々を招き小宴を張ったりします。今まで、息災に育ってくれたことへの感謝と、この後の健やかな成長を祈る、思いのこもった晴れやかな祝いごとです。この時こそ、神様は私たちの命であることを思い起こしましょう。神様の命、人間の命、自然の命を区別しがちですが、実際にすべての命の創造を支えてくださるのは神様です。日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げましょう。
この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も創造と人生のしめくくりの時について話してくださいます。

使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6
この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。

マタイによる福音書 25・14―30
典礼の今年の最後の日曜日に向けてイエス様は、とても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標になっています。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾りますが、そのことに気付いた人、またその賜物を生かした人を誉められました。再び帰ってくるイエス様を大きな希望を持って積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様から、さらに大きな報いを得ることになっています。
                               モヨリ神父

毎週の一言 1- 31 (A 年 ラテラン教会の献堂)

2008年11月07日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
小春日和に、時ならず返り(帰)咲く花のことを、「忘れ花」ともいいます。本来返り咲く桜のこといいますが、その他にそれぞれの花の名もつきます。葉も乏しくなった枝先に咲く返り花には心安らぐものがあります。ヨーロッパでもこの頃、好天が続き楽しい物語につながっています。ツールの聖マルチノは司教になる前は兵士でした。雪の降る冷たく寒い11月のある日、聖マルチノが田舎の道を歩いていると、道端で薄い服を着た物乞いの男に会います。早速、聖マルチノは刀を抜いて自分のマントを半分に切り裂き、寒さで震えている男に施しました。その時、それを見た神様も微笑んで小さい春を呼び起こして地球をあたためました、そして花々も思わず咲き始めたということです。当祝日はローマの教皇様にたいする敬愛を示すラテラン教会の献堂祭日です。安息日に何度も病人を癒された主の日であるイエス様が、毎週日曜日は心と体の癒しの日であることを教えてくださいました。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 3・9-17
コリントの信徒への手紙を通して、聖パウロはイエス様の教会はどのようなものであるかを明確な言葉で話してくださいます。「あなた方は神殿なのです」と聖パウロは力強くおっしゃっています。この表現によって、イエス様の教会は石で作られたものではなく人間、つまりキリスト信者の心と体で作られていると告げられています。そのように教会は生きる神様がおられる場所なのです。さて、イエス様に従った者たちの心は、生きておられる神様のおられる場所であり、神様と対話するところです。それに従って私たちが人間の命、人間そのものの尊さを覚えるようになりました。それだけではなく聖パウロの言葉により、キリストの教会である私たちの共同体は、崩れることのない土台の上に建てられているとおっしゃっています。その土台は洗礼を通して神様から頂いた御恵みなのです。私たちは神様を讃える善行を行い、それによって皆にイエス様の姿や心をも見せることができます。そして聖パウロの教えでは教会の欠かせない特徴は、すべてのキリスト信者が皆、聖霊で結ばれていることです。だからキリスト信者の教会は共同体であり、お互いに尊敬をもって愛し合い、分かち合い、一緒にお祈りが出来る神様の住まいなのです。
ヨハネによる福音書 2・13-22
今日のヨハネの福音書は、イエス様が自分の父である神様の家(神殿)から商売人を鞭をもって追い出しています。当個所はイエス様がなさった印によって私たちの信仰を深めています。イエス様自身が神様の神殿であることを公に宣言されています。神様を拝むところは独特な場所だけではなく、皆の心の中に神様がおられて出会うことができ、対話し拝むことができます。イエス様は自分自身が神様の神殿であり、生きている神様がおられる所であることを示しながら、私たちに豊かなメッセージを残してくださいます。キリスト信者の共同体である教会自体もイエス様の体なのです。イエス様は殺された後、復活されました。同じようにイエス様の体であるキリスト信者も死んでもイエス様と共に復活します。このようにイエス様自身と教会は一体となって、神様が宿るところであり、神様のありのままの姿を示しています。
                         モヨリ神父

毎週の一言 1- 30 (A 年 - 死者の日)

2008年11月01日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

[霜降]文字通り、霜の降り始める頃という意味です。霜は気温が約3度以下に下がると降りやすくなる。このごろ県内は季節はずれの陽気で、最低気温3度とは程遠い日が続いています。しかし、雨が降ったあと今週末からは、寒気が流れ込んでくると急に気温が下がります。菊池地方の山沿いは3度近くまで下がる日もありそうです。このような自然現象はより深い意味で全く同じように旧約聖書の中に取り上げられています。それは神様の言葉の働きを示しています。それだけではなく、人生の短さをも示しています。霜のように人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命もとても短いです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 4・14-5・1
人間はどんな時代でも死とその後を恐れて、不安と脅威に苛まれていたと思います。それを知った聖パウロは慰めの言葉をコリントの教会の信徒たちに伝えています。洗礼によってイエス様と一体となった私たちは、イエス様と同じように神様の力によって、死から復活することになっています。イエス様と共に復活した私たちは豊かな恵みによって神様の栄光になります。それで私たちは感謝の心をもって喜びます。聖パウロが詳しく言うように、このような神秘的な世界は私たちの体の目で見えるところではありませんが、心の目で見られる真実になっています。なぜなら私たちは永遠の命に存続しているからです。この聖パウロの個所の最後には感動するほど身近な言葉が伝えられています。私たちが憧れている実家はこの体やこの世の住まいではなく、イエス様が準備してくださった天国の住まいです。そこにいつか皆で、永遠に住むことになっているのですから大きな希望を持つべきです。
ヨハネによる福音書 6・37―40
死者の日の思いは諸聖人の祝に関する背景とも同じです。つまりイエス様に従った者たちはイエス様と一緒に永遠に生き、イエス様と一緒に普遍的な共同体になっています。生きている間の私たちもこの共同体もイエス様のものです。偶然ではなく神様の働きによってイエス様に出会った私たちもイエス様のものになって、イエス様の下でひなが親の羽の下にいるようになりました。
イエス様はだれも追い出さない、むしろ一人ひとりを大切にしてくださいます。なぜなら私たちは、神秘的な計画によってイエス様の手に任せられています。もし、この世に生きている私たちがイエス様と同じように神様のみ心に従うならば、神様の思い通りに生きることができるならば、私たちも聖パウロがおっしゃるように復活することになり、神様の懐で永遠に生きることになります。これはキリスト信者としての大いなる希望なのです。                        
モヨリ神父