麦の収穫の時期が近づいてきました。麦秋の景色を眺めながらイエス様の例え話の中の、いくつかの感動的な麦畑が登場する場面を見てみましょう。「収穫が多いが働き手が少ない」と言う言葉でイエス様が自分の心の大きな願いを示しています。毒麦と良い麦の例えでは、イエス様が神様の慈しみと憐れみについて話してくださいます。また麦の種が土に落ちて、死ななければ実らないと、イエス様がご自分の愛、ご自分の人生をたとえています。そして良い土に落ちた種は60倍、80倍、100倍にも実ることになっています。このようにイエス様が神様の言葉をたとえられています。それを受け入れる人は、今頃の麦の穂のように豊かに実るのです。けれど麦をすりつぶし、粉にしてパンを造ることで、イエス様がご自分の体、ご自分自身、ご自分の心と存在を示しています。地中海付近では昔から、麦で造られたパンは特別な顕示台で、行列して麦畑の間を通って運ばれ、イエス様の聖なる体として讃えられました。その時にイエス様の体を祝いながら、その小さな麦の種は、人間の労働の実りと共に、神様の神秘的な体となり、人間の救いの心を示していました。
「ルカによる福音書」 9・11b-17
初代教会からイエス様の体、聖体は教会の一致のしるしであり、教会を養育する食物だと考えられています。聖体は復活祭の記念であり、歩き続けるキリスト信者を支える食べ物で、永遠の命の希望であり、教会全体の宝です。イエス様がパンと魚を増やしたことによって、聖体の意味を弟子たちから私たちに至るまで伝えました。貧しく、困っている群衆にご自分がなさったように、弟子たちにも自分が食べ物になって食べさせるように勧めています。それはイエス様がパンと魚を増やした時に、最後の晩餐と同じ動作と言葉を行ないました。つまりパンと魚を祝福して、弟子たちに与えました。当時の第一の奇跡は小さなものから、つまり五つのパンと二匹の魚を分かち合ったことによって、五千人が食べ満腹できたことです。その時、自分に従った者に対して、特に弟子たちに対してイエス様がご自分の心を示しています。イエス様が自分に従う貧しい人、人里離れたところまでもイエス様を追ってきた人を大切にし、見守りながら、パンと魚を食べさせることによって養い育てています。聖体を祝う時に教会は、イエス様の死と復活を、イエス様が再び帰って来られるまでを宣言します。それによって罪を犯した人は赦されます。そしてご自分がされたように弟子たちに自分自身、自分のことを人々に食べさせるように勧めています。実はこれは愛の究極の姿です。イエス様が自分自身を食べ物にして、人と全て分かち合って皆を支える食べ物となりました。それは神様の最高の愛のしるしであり、それが聖体の祝いの意味なのです。
モヨリ神父
「ルカによる福音書」 9・11b-17
初代教会からイエス様の体、聖体は教会の一致のしるしであり、教会を養育する食物だと考えられています。聖体は復活祭の記念であり、歩き続けるキリスト信者を支える食べ物で、永遠の命の希望であり、教会全体の宝です。イエス様がパンと魚を増やしたことによって、聖体の意味を弟子たちから私たちに至るまで伝えました。貧しく、困っている群衆にご自分がなさったように、弟子たちにも自分が食べ物になって食べさせるように勧めています。それはイエス様がパンと魚を増やした時に、最後の晩餐と同じ動作と言葉を行ないました。つまりパンと魚を祝福して、弟子たちに与えました。当時の第一の奇跡は小さなものから、つまり五つのパンと二匹の魚を分かち合ったことによって、五千人が食べ満腹できたことです。その時、自分に従った者に対して、特に弟子たちに対してイエス様がご自分の心を示しています。イエス様が自分に従う貧しい人、人里離れたところまでもイエス様を追ってきた人を大切にし、見守りながら、パンと魚を食べさせることによって養い育てています。聖体を祝う時に教会は、イエス様の死と復活を、イエス様が再び帰って来られるまでを宣言します。それによって罪を犯した人は赦されます。そしてご自分がされたように弟子たちに自分自身、自分のことを人々に食べさせるように勧めています。実はこれは愛の究極の姿です。イエス様が自分自身を食べ物にして、人と全て分かち合って皆を支える食べ物となりました。それは神様の最高の愛のしるしであり、それが聖体の祝いの意味なのです。
モヨリ神父