カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 C年 年間第十八主日

2010年07月29日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「真の愛徳は互いの精神的一致を求めます。そこに至るには柔和と相手の考えに護歩することが一番です。」
                                    聖フランシスコ・サレシオ
素麺は奈良時代唐から伝えられた唐菓子の一つ「索餅」(麦縄とも書く)で、国内では奈良桜井市が発祥の地とされる。小麦粉を食塩水でこねて、ごく細くする為に胡麻油などをぬって伸ばします。一年寝かせたものが味が良いとされます。これを茹でて冷やしたものを冷素麺と言います。食欲の落ちる夏場には涼味を呼ぶ食品としてかかせません。また、この苦しい暑さの中で風鈴の音にそよ風を感じる時、体だけではなく心まで涼しさがしみ込んで大きな喜びを味わいます。風のように、風鈴の音のように神様の言葉はわたし達の心に届きます。その音、またそよ風は聖霊と神様の存在をたとえています。神秘的に神様が語ってくださることは多いのです、命について、真理について、愛について話されていますから、それに耳を傾けなければなりません。わたし達にたくさんの良い行いも勧めてくださいます。人間であるだれでも、神様の神秘的なしるしを探し求めています。神様のしるしは、そよ風のようにわたし達の中で思いを変えて、素晴らしい世界、神様のふところの愛を見せてくださいます。八月のルカの福音書の個所の特徴は、神様の思いです。あるいはどのようにして人間と違って神様が考えてくださるのかを語られています。
ルカ福音書12・13-21
キリスト信者は出来るだけ欲張らないように生きるとをイエス様の言葉に強調されています。今日のミサの最初の祈りも、自己中心的な心から、欲張りな心を解放できるように神様に願っています。人間は自力でこのような欲望から自身を解放することができないので、それに打ち勝つ為に神様の力と支えが欠かせないのです。
ところで、ルカの福音書のテキストは二つに分けられていますが、両方の場合とも、欲張る心にならないようにとのイエス様の注意につながっています。神様は自分より財産を頼る人を望まれないし、人生の成功も財産を目標にして望む人は神様の前に豊かになりません。当福音書の第一部は自分の兄弟と分けようとする遺産についてイエス様に相談に乗ってもらうように願うのです。第二部は自分に出来た財産について満足して喜んだ人の思いのたとえ話です。上記のたとえ話に正しい望みが含まれていても、イエス様が強調するのは、どちらにしても欲張る心も隠されてあるから、注意しなければならないということです。自分に対する正義を求める時、あるいは自分の出来た仕事に対して喜ぶのは当たり前ですが、物や財産に欲張りな心がとらわれれば神様の心から離れてしまいます。実はイエス様が批判されるのは自己中心的な心の態度で、そして全て自分の為に何でも欲しがりながら、隣人には何も分かち合わない心です。このように「欲張り」という単語によってイエス様が心の硬さ、偶像崇拝、自分の欲望を満たすために人の尊さと権利を踏みつける心の態度も示し、その改心を求めています。だからイエス様が注目されるのは単なる欲望のことではなく、人に対する無私の心です。言い換えれば欲望とは人間の愛に対して総合的な罪の源だということです。イエス様は一般の人の考えの見直しを求めています。どんな時でも人生の素晴らしい経験の中で、欲張る心に縛られないように暖かく勧められています。
                                  モヨリ神父


菊池市紫光書道会の作品

2010年07月27日 | メッセージ(その他)
大圓寺の墨染桜               
私が墨染桜に心引かれて、再び寺小野大圓寺を花の頃訪ねたのは三月も末の二十八日でした。「菊池ふるさとかるた」に読まれた土地を巡る会に参加したことがあり、この大圓寺の境内にひそかに花を咲かせている「墨染桜」が奇妙に私の心に残っていたからです。「墨染桜」の言葉が、何かの事情によって仏門にはいられた人の、人生の無常を感じさせる響きをもった言葉であったのかも知れません。菊池十四代当主菊池武士が南朝の武人として活躍したが、ついに竹迫の合志幸隆により菊池本城を占領され、家門の汚れることを悲しみ、菊池武光に家督を譲り、二十一才の若さで仏門に入り、「寂照」として修業に出た。全国行脚の途中この大圓寺に立ち帰り、過ぎにし昔を回顧して、今は盛りと咲く桜に無常の心を寄せて詠んだ歌が、「袖ふれし花も昔を忘れずば我墨染をあわれとは見よ」 いかにも、菊池武士の家に生まれた宿命とその悲哀が、切ないまでに感じられ、栄枯盛衰を映して流れる菊池川と菊池の歴史に思いをはせて歌碑の前に佇んでいました。爛漫の桜の中に散り急ぐ花の姿を見るにつけ、菊池武士の哀れともおもわれる心が、「墨染桜」の名の由来かと……。胸に迫るものを感じておりました。歌碑の近くにいかにも年古りた桜が苔をつけているのを見つけ、ちょうど近くに居られたお年寄りの人に、「墨染桜は、どの木ですかネェー」と尋ねましたら、「その木じゃなかですかナァー。」と指さされて、「ずい分古木になっとりますナァー」といって眺めておられた眼が印象的でした。
秋月順子

毎週の一言 C年 年間第十七主日

2010年07月23日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「ミサは驚くほど力があります。心は深いなぐさめに満ち溢れるでしょう。」聖フランシスコ・サレシオ

7月23日頃を旧6月末の月の中気といい、一年中で暑さがもっとも厳しく、時々大雨が降り、蒸し暑くなる「大暑」と言います。「夏の土用」はこの節季に入ります。山肌に沿って流れ落ちる水、草の間から滲みる水、水底からこんこんと湧き出す水。どのような清水も清冽で手に触れて冷たく、口に含めば歯にいたいほどです。また夏空にむくむくと湧き上がる入道雲の学名は積乱雲です。陶淵明(とうえんめい)の「夏雲奇峰多し」などから作られた言葉です。白く濃くいかにも力強く紺碧の空や海に良く映ります。この時期の野外活動の花であるキャンプは、学校の夏の行事として、かつて盛んに行われました。親元を離れて泊まるキャンプは子供たちの夢であると同時に、集団生活のルールを覚える場でもあります。さて、海に出た船に欠かせない道具は磁石盤(じしゃくばん)コンパスです。同じように歩きつづける人も磁石盤コンパスの助けによって、困難の中でも安全に目標に向かうことが出来ます。イエス様に従う人は自分の人生の中で磁石盤コンパスのような機能を持っています。それはイエス様のみ言葉です。そのみ言葉を受け入れれば、それについてイエス様と相談しながら、暖かく神様と話し合うことが出来ます。それに基づいて神様に祈りながら、み言葉によってイエス様の仲間になったものたちは、その磁石盤コンパスに誘導されて人生の嵐の中を安全に通り抜けることが出来ます。イエス様の言葉は時の判断の基準になり、神様に親しむ方法です。選択する光です。嬉しい出来ごと、悲しい出来ごと、どんな出来ごとでも正しく神様のみ旨の通りに読み取る方法です。
ルカによる福音書11・1-13
初代キリスト信者の間の教えの中に、断食について話してから、主の祈りを教えられています。そしてイエス様が教えられたようにいつも祈るように勧められて、主の祈りは一日3回唱えるような習慣がありました。この祈りによって初代キリスト信者は独特なグループであることを実感しました。イエス様の福音書が照らす光によって、イエス様が教えられた祈りを深く理解出来ます。イエス様の祈りの意味は、福音書全体を通して明らかにされているからです。現在の教会ではマタイ福音書に書かれたイエス様の祈りが使われますが、ルカの福音書にも主の祈りがもっと簡単な形で伝えられています。わずかな言葉で主の祈りを説明するのは難しいのですがしかし、ほんの少しだけでも、中身にそって主の祈りの素晴らしさを深めるようにしましょう。皆のお父さんである神様が、あなたの命によって、一人一人、人類の歴史を生かしてくださいます。人間的な考え方を乗り越えてあなたの思いをお伝えください。わたし達にとって、この世界にとってもあなたの思いは確実であり、未来の安心です。神の国のしるしを通してわたし達に必要なこと、霊的な、物理的なことも全てお与えください。わたし達の罪を赦してください、そうすることによってわたし達もすぐに人をそうできるようなものになれます。いつもお父さんのように抱っこしてください。わたし達の愛するお父さんであることをちっとも疑わないようにしてください。いつもどんな悪いものからでもお守りください。イエス様が祈りを教えられてから、いつでも、力強く絶えず祈るように勧めています。イエス様が祈りを勧めているのはしつこく自分の思い通りの願いを得る方法ではなく、聖霊を願う方法です。なぜなら聖霊だけがわたし達に必要なことを祈りに転換して神様に届けることが出来るからです。
                      モヨリ神父 

毎週の一言 C年 年間十六主日

2010年07月16日 | メッセージ(その他)
エス様のことを愛される皆様へ、

「魚が水の外に出たら、自由を失うように、理性のある霊魂は神から離れる時、奴隷になります。」
フランシスコ・サレシオ
お盆は7月13日から15日まで行う魂祭りのことです。以前は仏壇に盆棚を作り、真菰を敷き野菜の初物を供え、僧侶を招いて先祖の霊を慰めました。前年の盆以後に死者を出した家を新盆、初盆といいます。親族たちが新盆見舞いの訪問をするのが礼儀とされています。都会ではおおむね7月、地方では8月に行っていますが一定はしていません。このお盆の頃で夏の風物のひとつである金魚はふなの変種で、16世紀初めに中国から渡来し、観賞用の出目金、蘭鋳などの種類があります。『金魚をじっと見ている、目は金魚に向いているが、心は違うことを考えている。父と仲良く金魚すくいをしたことを思い出したりしている。ひとりでいる日暮れのさびしさ、金魚鉢から父がぬうっと出てくるような雰囲気も感じられます。』
さて、キリスト信者とは派遣された人です。イエス様に従ったものは皆、一人残らず派遣されています。実はイエス様自身この世に使わされて神様の心を示すことにしました。派遣されたキリスト信者の目的はイエス様と同じように人の心と体を癒し、命をもたらし、悪と戦う、清い心で神様を見ること、人の心に神様の平和を送りこむことです。イエス様に派遣去れて行ける場所は世界の全て、全ての人類の全人生です。つまり自分の居場所、それぞれの役割に応じて、家庭、職場、関わる共同体のことです。そして出発にあたり必要とされるのは持ち物や道具ではなく、イエス様の勇気、イエス様の憐れみ、イエス様が教えられた愛情だけで十分だとイエス様は何回も繰り返しおっしゃっています。布教の時に物理的な支えは、邪魔なだけです。イエス様の平和をもたらすのが最高の目標です。
ルカによる福音10・38-42
ある研究者は、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会った時、「ラブニ」(意味=わたしの先生)と呼んでいたことにとても驚いて困っています。なぜなら当時女性たちは、偉い先生の弟子になるのが許されていなかったのです。しかし当福音書で明らかにされたのは、イエス様が当時のラビ(先生)の間に初めて女性を弟子として認められたことです。このようにマグダラのマリアは女性にとって新しくイエス様に従う形のはじめになりました。またマルタとマリアの出来ごとの物語は、イエス様の弟子になる方法を語られています。キリスト教の中でマルタは活動する生活の象徴であり、マリアは感想的な生活の象徴です。最初の修道生活を送る兄弟の共同体の中でマルタ、マリア、ラザロがいました。その中にマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。さてこの表現は独特な発言に聞こえますが、実は当時のラビの弟子になることを示しています。使徒パウロもイスラエルの法を勉強する為にエルサレムに行った時に同じ言葉を使って、ガマリエルの弟子になったことが示されています。だからマリアはイエス様の弟子になったことで、イエス様がはっきりとそれを一番いい方法を選んだとおっしゃいます。注目するところはまだあります。ルカの福音書の当個所の直前に、イエス様がサマリア人たちに拒否されましたが、ここでマリアとマルタが心からみ奉仕とみ言葉を聞いたことによってイエス様を受け入れています。それがイエス様にふさわしい接待になりました。現在、優しい心でボランティアの奉仕が広がっていますが、キリスト信者にとってより深い思いから発生します。まずイエス様の言葉を聞き、それを受け入れ、小さい者におられるイエス様自身に使えることが出来ます。普通にキリスト信者は、奉仕活動によってイエス様に対する愛情を示すことになると考えるのですが、イエス様が今日の福音書で強調するのは、イエス様の言葉を聞きいれた後にこそ、より大きな愛を示すことが出来るということです。       モヨリ神父


毎週の一言 C年 年間第十五主日

2010年07月10日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「自分の望みを少なくすればするほど、人は神のみ旨を多く果たすようになります。」
聖フランシスコ・サレシオ
「七夕」、旧暦7月7日、またその日の行事を言います。牽牛星と職女星が一年に一度会うという古代中国の星合いの伝説があります。この日に詩や歌、願い事を短冊に書いて七夕竹に飾り、手習いの上達等を祈ります。この頃の稲の苗は成長してどんどん分蘖(ぶんけつ)※を始め、目を見張るばかりの美しい青田に変わってきます。そこを吹く風により、青稲が揺れ渡る景を「青田波」と呼びます。暑さも徐々に募ってきますが、最近は居間に散らばり、台所に置かれていた団扇も、すっかり影が薄くなっています。しかし、使ってみると、ことに、「来民の渋団扇」は昔も今も実用に耐える強さがあり、時を重ねるほどに柿渋の色合いも深みを帯び、一種独特の風格を感じさせます。
さて、初代キリスト信者の間には、確かにイエス様が皆の心と体を癒されると信じる覚悟があったと思いますがしかし、人の目に見えない復活されたイエス様が、どのように人を癒し続けるのだろうかという疑問が残っていたと思います。それには福音記者の皆が、イエス様の活動を語りました。復活されたイエス様がたとえ人の目に見えなくても、すべての人を、罪人でさえ愛し、どのように癒し続けているかと言う疑問に答えるようにしました。癒してくださるのは信仰をもった祈りの中の願い、そして他人の為に祈り願うことです。特別に病人はイエス様の言葉によって癒されます。イエス様があるいはイエス様の代理人である弟子が、手を伸ばして人の上におかれることによって癒されます。信仰によってイエス様に触れて関わる時、命であるイエス様はわたし達の命を支え、取り戻してくださいます。
ルカによる福音書10・25-37
時代を通して、よきサマリア人のイエス様の例え話はいくつかの形で解説されましたが、有名になったのは教父たちの解説です。それは良きサマリア人はイエス様です。追いはぎに襲われた人はキリスト信者です。追いはぎは罪です。通りかかる祭司とレビ人は救いまで至らない人間の力を表しています。傷の上に注がれた油とワインはイエス様の慈しみと憐れみのことです。襲われた人が乗せられたロバはイエス様の人間性を示し、どのようにイエス様がわたし達の弱さを背負ってくださるかを象徴しています。宿は教会を象徴し、宿の主人は司祭のこと、デナリオン二枚とは二組の秘跡を示しています。しかし近代の解説によって、良きサマリア人の例え話の中に新たな特徴が強調されています。当福音書では、二つの質問が基本となっています。一番目、何をして永遠の命を受け継ぐでしょうか。二番目はだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。このようにイエス様がイスラエル人の考えから新しいメッセージを宣べています。永遠の命を得るには、神様と隣人と自分も愛さなければなりません。人間はイエス様の言葉を聞いて、神様のご計画に従ってその命を全うした時にこそ、神様が自分を愛し大切にされていたことを示すことになります。しかし隣人を愛するとはどのようなことでしょうか、確かにイエス様が良きサマリア人のやり方を真似するように勧めています。しかし、それだけではなく、聞き手の人にイエス様が新たな質問を投げかけます。「あなたは誰の隣人になっているのですか」と。正しく神様への愛と自分への愛を理解すれば、隣人への愛はキリスト信者にとって、欠かせない心の形、言い変えれば慈しみと愛のある心となっています。慈しみと憐れみはキリスト信者の心の土台であり、常に苦しんでいる人の立場に立てるように勧められています。
                                    モヨリ神父
(※分蘖(ぶんけつ:稲・麦等で、根に近い関節から茎がふえて出ること。かぶはり)


毎週の一言 C年 年間第十四主日

2010年07月02日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「何も要求せず、何も拒まないという金言を、あなたの心の中に刻み、生きてください。」
聖フランシスコ・サレシオ。

「半夏生」、夏至から十一日目の七月二日ごろです。田植えの終わるころで、梅雨明けもこのころとされています。この日が晴れか雨かによって今年の稲作の状況を占うなど、地方によって農事に関するいろいろの風習やもの忌みがあります。半夏生という、葉の半分だけ白くなる草が生じるのもこのごろです。 
さて、イエス様に従う素晴らしさを味わってみましょう。イエス様がメシアであることを何度も知らせますが、それはわたし達一人一人を大きな愛情で包む方であることを知らせてくださいます。同時にわたし達と一緒にずっとおられ、共に歩み、わたし達の日々の十字架も担い、わたし達の心と体を癒してくださいます。すべてのわたし達の過ちを赦し、わたし達の為に死んで、わたし達に普遍的な喜びを備えてくださいました。わたし達を支える食べ物になるほど、わたし達の心の中に宿ってくださいました。 どうして、わたし達にとってイエス様は一番、重要な人だと思わないのでしょうか、どうしてわたし達にとって欠かせない者になりませんか、どうして一人でも多くの者がそれを知らせる人にならないのでしょうか。是非、信じる共同体に尽くす喜びを持ってください。イエス様の神秘的な存在をわたし達の中に持って豊かに味わうようにしましょう。
ルカ10・1-12・17-20
弟子たちにイエス様が与えたのは「シャローム」です。普通に「平和」という言葉に翻訳されますが、実際には「神様の思い通りに生きる」と言うことを意味します。だからイエス様から与えられた賜物である「シャロ―ム」は、それを受け入れた弟子たち、そしてイエス様に従った者達からわたし達に至るまで、再びいろんな人に与えるようにイエス様から勧められています。当福音書のメッセージは、神様から与えられた喜びと慰めが誰にも与えられていることです。この福音書は三つの部分に分けられています。72人の派遣、宣教する方法とその活動の心、そして72人が帰って来た時の達成感と喜びです。イエス様に任命された弟子は場合によって72人だったり、70人だったりと古い書物に記されています。それについてはどちらともはっきりと決めることができません。ある解説者によると当時知られていた全世界の民族は72だったそうです、だからイエス様は当時知られていた全世界の民族に弟子たちを派遣されたということなのです。そのように派遣はイエス様の先生としての心の広さが示されています。
当時の狭い考え方を乗り越えて、イスラエルの民族だけではなく全世界の人々に神様の心を告げ知らせる為に、イエス様が「シャローム」をすべての人々に与える為に弟子たちを派遣します。イエス様の派遣は祈りから始まります。イエス様の派遣は行動よりまず信仰から始まり、その派遣は神様のみ心に忠実に従う行動です。神の国は強制的なメッセージではなく、貧しい中で弟子たちは人の心に神の愛を勧めています。派遣された弟子たちは、場合によっては受け入れられたり,拒否されたりする時を迎えますが、イエス様は全ての力を宣教活動に属し、そのためだけに努めるように暖かく弟子たちを励ましています。当福音書は大きな喜びで終わります。イエス様に派遣された弟子たちは帰ってくる時に、いろんな出来事を語りながら自分の成功したことを自慢しますが、それよりも、自分の名前が天国に記されてあることをイエス様から大いに喜ぶように勧められています。
                                モヨリ神父