カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週お一言 B年 年間第二十六主日

2009年09月23日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛する皆様へ!!

断続的に雨が降り続いて、北イタリアではずいぶん寒くなりました。もう暖炉やストーブを焚いて家の中でずっと過ごすようにしています。この頃はその火を囲んで、何か食べながら雑談したりするのも楽しみのひとつです。そしてワイン用のぶどう狩りの季節が始まっています。昔のように足でぶどうを踏むのではなく、高性能の機械を使います。美味しい葡萄酒が期待されています。叉、落ち葉は地面に積み重なり山の色が薄くなって、山の稜線がくっきり見えるようになりました。イタリアでは今週から子供達の学校が始まりました。イタリアでは制服はほとんどありませんが、子供たちは本で一杯の、ランドセルより大きなリュックサックを背負い、親に送ってもらって通っています。それから、この周辺の村の教会はミサの時にいつも人でいっぱいです。それを見ながら日本でもそうなったらいいなあと思っています。そして全世界の宣教地から帰って来た仲間の神父たちと再会を楽しみました。しかし皆の白髪が増えるにつれて、病気や年齢の足跡が体のそこここに見えるようになりました。けれども皆、ほほえみながら自分の心の喜びと満足感を現わしています。皆が神の国のために働くことで、神様は皆の心の中に大きな希望を吹き込み働いたことに対して百倍以上の報いを与えてくださいます。
マルコによる福音書 9・38-48
いきなり当福音書のことばに耳を傾けようとしても、すぐには理解しにくいイエス様の表現がいくつもあります。どうしてイエス様が体から切り離す部分のことについて話すのでしょうか。イエス様が自分の弟子たち、自分に従った者たちに向かって話します。イエス様に従った者たちとはキリスト信者で作られた教会のことであり、イエス様を愛する共同体のことです。だから、イエス様の体である教会は、復活された尊いイエス様の体になっています。さて、イエス様が言われる目を取りのぞくこと、また手足を切り離すこととは、共同体の中で痛むところ、あるいは順調に動かせない部分について話しておられるのです。人間の体全体は普通に考えれば各部分は体のために働き、体全体を支えていてそのために定められています。さて、イエス様が話されたように場合によって、共同体の中には、イエス様の体にふさわしくない部分、支える部分ではない人もいます。その時、イエス様の体である教会全体を守るためにイエス様が究極的な行動を勧めています。つまりイエス様の大事な体である共同体から、一部を切り離すことです。同時に、マルコの福音書ではイエス様の寛大な心も示しています。共同体の思いに同調しない人でも、教会から離れてしまったことがあっても、イエス様の心を再び思い起こし共同体の働きに立ち戻れば、イエス様のみ胸に叶います。言い換えれば一度切り離されたその人も、イエス様の仲間であり、復活されたイエス様の体に属しています。さて、このイエス様の言葉を通して、イエス様の良い訪れを覚えて、寛大な心を持ちましょう。慈しみと憐みで満ちた教会の心はイエス様自身であり、復活されたイエス様の体そのもので、いつもその御心のように働いているべきです。
                            モヨリ神父




毎週の一言 B年 年間第二十五主日

2009年09月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

秋の色が少しづつ、あたりの風景を染めていきます。秋の色、秋の食べ物を楽しみましょう。日本の秋はカラフルで、ぶどうや栗や柿、お米など見事な収穫の季節を迎える時です。イタリアでもこの季節に静かな風景の中、人々は山で散歩したりするのを好み、それぞれの村で秋祭りが行なわれて大きな楽しみとなっています。私は故郷に帰って、天国にある皆の故郷を度々思い起こして、いつかその国へ帰ることを思っています。また、故郷の教会に足を運び感じるのは良い関係で結びついている共同体の暖かさです。実は暖かい共同体はカトリック教会の特徴です。たとえて言えば巣のような所というよりもお母さんの腕の中のようなところであり、神様の懐と同じです。慈しみと憐みで満ちたところで、すべての失敗や弱さを赦していただけるところです。
マルコによる福音書 9・30-37
細かく当福音書を読むと、宝石のようなところが多くありますから、それに気づくようにしましょう。イエス様がガリラヤを通って行かれたとあります。ガリラヤは布教の地域のシンボルであり、一般の人、弱い人へのイエス様の愛着も示しています。イエス様は目立たない所を好まれ、私たちの側、心の中も通っておられるのに気づかない時が多いのです。沈黙の中、イエス様は自分の存在を知らせず、人の出会いだけを求めて教え、人の心と体も癒しています。当時、イエス様が人にご自分の使命と運命を説明した時に(つまり、皆の愛のために十字架につかれること)自己中心的な生活だけしか求めない人は、イエス様の話をよく理解できなかったのです。だからイエス様が自分のメッセージを理解しやすい課題を提示ました。まず権力を求めた弟子たちに、人を支配するよりも弱い人皆に仕え、自分の人生を奉仕することは神様の心に叶う理想だと強調しました。そして、イエス様が小さいもの、つまり子供や、お年寄り、病人を自分のように受け入れるように勧めています。人を受け入れることはイエス様に従った私たちにとってどういうことなのか、具体的に考えてみたいと思います。教会では、叉ミサの前に新しい人、初めて教会に足を運んだ人、小さい人、お年寄りや子供も歓迎します、これはとても大切な教会の役割です。その心の態度は教会の名刺であり、教会の看板になります。このように教会の心を、教会の姿を表します。だから教会ではぜひイエス様が勧められたように、誰でも受け入れることを大切にしましょう。大切に受け入れて歓迎された人は、未信者であったとしても、イエス様自身が受け入れて歓迎されるのです。
                         モヨリ神父


毎週の一言 B年 年間第二十四主日

2009年09月11日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

イタリアでも穏やかな天気がつづいて、紅葉前のまだ緑濃い山は青空に包まれてくっきりとその姿を誇示しています。しばらく日本を離れて故里に戻って、地球はとても小さく感じられます。日本とイタリアの生活と風景もほとんど変わりない気がします。神様のみ言葉も、人間の心もはるかにこの地球の大きさを超えています。神様の慈しみがどこをもこの地球をすべて包んでいます。故郷を再び見ることができて、親、兄弟、親戚に再会して大きな感動の時でした。多くの思い出と共に、新しい建物や路も目について人間が神様と一緒に創造主になって美しい地球を作りつづけていることを実感します。叉、亡くなられた方々のかわりに新しく生まれた赤ちゃんの楽しい姿を見かけたことも嬉しい出会いでした。神様からいただいた人生、命、喜びは人間にとってかかせない贈り物であり、そのために感謝の歌のように生きることを勧められています。日本から離れても、皆さんの姿を思い出しています。日本の素晴らしさ、日本人の心の深さと暖かい愛情も忘すれられません。思い出は人間の心身にしみこんで、一生、切り離すことは絶対できないことです。この地球のどんな所ででも、喜ぶ人がある一方で、自分の十字架を苦しみの中で運ぶ人もいます。どこでもどんな人間の人生にもかかせない苦労があり、そこは神秘的な神様との出会いの場になっています。この思いの中で、菊池や山鹿で出会った皆さんはこのように自分の心の中で深く残っています。
マルコ8・27-35
イエス様に従うことは「とく」であると言われて、疑う人は少なくないと思います。「とく」であることは、商売の中で宣伝・広告の中でもよく使われた言葉であり、はっきりした意味の言葉です。イエス様に従って、福音のために自分の命を失い、自分の十字架を背負って本当に「とく」でしょうか。はい!イエス様が「とく」だとはっきりと宣言します。むしろ、そのように生きようとすれば、救われるとおっしゃっています。イエス様の人生は花道のような生き方ではありませんでした、けれども苦しみを受けてその死後、復活の喜び、栄光の誉れを味わう事が出来ました。さて、当福音書の神様の言葉の光に引かれて、イエス様の足跡を踏み、歩み続ける私たちの運命はちょうどイエス様の運命と全く同じになるのです。イエス様に従い毎日の様々な出来事、苦しみを、愛を込めて受け入れることができれば、イエス様と一緒に十字架を背負うこと、イエス様と一緒に歩くことになります。皆さんも経験したことがあると思いますが、旅行中ツアーの中で一緒に歩いた人と知り合って、深いところまで友達になったことはないでしょうか。同じようにイエス様と一緒に歩きつづけた人は、イエス様と深く出会いイエス様を深く知ることができたのではないでしょうか。だからその人たちはイエス様が当福音書の中でされた質問に答えることが出来ます。本当にイエス様は私たちの人生の「とく」であり、私たちの救い主なのです。
                         モヨリ神父


毎週の一言 B年 年間第二十三主日

2009年09月01日 | 神父様からメッセージ(B年)

花野は秋の七草をはじめ、さまざまな草花が咲き競う原野です。高原などは花野の風趣を十分に味わうことが出来ます。華やかさの中に昼の虫の音も聞こえ侘びしさも伴っています。このときこそイエス様の言葉が浮かんできます。空の鳥、田圃の回りに野山に、咲く花を大切するのは神様のみ摂理です。小鳥を食べさせたり、花を綺麗に装ったりする神様は人間から目をそらしません。人間は自分の未来、自分の日常生活のために心配することは必要ありません。イエス様が安心するように心配しないように勧めてくださいます。神様のみ摂理は小鳥や花も大切にするように私たちの一人一人を大切にします。さて、9月8日頃を白露といい朝夕には山野にしらつゆが宿り、秋の気配が感じられる季節です。セキレイが鳴きはじめ、つばめが去っていきます。
マルコの福音書7・31-37
紀元前740年頃、イエス様の誕生の前に預言者イザヤがメシアの到来を予想した時に、目の見えない人は見るようになり、耳の聞こえない人は聞くようになる時として予想しました。だから当福音書で語られた奇跡は口のきけない人の癒しだけではなく、メシアとしてイエス様の到来をイザヤから予想したように示しています。現在のように孤独に閉じこもった人はイエス様の力で人生の素晴らしさに心と体も「開く」ことになります。それにこの「しるし」によってメシアとしてイエス様が新しい時代を開かれたことも見せるようにします。福音書で語られている奇跡は魔術的な奇跡ではなくイエス様が公に行われて、心の勇気を与えてくださる奇跡です。ひとは神様の素晴らしさを語るようになり、神様の言葉が聞こえるようになります。それでイエス様が奇跡について誰にも話さないように、口止めを守るように命じます。なぜなら神様は沈黙の中で、私たち一人一人に話しています。イエス様はご自分の心をコマーシャルを通して啓示するのではなく、神秘的な沈黙の中でご自分の心を開かれるのです。神様は沈黙の中に話してくださいます。沈黙の中に神様との出会いが実現されます。沈黙の中に普遍的な音楽のような神様の言葉の素晴らしさを聞くのです。だから福音書に書いてある通り、イエス様がなさったことはすべて素晴らしいのです。イエス様が私たちの心をも奇跡的に開くようになさいます。実は「エッファタ」というような言葉で洗礼の時に私たちの耳、心や口も神様の言葉へ開きます。いつでも人生の巡礼の間、私たちがいろんな方法で神様の言葉を聞く時にそれはイエス様の力強い奇跡であり、私たちの孤独に閉じた心と体も神様の素晴らしさに開きます                モヨリ神父