カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 三位一体の主日

2010年05月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
夏の豊かな緑が雲のようにあふれて私たちの背景を包んでくれています。自然の中に暮らしている私たちは、緑の雲の上に浮かんでいるような気がします。木々の若葉が萌え立ち、葉桜も日々濃くなっていくころです、暑さが感じられるようになります。それを「薄暑」と言います。
今週は三位一体の主日に向かっています。神様について、皆に温かい心で話したくてたまりませんが、それについて語ろうとしたとき、うまく伝えるのはなんと難しいことかと深く感じています。 三位一体とは神様の自己紹介です。ちょっと哲学的、神学的な表現ですから説明しても、神様のイメージはすぐには身近に理解出来ないと思います。けれどもお祈りの中で、神様の神秘を黙想しながら理解できるように、神様について感動的な心が燃える話を心に留めるようにしたいと思います。神様はだれも見たことがありません。しかし、イエス様が身近にその心、その姿を語ってくださいます。神様に向って、お祈りさえ知らなかった弟子達に、イエス様は次の言葉を教えて神様の姿を見せました。「天におられる父よ」神様は私たちのお父さんであり、私たちといつも共におられます。皆のお父さんであり、皆を大きな愛情で包んでくださいます。このようにイエス様が神様の心を語ってくださいます。「み名が聖とされますように」神様は私たちのお父さんであり、素晴らしい唯一の方です。私たちの心を大きな喜びで満たしてくださいます。そして、全てのものよりも偉大であり、全てのものよりも一番大切で欠かせないものです。このように神様の名前は高められています。「み国がきますように」神様の国は小さいもの、弱いものの国であり、愛の国です。そしてその「国」はイエス様自身です。神の国はもうすでにあなたたちの間にあるとイエス様がおっしゃっています。その時、イエス様は神の国は自分自身であることを示しています。この国はどんなことよりも価値があって、小さくても宝物のようなものです。大きな力を持ち、どんな人をも含んで大きな木のように成長し、遠くまで心の枝を伸ばしています。次に「み心が天に行われる通り地にも行われますように」神様の神秘的な心は聖霊です。つまり聖霊は御父とイエス様の心を結びながら、神様が愛で燃える心を示しています。その愛の中に私たちのことも含まれています。聖霊は私たちと一緒に歩みながら、私たちを見守り導き、私たちの人生の計画を組み合わせています。私たちの過ちを、いつも大きな心で赦してくださいます。
ヨハネによる福音 16・12―15
今日の福音書も、聖霊の力で神様の姿を悟らせていただきながら読み進んでいきたいと思います。 イエス様が御父の愛を示す為にこの世に来られて、私たちの友、兄弟になり、私たちと一緒に歩んでくださいました。イエス様に担われたり、引っ張られたりする時がありましたが、愛する愛される道だけを教えてくださいました。その愛は無償で普遍的で、神様だけが示している愛です。神様は誰をも滅びないようにと望まれるので、どうぞ大きな希望を持って前向きに歩むようにしましょう。神様は私たちを必ず、大きな喜びのあるところに導いてくださり、腕をひろげて私たち一人一人を待っておられます。キリスト信者の心に降って来られる聖霊は、キリスト信者に真理全体を告げ知らせ、真理の光の元に導いてくださいます。真理とは神様についてのことと人類の救いであるイエス様の死と復活についてのことです。真理の世界に入ることによってイエス様の心を知り、同時に神様の心を見つめることが出来ます。それが出来るのは聖霊の光によるのです。弱い人間にとって真理を知ること、真理を究めるのは簡単なことではありません、しかし聖霊の賜物である知恵、理解、判断、勇気によって、真理を完全に理解するまでに導かれています。イエス様の死と復活によって、人類が神様と和解し、神様の友情に取り戻されました。聖霊によって真理、愛、命である神様の心を知ることが出来ました
                                 モヨリ神父         

毎週の一言 C年 聖霊降臨の主日

2010年05月21日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、
芍薬(しゃくやく)はアシア大陸東北部の各地に自生します。日本の記録は「仙伝抄」に見られ、江戸時代には園芸植物として発達しました。熊本では薬用として蕃滋園に植えられ、その一部が「花連」の人々の品種改良により、好みの芍薬が生みだされました。花のもりあがりの大きいほど良品とされています。紅、白、桃色にふくらむつぼみの風情や満開のさまは夢幻の美しさです。また、黒と白の構成美を誇る熊本城は、そのシンボルともいわれる楠大樹の森に支えられて威厳を保っています。楠は多くの樹木の中でもっとも巨大で長寿であり、5月の芽立ちのころの美しさはたとえようもありません。「小満」とは5月21日ごろで万物次第に長じて満つると言う意味で、草木も茂り実を結び、田植えの準備の頃です。入梅の時期です。
さて、世界中のカトリック教会は聖霊降臨の祝日を迎えます。聖霊降臨は教会のお祝いであり、教会の構成が聖霊によって作られた共同体であることを祝っています。聖霊はイエス様の息吹、イエス様の心の音、イエス様の愛です。十字架につけられたイエス様が息を引き取った時にその息をご自分の弟子、私たちにも与えるようにしました。その息でキリス信者はイエス様と一つになって生きています。そして復活されたイエス様は怖がっている弟子たちのところに現れた時に、彼らの上に自分の息を吹きかけて、弟子たちに大きな勇気、力、光を与えました。その息によってイエス様の教会は全世界に広まり始めました。初代教会の時から聖霊降臨はペンテコステと呼ばれて復活祭の7週間後の祝いでした。もともとイスラエル人にとって麦の第2収穫の祝いで、また神様と愛の約束の更新の祝い、または神様の法を受け入れる祝いでした。キリスト信者は主の昇天の祝いが過ぎた時、ペンテコステと言う祝いの時季が終わろうとしたところに、聖霊降臨の祝いを重ね合せました。その時キリスト信者は教会の誕生を祝い、新しい神様と愛の結びを思いながら、新しい法、つまり、神様の愛の法を受け入れる祝いを始めました。
ヨハネによる福音書 14・15-16、23b-26。
聖霊降臨はイエス様の約束を実現する時であり、教会の時代の始まりであり、皆が神様の栄光を自分の人生で誉めたたえる為に呼びかけています。聖霊降臨祭は復活節を締めくくり、教会自体がこの世の中で目に見える聖霊降臨の証になります。教会を通して聖霊は豊かな賜物を与え、至る所で人々を信仰と希望と愛に導いています。聖霊によって宇宙万物は神様の愛で満たされていて、教会は光で照らされ、人類の一人一人に神の子として生きるように呼びかけています。聖霊は人々の中に降ってきて、多数の異文化の中で、心と言語の一致を与え、同時に神様は皆のすぐそばにおられる友人であることを知らせています。聖霊はキリスト信者とイエス様の心を結び、イエス様と一緒に復活させ、神の子として生かされています。当福音書は特別に聖霊とイエス様の言葉とキリスト信者の愛の間に深い結びを示し、このような結びは神秘的な事実の一つであることを示しています。聖霊によってイエス様の言葉は神様の言葉であり、イエス様を愛する人はイエス様の言葉を守り、同時に神様を愛し、神様の言葉を守っています。神様の言葉を守るとは基本的に神様の掟を守ることです。その掟は二つで、イエス様を信じることとイエス様のように愛することです。聖霊が皆の心の中でイエス様の言葉を思い起こして、イエス様の言葉を解説しながら、理解させながらそれを生かしています。私たちの目の前でこのような舞台を開かれる聖霊は、イエス様に従った者の心の勇気と限りない喜びになっています。本当にキリスト信者は孤独なものではなく、このように聖霊に満たされ、乾くことのない泉に人生の力を汲んで、豊かに永久に生きています。イエス様は私たちの「命の泉」(聖霊)です。
                              モヨリ神父


毎週の一言 C年 主の昇天の主日

2010年05月15日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「更衣」(ころもかえ)といえば、陰暦四月一日から冬着を夏着に変えることで、秋の更衣とは区別されています。平安時代に宮中儀式として始まり、江戸時代に制度化されて、やがて庶民の生活習慣として定着し継続してきた行事で、近年までは五月中旬ごろに一斉に夏服にかわったものでした。昨今では、一斉に「更衣」が実施されているのは制服着用の学校や官公庁がほとんどです。さて、この頃森や草原で「カッコウ、カッコウ」とのどかに鳴く鳴き声がそのまま名前となった「郭公」(かっこう)鳥は、日本では「閑古鳥」と呼ばれ、古くから歌に詠まれてきました。五月ごろ南からやってきて、十月ごろ帰って行く渡り鳥で、鳩ぐらいの大きさです。ほととぎすと同じく宅卵で、ほおじろ、百舌などの巣に卵を産みつけ、自らは子育てをしないのです。
本題に入って、最近五月に教会よりもキリスト信者の家庭でロザリオを唱える習慣がひろがりつつあります。日常生活の喜びと苦しみの場である家庭で、いつも見守ってくださるマリア様に祈る事はとてもふさわしいことです。皆の家庭はいつもマリア様に守られて、神様にとりなしてくださるマリア様から支えられています。次に主の昇天の祝日を迎えながら、昇るという言葉を検討してみましょう。まずお日様が高いところに昇ることを表しています。高い立場、その位置も示しています。さてイエス様はお日様のように天の高いところ、全ての上に昇って地球を照らし、温めて、命を育てています。お日様が昇ったところは大変高いところで、人間には簡単に行けませんから、神様がおられるところを示しています。しかしお日様は自分の日差しによって、人間の心を照らしあたためて、命の成長を守っています。天に昇られて神様になったイエス様も全く同じことです。
ルカによる福音書 24・46-53
使徒たちの宣教による主の昇天の物語とルカの福音書の主の昇天の物語は、同じ著者で書かれているのに微妙な違いがあります。使徒たちの宣教には歴史の流れに注目しながら、イエス様が復活されてから四十日後、弟子たちの目の前で天に昇られました、一方ルカの福音書によるとイエス様が復活された後、すぐにその晩、天国に上げられました。このような違いがあり矛盾することもありますが、神様の目には時間のことは一瞬でも、何日後かであっても人間との出会い、人間とのかかわりはいつも時間的なことは論外に見られています。さて現在の時代に復活されたイエス様は皆の目の前から消えてしまわれても、私たちの間におられて時間が霊的に流れることのない時代が始まりました。私たちの救いと喜びと栄光の時代です。イエス様の教会の成長に注目する使徒たちの宣教は歴史の中で歩み続ける出来事を語り、時間の中で神様の働きを述べています。実際に新しい教会を生み出した人たちは復活されたイエス様の神秘を理解するため、完全に受け入れる為に時間がかかりました。イスラエルの古典では、「先生の教えを覚えるために弟子は40日間かかります」と。イエス様の死と復活の神秘を覚えるため、その心を受け入れる為にこのようにしばらくの時が必要でした。聖書の物語によると、確かに初代教会にとって、旧約聖書の流れに入るため、イエス様の言葉、イエス様の神秘的な存在を受け入れるのは簡単なことではなかったのです。その時、初代教会は成長の苦しさを感じながら、厳しい時間のながれを体験しました。上記のような矛盾を理解しながら、イエス様の発言に関して、もうひとつ、理解をもとめる矛盾的な言葉があります。イエス様が「これからずっとあなた方と共にいる」と約束しながら、天に昇って弟子たちの目の前から消えられたことです。しかし、イエス様はご自分の人間的な姿が消えても、ご自分の言葉、共同体、秘跡、貧しい人、の中にいつも別の形で私たちと一緒におられるのです。
                                 
モヨリ神父

毎週の一言 C年 復活節第六主日

2010年05月07日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、
山野に新録が目立ち、風もさわやかになり、ようやく夏の気配が漂い始めました。蛙が啼き始めます。湖や川、海などに清々しい風が吹き渡っています、若葉の間から洩れてくる陽が、水辺にゆらゆらと揺れます。若葉を通した木洩れ日のよろしさは、この上もありません。山開きは熊本では阿蘇山が4月29日に行われます。日本の登山は山缶宗教や民間行事と密接な関係がありました。夏の一定期間に限り禁を解いて「山開き」といいます。山を祭る神社では開山祭を、秋の初めに閉山祭を行うのが例であった。今の山開きはスポーツとしての登山開始を意味するようになっています。5月に教会から特別に大切にされた「母の日」を迎えることになりました。母の日は、限りのない感謝の心を示す時です。キリスト信者は自分の母を通して神様からいただいた命を大切にしながら大きく感謝を表します。もちろんまず自分の生母ですが、それに十字架の下でキリスト信者を任命された皆の母としてのマリア様です。マリア様はイエス様のお母様でありながら、イエス様の内に生きる者たちのお母様です。神様の母であるマリア様は私たちをずっと見守って、私たちの為に神様に取りなしてくださいます。それで5月はマリア様にささげられた月として、キリスト信者がいろんな方法でロザリオを唱えて神様の母であるマリア様を誉めたたえながら、お祈りささげます。マリア様は母として私たちの弱さ、苦しみ、労苦を見ておられますので、その中でいつも私たちの祈りを聞きいれてくださり慰め、見守っていてくださいます。キリスト信者にとって、マリア様は欠かせない存在で、いつでもマリア様のご絵、ご像、メダイなどを見てなんでも願って祈ります。そして、主の昇天の祝日を祝います。イエス様は天国に昇られましたが、天国はどこに置かれてあるのか、これはキリスト信者にとって欠かせない課題です。ではルカ福音記者の福音書を通して、答えるようにしてみましょう。
ルカによる福音書24・46-53
これから復活の喜びを味わった教会全体やその典礼も、大きな情熱を持って主の昇天と聖霊降臨の祝日に向かっています。当福音書はイエス様の最後の晩餐の話の一部を紹介しています。基本的に4つの課題が取り上げられています。1)イエス様に対する愛はイエス様の言葉を聞くことによってあらわすことが出来ます。2)イエス様は出てこられた神様の元にもどります。3)イエス様は弟子たちに弁護者と指導者として聖霊を送ります。4)イエス様が神様のところに帰る前に平和を贈り物として弟子たちに与えます。今日の典礼はイエス様の言葉を受け入れる人は聖霊を贈り物として与えられ、聖霊の宿になります。それはまさしく教会の心です。それに注目すべきことは、ヨハネの福音記者によれば、最後の晩餐の時のイエス様が話されたことはその時だけではなく、おそらく復活後も同じように話された可能性があります。イエス様を愛する人はイエス様の言葉を聞いて受け入れますがその時、先生であるイエス様と弟子としての関係を定められています。信仰によってキリスト信者は愛情で先生であるイエス様に結びついて従っています。キリスト信者はイエス様の言葉を聞き、理解し、身につけ、広めています。先生であるイエス様の言葉を弟子と私たちの心にとめることによって、神様の愛が自分の中に宿られたことを経験します。神様が教会に送り込んだ聖霊は、教会の中でイエス様が与えた言葉、教え、その心を実現する役割を持っています。聖書は大理石のように固まった言葉ではありません、聖霊によった生き生きした言葉であり、歴史の流れの中でいつも新しく、どんな時代でも人の心の中で燃えています。最後に「平和」も復活されたイエス様の贈り物であり、その平和は祈りや観想されたイエス様の言葉から発生します。キリスト信者は信仰によってそれを自分の心の中、共同体の中で造りあげるのではなく、むしろ発見するように誘われています。                   モヨリ神父

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