カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 年間第22主日

2015年08月25日 | 神父様からメッセージ(B年)

今年のお盆にも、多くの人は故郷に帰られて家族や知人達との久しぶりの再会の時をもたれたことでしょう。このような経験は誰にでもあります。この時こそ、私たち皆の欠かせない故郷を考えてみると大きな感動を覚えます。それは神様の懐です。そこで神様の命で生かされ、そのいただいた命を自分の人生で色々な良いことで豊かにし、それを感謝の心で神様にお返しし、やがて出てきた故郷に戻ることになっています。皆さんが経験したように、故郷の思いはいつでも私たちの人生全てを不思議な光で照らしています。故郷は私たちに懐かしい思いを与えてくれますし、いつでも戻れるような希望をも与えてくれます。故郷は自分の心、自分自身の一部ですから自分自身のように愛するところになっています。さて、その皆の最終的な故郷は神様の心です。大きな希望を持ちながら、誰でもこのような里帰りを憧れています。そして秋に向かい、大自然も私たちの心もカラフルな色で染まっていきます。大いに愛された者、何でも許された者は感謝の心をもって、いつでもどのように良い行いで神様の恵みを返すことができるのか考え、祈りながら豊かに良いことで染まった人生を送ります。
「マルコ福音書7・1-23」
 神様の前で大切にされるのは儀式よりも人間の心です。神様のお住まいになった人の心からも良い思いも、悪い思いも出てきます。神様は大きな愛情で人間に結びついて、愛の約束としていくつかのルール(十戒)を定めました。しかし時間が経つにつれて人間は神様との愛の約束のことを忘れて、ルールや法律を拡大しながらその数だけを増やしてきました。そしてその法律の目標を忘れ、その心の表面的な正しさを現わす形の方へ走るようになりました。その時に人間は神様との深い関係を忘れてしまいました。イエス様の話は人間の心の内側と外側を、その有り様を強調します。日本語の独特な言い方を使えば本音と建前の事です。イエス様にとって建前のこと、あるいは外側のことは、評価されないことです。人の目につく所だけから人の誉れと賛同を求めるからです。神様と係わるところではありません。人間の心は神殿であり、神様が宿るところで、良いことも悪いことも決める場です。そこで神様がご自分の愛情を現してご自分の姿を見せて、密接に人間の人生とかかわっています。ファリザイの人たちは、汚れた手を洗わないイエス様の弟子を責めています。確かに当時、このようなやり方は珍しく信じられないことだったようです。たとえば、数年後牢獄に入れられたラビ・アキバは手を洗わないで食べるよりも、ずっと食べないことはまだましであると言っていました。しかし、心の改新を求めるイエス様の答えは、預言者イザヤの言葉で答えようとします。その中にイエス様が求めるのは人間の心が神様に近づくことで、人間的な決まりによって離れないようにと勧めています。人間の心は神殿なのです。その中に聖霊が宿り、そこで神様を探し求めるところであり、美しさが存在するところ、光り輝いているところです。神様の御胸のように、良い計画、情熱、希望、決心も発生するところです。だから建物と違って、神様が肉でつくられた神殿です。つまり、イエス様に従った者にとってかかせない目標は、心と言葉、行いも一致させることです。                         モヨリ神父     
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B年 第21主日 

2015年08月17日 | 神父様からメッセージ(B年)


 キリスト信者は楽しい時も、苦しい時も感謝の心を忘れないようにしています。ミサは感謝の祭儀と言われていますが、その感謝は一緒にいるものに対する感謝であり、この宇宙を創造された神様に対する感謝、いつでもパンとしてご自分の体をくださるイエス様に対する感謝です。キリスト信者はイエス様の知恵を受けて、パンのような生き方を模倣しています。典礼暦では8月22日が天の元后聖マリアの記念日にあたり、私たちも天国の喜びを味わいます。そして教会が模範的な2人の聖人の祝日に向かいます。聖アウグスチヌスとその母である聖モニカです。美しさを探し求めた聖アウグスチヌスは、自分の心の中にそれを発見しました。一方天国で生きることを憧れていた聖モニカは、この世でも自分の心、自分思い、自分の夢はずっと天国にありました。自分の人生の目標として、天国に行くことだけを望んでいました。このような聖人たちの足跡は私たちにも参考になると思います。
「ヨハネによる福音書6・60-69」
 当福音書のテーマは、人間の人生の計画を神様の思いに合わせて、神様の観点から正しく送るということです。自分の人生の中で神様の存在に気付いた人は、神様のために生きる、神様の方に進んで行く、このように生きるのが絶対的な人生の方針です。神様は時代を通して、色々な時に人間にご自分の愛の約束を授けました。しかし皆さんが自分の人生で経験したように、人間の反応は様々でした。当福音書でパンについて、食べ物、肉となったイエス様の体の話を聞いた弟子たちも、信じ難く、戸惑ったとあります。「誰がこんな話を聞いていられようか。」このようなイエス様の話は聖霊の光によらなければ理解できないと思います。その光なしでは確かに無理だと思います。さて、そんな私たちのために、ペトロがイエス様に向かって大変綺麗な祈りを祈ります。「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」人間の心の中で信仰と理性はよく戦うものですが、救いを求める人間は、最終的にイエス様の言葉を受け入れるのです。使徒ペトロは使徒たちの代理として、自分の心の信仰を告白し、永遠の命をくださるイエス様は唯一の先生であることを宣言します。このような言葉で、使徒ペトロはイエス様の思いと一致して、完全にイエス様に従うように心の決意を現わしています。同時にイエス様は弟子たちに下さる永遠の食べ物について、神の聖者であるご自分の正体を現わしています。イエス様は人を集めるために自分のメッセージを和らげようとはしていませんでした。信仰と勇気のある人の心に呼びかけて、自分と同じように神様の思いに溶け込み、皆の食べ物になって生きるように勧めています。        
                          モヨリ神父
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B年 第20主日 

2015年08月11日 | 神父様からメッセージ(B年)

     キリスト信者にとっても亡くなられた親族、友人、恩人は、まだ生きている私たちに天国の方に大きな窓を開いてくださり、そこからこよなく美しい風景を紹介してくださいます。その中に天に上げられたマリア様の姿を見せてくださいます。マリア様は神の母であり、私たちに神様の姿、神様の心を示してくださいます。それだけではなく、仲介者として一人一人を見守っています。さてこの時、その普遍的な絶景のような天国に入るのを期待しながら、マリア様の取次を願い、涙をこぼし続ける人々のために祈ります。天国の神様の懐で、マリア様のほほえみ、私たちの愛情込めた祈りがご先祖に届くように期待されています。
「ヨハネによる福音6・51-58」
 イエス様の時代の律法学者たちは、メシアの食卓の客であると思われています。聖体をいただくのはイエス様と一緒に食卓で食物を食べるだけではなくイエス様自身、イエス様の体、イエス様の心をいただくことになっています。そうする人はイエス様と同じ運命に従って復活して永遠に生きています。イエス様は神様の心の知恵が肉となった「しるし」(秘跡)です。イエス様の肉を食べるものは神様自身の知恵とその心を受け入れ、神様自身をいただくことになります。ヨハネ福音書の命のパンについての長い章の中心になった言葉は「私は…天から下ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン」です。このパンは神様の肉、イエス様なのです。神様は苦しんでいる人に永遠の命を与えるために自分の肉、自分の知恵を食べ物とされました。イエス様の時代の人々にとっても私たちにとっても「イエス様の肉を食べ、血を飲むこと」という表現はとても厳しくて、驚くべきものです。しかし初代教会の時から今に至るまで、キリスト信者はその言葉を受け入れて信じてイエス様の命で生きることになっています。イエス様はこのような硬い話を和げようとはしません。イエス様の肉を食べること、イエス様の血を飲むことは人間的な世界では受け入れがたいものですが、神様の神秘的な世界の経験です。イエス様の時代の人々にとって肉と血のことは「命」そのものでした。今日でもこのように神様がご自分の命を与え続けています。現代こそ、今までのどんな時よりも人間が命を憧れているのではないでしょうか。自死する人は本当はより多く、深く、命を憧れています。神様はイエス様の体を通して人類と一致することによって、ご自分の心、ご自分の知恵、ご自分の命を私たちの心の中に永遠に注ぎ続けておられます。
                         モヨリ神父
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B年 年間第19主日 

2015年08月05日 | 神父様からメッセージ(B年)
  とても暑い時期に入ります。平和の旬間において欠かせない理想として世界の平和を祈りながら、教会の暦と信仰に関するいくつか大変素晴らしい祝日を迎えることになります。主のご変容の祝日(8月6日)、聖ドミニコの記念日(8月8日)、聖ラウレンチオの記念日(8月10日)、聖クララ記念日(8月11日)、聖マキシミリアノ・マリア・コルべ司祭殉教者の記念日(8月14日)、ご聖母の被昇天の祭日(8月15日)です。聖人たちの祝い、そして教会の祭日も、天国の方に歩んでいく私たちにとって、灯のようにまた矢印とも支えともなり、私たちに残された聖人たちの足跡は神様の方へ行く確かな道を示してくださいます。復活されたイエス様が贈り物のようにくださった平和の心は、この頃特に強く考えるように勧められて、次の世代のためにこの大切な価値観を築くように誘われています。そのために支えてくださるのは、丁度この頃お祝いする聖人たちの立派な生き方です。
さて、中でも聖母の被昇天はマリア様の祝いであり、私たちに天国の方に一つの窓を開いてくださいます。ぜひそちらの方に目と心を向けましょう。人生を鮮やかに色どる理想を見出すことができます。
「ヨハネによる福音6・41-51」
 キリスト信者にとって人生は巡礼に似ています。信仰がこの歩みを支えながら、永遠の命に導く道を照らします。ヨハネ福音記者がイエス様のことを、永遠の命の方に不思議に歩み続ける私たちの人生を支える天から降ってきた食べ物として紹介します。このように巡礼のような人生を送るのは、神様のことを知って憧れた人だけです。たとえば旧約聖書では、預言者エリアがオレブ山の方に歩んでいた時に、神様のパンに支えられて歩き続けました。当福音書の中心的なイエス様の言葉は:「わたしは…です!」このような表現は神様がオレブ山の上でモーセに伝えられた自分の名前を思い起こしています。次にイエス様が自分の正体を現わしながらつけ加えるのは「私は…天から降ってきたパン。」「私は…命のパン。」「私は…生きるパン。」当時の人々はイエス様のことを、その親戚やその出身もよく知っていたつもりで、イエス様が神様の権威をもって(私は…です!)と言われても、天から降ってきたことは分からなかったのです。神様が派遣してくださったイエス様を知る人、そしてそれを信じる人だけが永遠の命を得られます。荒野でイスラエル人たちが食べた食べ物はあくまでも食物であり、神話・伝承の中でいただいた食べ物でした。イエス様が伝承と現実的な世界を超えて、天から降ってきた食べ物であり、人間に命をくださる心の食べ物として現われています。このようなイエス様の姿を見せることで、私たちがイエス様を人間として、また言葉とメッセージとして、すべて受け入れるために呼びかけられているのです。天国の方へ旅の途中の教会は、天から降ってきた普遍的な食べ物に支えられて、イエス様の言葉において信仰を守りながら、いつか神の御顔を仰ぎ見る時に達することが出来ます。
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