カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A 年 復活節第2主日  

2014年04月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
わたし達は毎日の福音書の朗読から、復活されたイエス様の姿、弟子達や婦人達が見たことなど、イエス様と弟子達の出会いを、豊かな花の香りのように味わっています。復活されたイエス様が、迷っている、恐れている婦人達に「おはよう」とおっしゃっています。つまり、「私は早くから来ていて、あなた達のことをまっていた」と知らせたかったのです。

「ヨハネの福音書 」20・19-31
 復活節第二主日の福音書の内容は、トマスがイエス様の復活、つまりイエス様が生きておられることを信じなかったので、イエス様が弟子達に現れた時、トマスにも自分の体、自分の傷跡を見せ、触れるように勧められました。それによってトマスは信じました、けれどもその時にイエス様が強調されたのは、自分が復活したことを見ないで信じた者は幸であると言う事でした、と同時に、わたし達が復活されたイエス様を信じる時に、本当に幸せ、永久に幸せ、いつまでも大きな喜びを味わっている者だと宣言されました。使徒たちの間に、イエス様が復活されてから、確かに不信感も広がった時がありました。使徒トマスのように仲間の使徒たちの言葉を信じないで、自分の経験によるイエス様との出会いを求めた人もいました。トマスはイエス様と出会った時に、自分の手を傷跡に当てさせていただいたことよりも、イエス様がもたらした平和にとらわれました。イエス様がもたらした「平和」はめでたき挨拶だけではなく、同時に希望と預言になり、実現された出来事でした。「平和があなた方にあるように」とは、あくまでもイエス様(神様)のみ言葉ですから、人間の為の贈り物であり、おっしゃることは実現されます。それを受け入れる人、その平和を受け入れる共同体は変わり、豊かになって、新しい理想の中で生きるようになります。イエス様の平和の中で生きるキリスト信者は、意味深い喜びで満ちた人生をおくります。当福音書の個所は三つの部分に分けられています。第一部はイエス様が聖霊を贈り物として与えます、第二部はイエス様と使徒トマスとの対話、第三部はヨハネ福音書のしめくくりです。
 第一部 イエス様の使命の中で、もっとも重要なところは人に聖霊を送ることです。その贈り物の中身、あるいはその心は罪の赦しです。それに従って、聖霊に支えられた使徒たちの使命は、罪の赦しを告げて、それによって神様の心を見せることです
 第二部 使徒トマスの不信仰は、当時の使徒たちの共同体の中で問題になってきた不信感を表しています。当時、ある人にとって、イエス様の復活を信じるために弟子たちの証言が足りなくなってきて、自分の経験によって信じる人も現れました。しかしその疑問について、イエス様自身がこたえるようになりました。弟子たちの証言によって(つまり、見ないで、自分の経験がなくても)信じる人は幸いです。
第三部 ヨハネ福音書のしめくくりは、福音書の目標を表しています。福音書はイエス様の人生を語る書物というだけではなく、イエス様は神の子であり、メシアであることを信じる為に、いくつかの「しるし」を集めてくださった書物です。だから福音書は歴史的な記録ではなく、記録を並べた資料でもなく、信じる為に、永遠の命を生きるために書かれた書物であり、皆の心が大きな喜びで満たされる良き知らせなのです。
                                            モヨリ神父

A年 復活の主日

2014年04月17日 | お知らせ
           ご復活、おめでとうございます!!
大自然と共にわたし達の心の命、わたし達の夢がイエス様と一緒に復活しています。大自然も春分の日とお彼岸を迎えた後、季節はすっかり春になり、新しい服に着替えたような気がします。春は花嫁のように綺麗で、さわやかな香りに包まれ、家々の庭、野や畑、山に抱かれた森の中にも、春の入場を見る人の心を豊かな喜びで満たします。
「復活祭のヨハネの福音書 」20・1-9
 イエス様が復活されました。 イエス様は人類の罪、人類の弱さや苦しみを背負い、それを神様だけが持つ普遍的な力、愛の力によって死の闇を乗り越え、わたし達に赦しの復活、喜びの復活、命の復活を教えてくださいました。言い換えれば、体と心、心身で命の尊さを諭されました。今日、復活祭の喜びを味わいながら、この神秘的な出来事を深めましょう。聖書によると、週の初めの日、婦人達が朝まだ暗い内にイエス様のお墓に着いた時、それは空っぽでした。そこに葬られたはずのイエス様のご遺体はなかったのです。婦人達がイエス様の姿を見ようとしても見当たらなかったのです。あの時の婦人達が感じたことは、誰でも理解し易いと思います。彼らはすでにイエス様のご受難によって、心を騒がせていました。その上お墓の石が転がされていて、イエス様のご遺体は見当たりません。彼らの心は大きな痛みで抱かれました。しかしその時、体の目は心の不思議な光に照らされて、天使たちの声を通してイエス様が復活されたと悟りました。聖書に書いてある通り、イエス様は、お墓で蘇えられ輝いた姿を現わされました。それに気づいた婦人達の心は大きな喜びで満たされて、走って行きその素晴らしい出来事を告げ広めました。わたし達の場合、神様の不思議な恵みによって洗礼を受けましたが、どのようにイエス様の復活の体験を日常的に言葉で語ることができるのでしょうか。まず、人間が自分の人生が暗い時、苦しい状況の中、死の恐怖の中で、神秘的な方法でイエス様と出会うことが出来ます。わたし達が苦しんでいる時にこそ、イエス様は特別にわたし達のすぐそばにおられます。その時わたし達の力でその姿を見ることは出来ませんが、神様が送ってくださった心の光によって、イエス様の輝いている姿を見ることが出来ます。自分が苦しんでいる時に、失望した時に、その場でわたし達の苦しみを分ち合ってくださるイエス様のことを思い出すようにすれば、イエス様が約束された通りに、その出会いを実現することが出来ます。その新たな出会いによって、わたし達は大きな喜びを味わい、死から命の素晴らしさを見出すことができます。罪を赦されたわたし達が、愛する愛される自由を覚えた人間になれるのです。又、イエス様が十字架上で送り出だされた息吹によって、イエス様と一緒に復活し、永遠に生きることになります。「今日私と一緒に楽園にいる」復活とはキリスト信者にとって欠かすことのできない人生の経験です。それは自分自身を深く生きることによって、イエス様がもたらした救いの意味を身近に理解することが出来るのです。       

A年 四旬節第五主日

2014年04月03日 | お知らせ
 今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人達の為に欠かせない課題に踏み入ることになりました。それはわたし達の命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いでえらばれることです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、わたし達にとって神様からの最高の賜物です。又人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びつきになっています。わたし達は神様の息吹で生きているではありませんか。だから人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかしわたし達の弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は人は大切なものに気付くこと、また宝物を手にもっていることはそれを失うと言う悲しい経験によって知ることが多いのです。
「ヨハネによる福音」11・1-45
 イエス様は今日の福音書の中で命の尊さを教えてくださいます。ベタ二アのユダヤの町にイエス様の最も大事な友人がいました。それはマリアとマルタとラザロでした。 突然ラザロが亡くなって、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、泣くほど大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみに対して、人間の死に対しても心をかけておられ、深くその痛みを分ち合って自分の生涯全体で、自分の身に背負うようになさいました。 けれどもイエス様は神の子であり、神のいとしい命で生きるものでありながら、人間の苦しみ、人間の死、どんなに辛いことでも、神様と出会う場に変更されました。イエス様が使徒パウロの言葉を通して次のことを教えてくださいました。「わたしと苦しんで死ぬ者はわたしと生きる、永遠に生きる」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様が、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人に、復活であり命であることを示されたのです。わたし達の生きた経験では、実際にどのようにイエス様が復活と命であることを理解できるのでしょうか。その答えは、キリスト者にとって信仰の核になっています。各々の苦しみの中で、わたし達はイエス様とひとつであることを信じて実感すれば、そして神様もわたし達と同じ苦しみを背負ってくださったのだと理解すれば、わたし達は決して寂しい一人ぼっちではないことを、神様がご自分の存在と命の尊さを通して教えてくださいます。イエス様がわたし達の希望と喜びの道であり、目標であると受け止め、わたし達は神様の愛に包まれて、神様と同じ命で生き、その中で永遠に生きることを知らされます。              
                    
                                 モヨリ神父