カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第14主日

2016年06月27日 | 神父様からメッセージ(C年)


 イエス様に従う素晴らしさを味わってみましょう。イエス様がメシアであることを何度も知らせますが、それはわたし達一人一人を大きな愛情で包む方であることを知らせてくださいます。同時にわたし達と一緒にずっとおられ、共に歩み、わたし達の日々の十字架も担い、わたし達の心と体を癒してくださいます。すべてのわたし達の過ちを赦し、わたし達の為に死んで、わたし達に普遍的な喜びを備えてくださいました。わたし達を支える食べ物になるほど、わたし達の心の中に宿ってくださいました。 どうして、わたし達にとってイエス様は一番、重要な人だと思わないのでしょうか、どうしてわたし達にとって欠かせない者になりませんか、どうして一人でも多くの者がそれを知らせる人にならないのでしょうか。是非、信じる共同体に尽くす喜びを持ってください。イエス様の神秘的な存在をわたし達の中に持って豊かに味わうようにしましょう。
「ルカ10・1-12・17-20」
 弟子たちにイエス様が与えたのは「シャローム」です。普通に「平和」という言葉に翻訳されますが、実際には「神様の思い通りに生きる」と言うことを意味します。だからイエス様から与えられた賜物である「シャロ―ム」は、それを受け入れた弟子たち、そしてイエス様に従った者達からわたし達に至るまで、再びいろんな人に与えるようにイエス様から勧められています。当福音書のメッセージは、神様から与えられた喜びと慰めが誰にも与えられていることです。この福音書は三つの部分に分けられています。72人の派遣、宣教する方法とその活動の心、そして72人が帰って来た時の達成感と喜びです。イエス様に任命された弟子は場合によって72人だったり、70人だったりと古い書物に記されています。それについてはどちらともはっきりと決めることができません。ある解説者によると当時知られていた全世界の民族は72だったそうです、だからイエス様は当時知られていた全世界の民族に弟子たちを派遣されたということなのです。そのように派遣はイエス様の先生としての心の広さが示されています。
 当時の狭い考え方を乗り越えて、イスラエルの民族だけではなく、全世界の人々に神様の心を告げ知らせる為に、イエス様が「シャローム」をすべての人々に与える為に弟子たちを派遣します。イエス様の派遣は祈りから始まります。イエス様の派遣は行動よりまず信仰から始まり、その派遣は神様のみ心に忠実に従う行動です。神の国は強制的なメッセージではなく、貧しい中で弟子たちは人の心に神の愛を勧めています。派遣された弟子たちは、場合によっては受け入れられたり,拒否されたりする時を迎えますが、イエス様は全ての力を宣教活動に属し、そのためだけに努めるように暖かく弟子たちを励ましています。当福音書は大きな喜びで終わります。イエス様に派遣された弟子たちは帰ってくる時に、いろんな出来事を語りながら自分の成功したことを自慢しますが、それよりも、自分の名前が天国に記されてあることをイエス様から大いに喜ぶように勧められています。
                                        モヨリ神父

 C年 年間第13主日 

2016年06月23日 | 神父様からメッセージ(C年)


 マタイ福音書の課題として、イエス様の共同体内の人間関係が描かれています。イエス様が絶え間なく勧めているのは、大きな慈しみと憐れみで包まれた心を持つことです。確かにわたし達の目の中にある丸太は、わたし達の視野をせまくするので、いつも相手を寛大な心で受け入れることができません。イエス様が知らない人でも挨拶するように、また何か頼みごとをする人に、より大きく応えてあげるように、敵でさえも愛するように勧められています。敵にも一切仕返しを思わず、いつでも相手を尊敬しながら相手をイエス様自身であるように思い、お互いに傷付けられたことがあってもいつも赦し合うように勧められています。
「ルカによる福音書9・51-62」
 どんな人間でも皆が神様から独特な方法で招ばれています。神様の想像力である聖霊は、この世で神様に導くいろんな道を完備してくださいました。その道の選択によって誰でも、喜びをもって神様のところまで行くことが出来ます。だれでも、それぞれ神様から定められた道を通って神様の心まで、あらゆる形で達することができます。当福音書の始まりは、イエス様がサマリア人から拒否されたことを語っています。イエス様が人を救われるため来られたとき、返ってその人に拒否されました。このようにイエス様に従う弟子は、自分の先生の運命を受けて、人に拒否されること、自分の愛情を評価されないこと、自分の犠牲と奉仕を認められないことをも受け入れて、イエス様に従うことになります。弟子たちが先生であるイエス様に忠実に従ったことは、人間としての評価を受ける為ではなく、むしろ神様の誘いに忠実に応える為です。イエス様が自分に従う人に対して、そしてその従い方について注意します。イエス様に従う方法の一つは共同体に奉仕することです。しかしイエス様がそれに以外の目的も注意します。そしてイエス様に従う人は聖霊の導きに従うものになります。それはむしろ、イエス様から選ばれたものなのです。神様の呼びかけは人の現世の関係を消すことなく、しかし神様の関係を優先するように勧められています。イエス様にとって家族関係でさえ、神の国を広めることよりも大切ではありません、しかし、家族の関係は神の国を広めるために重要なサポートになっていると教えてくださいます。

                             モヨリ神父

C年 年間第12主日 

2016年06月14日 | お知らせ

 春分を過ぎると昼は目に見えて長く、夏至のころの夜は最も短くなります。夜のことだからさほど判然とはしませんが、なんとなく眠れぬ一夜、いつしか明るむ窓に驚いて目覚めるということはだれしも覚えがあるかもしれません。そこには一抹のわびしさとやるせなさといった感情もふくまれています。このわたし達が生きている人生も短い一夜のように見えますが、その後限りのない普遍的な一日の明るさが待っています。
また梅雨に入って田植えも進み、苗もほとんど植えられて田に広がり、成長する段階に入っています。その小さな苗、風にふらふらする弱い青草のような植物の中に大きな希望があります。キリスト信者も小さな祈りの中の、心にある弱い願いに大きな希望が含まれています。皆を大切にされる神様はいつもわたし達の小さな願いに耳を傾けてくださいます。それがわたし達の大きな希望になっています。自分に従った者達にイエス様は、神様になんでも頼むように勧めておられます、愛である神様は信仰を持っている人にとって欠かせない希望となっています。
「ルカによる福音書8・18-24」
 イエス様に従う人は、先生であるイエス様の心の通りについて行きます。イエス様が定められた生き方の通りに進むのは欠かせない条件です。自分を捨てて、憎まれて、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことは、実際にどのような意味があるのでしょうか。マルコの福音書によると、ペトロの信仰の告白は福音書の中心になっています。ルカの福音書では少し違いますが、マタイの福音書ではイエス様のご受難につながっています。それはどういうことかと言えば、選ばれた弟子がその先生に従って先生に倣って、先生の心をまず知るべきなのです。先生に従う、知る、自分の人生に受け入れるのは、大きな努力や真剣な決定の結果ではなく、祈りの中で生まれてくるものなのです。「イエス様が一人で祈っておられた時…」イエス様は自分のことを弟子たちに知らせ、わからせる時に、苦しみから喜びへの道を教えられます。このようにイエス様が自分の死と復活を予言し、このように自分の弟子の心とあり様を見ておられます。ルカの福音書によると、イエス様の弟子の特徴は五つあります。1)自由に選択する(わたしについて来たい人は…)2)自分の十字架を受け入れること (自分の十字架を背負って)3)忍耐を持つ(日々)4)従うこと(わたしについて)5)神様のみ旨の通りを考えて行うこと(わたしの為に命を失うものはそれを救うのである。)当福音書の注目すべき事は人間の心の自由です。マタイの福音書の中にも同じことが上げられています(もし完全になりたいのなら… わたしに従いなさい)。イエス様が自分の弟子になりたいわたし達を、暖かい心で無条件に誘っておられます。弟子になりたい人はイエス様の誘いを受け入れて、イエス様が教えられた通りに従うようになることです。

C年 年間第11主日 

2016年06月06日 | お知らせ


 キリスト信者には心の中に何にも左右されない、命である神様からいただいた沢山の賜物があり、それを味わって感謝しています。それは本当に幸いなものです。どうしてキリスト信者はこのように幸せであるかと言いますと、イエス様が言われたように、貧しい時、悲しむ時、柔和な時、儀を求める時にあなた方は幸せです。なぜなら困った時、より身近に素晴らしい神様の心をみてそれに倣い、そのために神様から大きな慰めを与えられています。それだけではなくイエス様の言葉を参考にするキリスト信者は、自分の人生を振り返って、その中で神様の働き、神様の贈り物、神様に助けられたこに気付きながら、神様の愛に包まれて自分が幸せであることを実感することで大きな喜びを味わっています。
「ルカによる福音 7・36-50」
 初代キリスト信者たちが赦しの秘跡をいただくのは、現在とちがって特別な出来事であり、人生の中で一回だけでした。しかし教会にはいつも、赦す心とその態度も憐れみ深い背景の中にありました。いつも罪人の回心と救いが求められていました。善行によっても罪が赦されていました。今日の福音書の課題は、イエス様が罪を犯した女を赦すことによって、わたし達に赦しの素晴らしさを語ってくださいます。当福音書の出来ごとにはイエス様の慈しみに対して、二つの心の態度を紹介されます。一番目はファリザイ人であるシモンの態度です。イエス様のやり方を批判し、イエス様のことまで見下しています。二番目はベタニアのマリアの行動です。マリアは寛容をもって、本当の愛情を見せながら、イエス様に自分の心を開きます。確かにイエス様は皆の心の中にある良いものを評価します。ファリザイ派のシモンの判断も、罪を犯した女の愛情も誉めています。イエス様は罪を強調しないで、むしろ愛の大きさを高めて、ファリザイ派のシモンが示したうすい愛情を見直すように勧めています。このようにイエス様が神様の愛は赦しの泉であることを示しています。神様の赦しはより大きな愛からわき出て、いつでもどんな時でも皆、ゆるしてくださいます。旧約聖書では神様はダビデの罪でさえ赦してダビデの命を守りました。新約聖書ではイエス様が大きな愛の中で罪を犯した女を赦して、彼女はイエス様の愛の大きさを知りました。彼女はイエス様の愛に包まれて生き、大きな愛をイエス様に返しました。キリスト信者も神様の愛によって赦されて、その愛を返しながら、より大きな神様の愛に包まれています。
                              モヨリ神父