カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第十三主日

2010年06月24日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「神から離れないということは、すべて失ってもよいということにも通じるのです。つまり、この世に縛られないということです。」 聖フランシスコ サレシオ

6月21日頃、北半球では昼が最も長い日になり、反対に夜が最も短い日となります。夏の真ん中、薔薇や半夏生の季節です。太陽が最も高く輝き、しかし梅雨の真っただ中であるため晴天に恵まれることは少なく、しかし梅雨があることこそ一年間の水も蓄えることが出来ます。この日北ヨ-ロッパなどでは白夜が見られ、北海道の北端部でも白夜に近い明るさがみられます。潤しの雨の結果として、山も街も若葉青葉でそまる頃に吹く強い風を「青嵐」といいます。爆風ではなく、爽快感のある明るい風であります。時として激しく吹きます。一方この頃に吹く弱い風は「薫風」と呼ばれています。
さて、マタイ福音書の課題として、イエス様の共同体内の人間関係が描かれています。イエス様が絶え間なく勧めているのは、大きな慈しみと憐れみで包まれた心を持つことです。確かにわたし達の目の中にある丸太は、わたし達の視野をせまくするので、いつも相手を寛大な心で受け入れることができません。イエス様が知らない人でも挨拶するように、また何か頼みごとをする人に、より大きく応えてあげるように、敵でさえも愛するように勧められています。敵にも一切仕返しを思わず、いつでも相手を尊敬しながら相手をイエス様自身であるように思い、お互いに傷付けられたことがあってもいつも赦し合うように勧められています。
ルカによる福音書9・51-62
どんな人間でも皆が神様から独特な方法で招ばれています。神様の想像力である聖霊は、この世で神様に導くいろんな道を完備してくださいました。その道の選択によって誰でも、喜びをもって神様のところまで行くことが出来ます。だれでも、それぞれ神様から定められた道を通って神様の心まで、あらゆる形で達することができます。当福音書の始まりは、イエス様がサマリア人から拒否されたことを語っています。イエス様が人を救われるため来られたとき、返ってその人に拒否されました。このようにイエス様に従う弟子は、自分の先生の運命を受けて、人に拒否されること、自分の愛情を評価されないこと、自分の犠牲と奉仕を認められないことをも受け入れて、イエス様に従うことになります。弟子たちが先生であるイエス様に忠実に従ったことは、人間としての評価を受ける為ではなく、むしろ神様の誘いに忠実に応える為です。イエス様が自分に従う人に対して、そしてその従い方について注意します。イエス様に従う方法の一つは共同体に奉仕することです。しかしイエス様がそれに以外の目的も注意します。そしてイエス様に従う人は聖霊の導きに従うものになります。それはむしろ、イエス様から選ばれたものなのです。神様の呼びかけは人の現世の関係を消すことなく、しかし神様の関係を優先するように勧められています。イエス様にとって家族関係でさえ、神の国を広めることよりも大切ではありません、しかし、家族の関係は神の国を広めるために重要なサポートになっていると教えてくださいます。

                             モヨリ神父

毎週の一言 C年 年間第十二主日

2010年06月17日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「忍耐強い心は常に平静で、神のみ旨を求めます。無理な頑張りは嫌気を招きます。神に心を開いて打ち克ちなさい。」 聖フランシスコ・サレシオ
父の日は6月の第三の日曜日に父に感謝する日として定められたのが始めとされています。日本でも次第に普及しつつありますが、その歴史が新しいため、まだ活発な行事は定着していません。この時に皆が父の愛で包んでくださる天の父を考えて、身近にある大事なお父さんにも大きな感謝の心を表します。
さて、春分を過ぎると昼は目に見えて長く、夏至のころの夜は最も短くなります。夜のことだからさほど判然とはしませんが、なんとなく眠れぬ一夜、いつしが明るむ窓に驚いて目覚めるということはだれしも覚えがあるかもしれません。そこには一抹のわびしさとやるせなさといった感情もふくまれています。このわたし達が生きている人生も短い一夜のように見えますが、その後限りのない普遍的な一日の明るさが待っています。
また梅雨に入って田植えも進み、苗もほとんど植えられて田に広がり、成長する段階に入っています。その小さな苗、風にふらふらする弱い青草のような植物の中に大きな希望があります。キリスト信者も小さな祈りの中の、心にある弱い願いに大きな希望が含まれています。皆を大切にされる神様はいつもわたし達の小さな願いに耳を傾けてくださいます。それがわたし達の大きな希望になっています。自分に従った者達にイエス様は、神様になんでも頼むように勧めておられます、愛である神様は信仰を持っている人にとって欠かせない希望となっています。
ルカによる福音書8・18-24
イエス様に従う人は、先生であるイエス様の心の通りについて行きます。イエス様が定められた生き方の通りに進むのは欠かせない条件です。自分を捨てて、憎まれて、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことは、実際にどのような意味があるのでしょうか。マルコの福音書によると、ペトロの信仰の告白は福音書の中心になっています。ルカの福音書では少し違いますが、マタイの福音書ではイエス様のご受難につながっています。それはどういうことかと言えば、選ばれた弟子がその先生に従って先生に倣って、先生の心をまず知るべきなのです。先生に従う、知る、自分の人生に受け入れるのは、大きな努力や真剣な決定の結果ではなく、祈りの中で生まれてくるものなのです。「イエス様が一人で祈っておられた時…」イエス様は自分のことを弟子たちに知らせわからせる時に、苦しみから喜びへの道を教えられます。このようにイエス様が自分の死と復活を予言し、このように自分の弟子の心とあり様を見ておられます。ルカの福音書によると、イエス様の弟子の特徴は五つあります。1)自由に選択する(わたしについて来たい人は…)2)自分の十字架を受け入れること (自分の十字架を背負って)3)忍耐を持つ(日々)4)従うこと(わたしについて)5)神様のみ旨の通りを考えて行うこと(わたしの為に命を失うものはそれを救うのである。)当福音書の注目すべき事は人間の心の自由です。マタイの福音書の中にも同じことが上げられています(もし完全になりたいのなら… わたしに従いなさい)。イエス様が自分の弟子になりたいわたし達を、暖かい心で無条件に誘っておられます。弟子になりたい人はイエス様の誘いを受け入れて、イエス様が教えられた通りに従うようになることです。
                             モヨリ神父

毎週の一言 C年 年間第十一主日

2010年06月11日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、
毎年6月10日ごろになると、北海度を除いて日本列島はうっとうしい梅雨に入ります。冷たい高気圧と暖かい高気圧が上空で出合うことによって雨が降り続けます。困ることがあっても、その雨によって命の元であるお米が成長し実るようになります。その梅雨も目前です、田植えの準備に入り農家は大変忙しくなります。昔は家族はもとより隣人も大勢でにぎやかに苗を植えていました。今もうそのような光景を見ることもなくなって久しく、瑞々しい苗を運ぶ子供や、素足で泥田を踏む姿なども今では思い出となってしまいました。
さて、キリスト信者には心の中に何にも右左されない、命である神様からいただいた沢山の賜物があり、それを味わって感謝しています。それは本当に幸いなものです。どうしてキリスト信者はこのように幸せであるかと言いますと、イエス様が言われたように、貧しい時、悲しむ時、柔和な時、儀を求める時にあなた方は幸せです。なぜなら困った時、より身近に素晴らしい神様の心をみてそれに倣い、そのために神様から大きな慰めを与えられています。それだけではなくイエス様の言葉を参考にするキリスト信者は、自分の人生を振り返って、その中で神様の働き、神様の贈り物、神様に助けられたこに気付きながら、神様の愛に包まれて自分が幸せであることを実感することで大きな喜びを味わっています。
ルカによる福音 7・36-50
初代キリスト信者たちが赦しの秘跡をいただくのは、現在とちがって特別な出来事であり、人生の中で一回だけでした。しかし教会にはいつも、赦す心とその態度も憐れみ深い背景の中にありました。いつも罪人の回心と救いが求められていました。善行によっても罪が赦されていました。今日の福音書の課題は、イエス様が罪を犯した女を赦すことによって、わたし達に赦しの素晴らしさを語ってくださいます。当福音書の出来ごとにはイエス様の慈しみに対して、二つの心の態度を紹介されます。一番目はファリザイ人であるシモンの態度です。イエス様のやり方を批判し、イエス様のことまで見下しています。二番目はベタニアのマリアの行動です。マリアは寛容をもって、本当の愛情を見せながら、イエス様に自分の心を開きます。確かにイエス様は皆の心の中にある良いものを評価します。ファリザイ派のシモンの判断も、罪を犯した女の愛情も誉めています。イエス様は罪を強調しないで、むしろ愛の大きさを高めて、ファリザイ派のシモンが示したうすい愛情を見直すように勧めています。このようにイエス様が神様の愛は赦しの泉であることを示しています。神様の赦しはより大きな愛からわきでて、いつでもどんな時でも皆、ゆるしてくださいます。旧約聖書では神様はダビデの罪でさえ赦してダビデの命を守りました。新約聖書ではイエス様が大きな愛の中で罪を犯した女を赦して、彼女はイエス様の愛の大きさを知りました。彼女はイエス様の愛に包まれて生き、大きな愛をイエス様に返しました。キリスト信者も神様の愛によって赦されて、その愛を返しながら、より大きな神様の愛に包まれています。
                              モヨリ神父


毎週の一言 C年 キリストの聖体の主日

2010年06月05日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

芒種(ぼうしゅ)。6月6日ごろ、芒(のぎ)のある穀物(稲)を植え付ける季節を意味し、五月雨が間断なく降り続き、農家が多忙を極める季節です。「万緑」は、草木の緑が大地にみなぎる夏の景色で阿蘇の自然にぴったりの季語です。また近年、愛好家の活動によって「蛍のいる風景」が復活し、今も保護、再生の取り組みが勧められています。古来より夏の風物詩として親しまれてきた蛍の光は人の心を奥深いところで揺り動かす神秘的な力を持っています。
さて、麦の収穫の時期が近づいてきました。麦秋の景色を見つめながらイエス様の例え話の中の、いくつかの感動的な麦畑が登場する場面を見てみましょう。「収穫が多いが働き手が少ない」と言う言葉でイエス様が自分の心の大きな願いを示しています。毒麦と良い麦のたとえでは、イエス様が神様の慈しみと憐れみについて話してくださいます。また麦の種が土に落ちて、死ななければ実らないと、イエス様がご自分の愛、ご自分の人生をたとえています。そして良い土に落ちた種は60倍、80倍、100倍にも実ることになっています。このようにイエス様が神様の言葉をたとえられています。それを受け入れる人は、今頃の麦の穂のように豊かに実るのです。けれど麦をつぶし、粉にしてパンを造ることで、イエス様がご自分の体、ご自分自身、ご自分の心と存在を示しています。地中海付近では昔から、麦で造られたパンは行列で麦畑の間を通って特別な顕示台に運ばれ、イエス様の聖なる体として讃えられました。その時にイエス様の体を祝いながら、その小さな麦の種は、人間の労働の実りと共に、神様の神秘的な体となり、人間の救いの心を示していました。
ルカによる福音書 9・11b-17
初代教会にとってイエス様の体、聖体は教会の一致のしるしであり、教会を養育する食物だと考えられています。聖体は復活祭の記念であり、歩き続けるキリスト信者を支える食べ物で、永遠の命の希望であり、教会全体の宝です。イエス様がパンと魚を増やしたことによって、聖体の意味を弟子たちから私たちに至るまで伝えてくださいました。困っている群衆にご自分がなさったように、弟子たちにも自分が食べ物になって食べさせるように勧めています。それはイエス様がパンと魚を増やした時に最後の晩餐のときと同じ動作と言葉を行なったことです。つまりパンと魚を祝福してから弟子たちに与えることにします。当時の第一の奇跡は小さなものから、つまり五つのパンと二匹の魚を分かち合ったことによって、5〇〇〇人の食べ物になって皆を満腹させたことです。その時、自分に従った者に対して、特に弟子たちに対してイエス様がご自分の心を示しています。イエス様が自分に従う貧しい人、人里離れたところまでもイエス様を追ってきた人を大切にし、見守りながら、パンと魚を食べさせることによって養い育てています。聖体を祝う時に教会は、イエス様の死と復活を、再び帰って来られるまで宣言します。それによって罪を犯した人は赦されます。それに当時の出来事の中でイエス様が弟子たちに向かって、弱っている群衆に食べさせるように命じています。その命令の中で重ねて言いますが、イエス様がとても素晴らしいことを教えています。自分がしたように弟子たちに自分自身、自分のことを食べさせるように勧めています。実はこれは愛の究極の姿です。イエス様が自分自身を食べ物にして、人と全て分かち合って皆を支える食べ物となりました。それは神様の最高の愛のしるしであり、それが聖体の祝いの意味なのです。
                                 モヨリ神父