カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 B年 年間第十七主日

2009年07月25日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

7月23日頃を旧6月末の月の中気といいます。一年中で暑さがもっとも厳しい時期であり、大暑と言われています。時々大雨が降り、蒸し暑くなります。「夏の土用」はこの節季に入ります。このころ、南方海上に発生した熱帯性低気圧の影響で、太平洋沿岸に打ち寄せてくる大きなうねりを伴った波を「土用波」と呼び、サーファーには絶好の波と喜ばれていますが、礎釣りや遊泳は避けた方が良いでしょう。
さて、7月25日はイエス様の使徒聖ヤコブの祝日です。イエス様の言葉にいつも問われている私たちは、イエス様の時代の人々と同じように不思議な「しるし」を探し求めています。そこでイエス様が弟子たちを通して、七つの不思議なしるしを与えてくださいました。それは「秘跡」と呼ばれています。秘められた、神様の跡です。イエス様に従った者たちにとって、その人生での神様との関わりの中で欠かせないしるしとなっています。それは「洗礼」、水によって神様から命をいただきます。「聖体」、イエス様からパンを通してイエス様の心と体をいただき、私たちの人生の大きな愛の中に宿るようにします。「堅信」、油のしるしによって神様のものとして選ばれて、神様に忠実を誓います。「病者の秘跡」とは聖なる油を体に塗ることによって新たな力をいただき、心も体も癒されることです。「赦しの秘跡」とは司祭の声を通して、神様はすべて、何でも赦してくださいます。そして最高の愛のしるし「婚姻」と「叙階式」、人間の愛が神様の愛と同じように聖別されています。さて、私たちの目が覚めることによって、私たちの周囲に秘められた神様のいろんな跡を見ることが出来ます。それに気付くと、神様が私たちのことをこんなにも大切にされ、愛されているのかということがわかってきて大きな喜びを覚えます。
ヨハネによる福音6・1-15
今まで連続して読まれていたマルコの福音書を一旦中断して、今日から五つの日曜日、ヨハネの福音書が朗読されます。今日朗読されるヨハネの福音書は五つのパン、二匹の魚を増やしたイエス様の奇跡が語られます。エピソードの言葉使いによって聖体につながる物語になっていて、群衆の希望に応えるようになっています。実際にだれでも望んでいるのは自分の人生が愛情で満たされることです。だから、今日の典礼の解説はイエス様の奇跡のエピソードを語りながら、心の愛を分かち合うように勧めています。大勢の人々がイエス様に従っていましたが、その理由はイエス様の不思議なしるしを見るためです。そこでイエス様は、モーセのように海を渡り群衆を山のほうに導き、皆を草原に座らせ良い牧者の姿を見せてくださいます。イエス様は使徒フィリッポを試みるために、皆を食べさせ、群衆の疲れを解決する方法を尋ねています。その後イエス様がご自分の命の力で貧しい人々の食べ物として五つのパンと二匹の魚を手にとって、皆に命を与えるパンを、ご自分の体と心を配っています。このあたりで注目することは言葉づかいです。イエス様の動作を語る為にヨハネ福音記者はイエス様の最後の晩餐、感謝の祭儀の言葉を使っています。「イエス様がパンをとり・・・感謝の祈りを唱えて・・・人々に分け与えられた。」この時こそ、カファルナウムの会堂で宣言されたように、イエス様が命のパンであることを明らかにされています。弟子たちは残されたパンくず全てを回収します、それが弟子たちにとって新たな尊い使命になっているのであり、イエス様と同じような技を行うことを意味しています。しかし、当時のユダヤ人たちはこのようなイエス様のしるし『秘跡』がまだ分からなかったのです。                モヨリ神父

毎週の一言 B年 年間第十六主日

2009年07月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
序文
山肌にそって流れ落ちる水、草の間からしみでる水、水底からこんこんと湧き出す水とは清水です。どの清水も清冽で手に触れて冷たく、口に含めば歯にしみて痛いほどです。水の豊かな菊池は野山の至るところでこの自然の恵みを受けることができます。水について話すとき、キリスト信者には洗礼の水を思い起こします。その時の神様の命、聖霊の潤し、清めの泉です。それだけではなく聖水のことを思い、神様の祝福につながっていきます。教会に入ってドアの横にある聖水に手を浸し、神様の祝福を受けて「父と子と聖霊のみ名によって・・・」と唱えながら自分の心、自分の体、自分の人生をイエス様の十字架に重ね合わせるのです。
菊池、山鹿教会は当主日にあたり、遊び心で海の日を祝うことにしました。魚と言えば、キリスト信者にとって色々なところで見逃せない絵姿になっています。古い教会の内外にまた、色んな聖画やキリスト教的な芸術作品の中にも見かけることがあります。それは初代キリスト教会の時から、「魚」は、ギリシャ語で(イクツウス)と書き表されイエス様の名前を意味していたからです。
「イ(イエス)キ(キリスト)ツ(ツェウス=神)ウ(ウヨス=子)ス(救い主)」だからです。この海の日に色んな魚の姿を思い起こして、イエス様の名前を祝いましょう。イエス様は私たちの日常生活の中で豊かな味と香りになっています。そこまで自分の人生の中にイエス様のことが沁み込むようになれば、より親しい身近な関係をイエス様と結べるのではないかと思います。同時に魚を見て、復活されたイエス様のいくつかの奇跡を思い起こします。五つのパンと二匹の魚を増やした時、夜通し何もできなかった弟子たちに多量の魚を捕らせた時、陸で弟子たちのために魚を炭で焼いた時です。
マルコ6・30-34
当福音書では宣教活動から帰ってきた弟子たちに対して、イエス様が大きな注目を示しています。同時に指導者のない群衆にも大きな憐みを感じておられます。神様は派遣された者たちを通して人類に対するご自分の慈しみと憐みを身近に示してくださいます。さて、当個所は三つの部分に分けられています。1)12人の弟子が宣教活動から帰ってきてイエス様に報告します。2)弟子たちはイエス様と一緒に人里離れたところで休息をとります。3)イエス様が群衆に対して大きな憐みを感じられます。
弟子たちがイエス様に自分たちの活動について報告した時、行ったことと教えたことについて話しました。その教えは、イエス様の教えと全く同じでした。宣教した時に弟子たちはイエス様自身の口、手、足、になりました。活動の後、イエス様に誘われてイエス様がされたように弟子たちも静かな所に行き、キリスト信者にとって欠かせない思いと世界を示しました。つまり、イエス様が指示した場所は静かな所であり、自分の故郷(神様の懐)です。弟子たちは祈りの中で、自分ができたことに対して感謝し、自分のことを新しく見つめ直します。実は活動できたのは弟子達の力ではなく、彼らを通した神様ご自身によるものでした。最後にイエス様が指導者のない群衆を深く憐れみ、自分の言葉を与え続けられています。また明らかにされたことは、弟子たちにとって、休むことはイエス様の憐みを身にまといながらイエス様と一緒にいるということなのです。
                               モヨリ神父

毎週の一言 B年 年間第十五主日

2009年07月11日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

かつて、居間に散らばり台所に置かれていた団扇も、すっかり影が薄くなっています。しかし使ってみると、ことに「来民の渋団扇」は昔も今も実用に耐える強さがあり、時を重ねるほどに柿渋の色合いも深みを帯び、一種独特の風格を呈します。これは生活から生まれたつつましい雑器に宿る忍耐、健全、誠実の美しさとの出会いを体験することでもあります。いつも歳時記の言葉によってみ言葉に導入されることは、キリスト信者にとって楽しい遊びのようです。どんなこと、どんな小さなしるしを通しても神様に出会う時、出会う場になっています。さて、昔のロシアのご絵は皆さんも知っていると思いますが「イコン」と言われ、天国の方に開いた窓とも呼ばれています。キリスト信者にとって、大自然の小さな美しい存在も神様の方に開いた窓になっています。
ところで、いったいキリスト信者は誰であるか、どのようなものであるか、イエス様の言葉で答えましょう。物事を完璧に行える者と思われますか、人生の中で間違わない人でしょうか、いいえ、そうではありません、イエス様の言葉や行いによってキリスト信者は赦されて、癒されたもので、イエス様の命で生かされているものです。
マルコによる福音書6・7-13
どんな人間でも、その人生に神様から与えられた使命を持っています。皆が神の国を告げ知らせる為であり、それぞれに違った形でしかし、神様との結びの深さによって一人一人が派遣されています。このような使命で、全世界にイエス様の12人の弟子も派遣されました。旧約聖書では預言者アモスがそうでした。羊飼いだったアモスは、神様から預言者として派遣されました。では、イエス様はどうしてご自分の弟子を二人ずつ派遣されたのでしょうか。実は、当時の哲学者たちもそうしていました。確かに二人だと助け合えるという利点がありますが、二人だと一人が相手の証人になるように思われていたそうです。つまり、一人を通しての神様の働きにもう一人がその証人になったということです。イエス様に派遣された弟子の目的は、神様の教えを伝えること、悪霊に対する戦い、癒しの油を塗って病人を癒すことです。「汚れた霊に対する権能を授けました。」という言葉で、悪と戦う力と権利、すべての悪に対する支配権力をもっての派遣でした。実際的に勧められたのは、まず、宣教する権利について、つまり与えられた権利をどのように行使すべきか、そして貧しい中で携行する物、最後にいろんな所を訪れる場合、宣教活動の中でどのようにすれば良いかなど、暖かい言葉で教えられました。イエス様に派遣された弟子も先生と同じように神の国を宣べ伝えて築くのです。それを第一目標として、人の病む体と心を治したり、心の開心を勧めたりして、教えを広げようとしています。派遣された弟子たちは、あくまでもイエス様の権威を分けてもらい、イエス様の名によって人に心の救いを告げ知らせながら働いています。
                         モヨリ神父

«お知らせ»
♪・毎月第1と第2の木曜日、朝10時から信徒会館で、
聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。参加をお待ちしています。
♫・また、第1・第2・第3・第4の金曜日は午後から「病者訪問」になっています。

毎週の一言 B年 年間第十四主日

2009年07月04日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

アジサイの花が美しい季節となりました。アジサイという花の名前の「アジ」は集まるという意味の「あつ」から、「サイ」は「真藍」(さあい)からそれぞれ転じたと言われています。つまり「アジサイ」という名前は藍色の花がたくさん集まって咲く様子をあらわしています。また、アジサイは花の色が白から青、赤など次々と変化することから、「七変化」という別名を持っています。つぎに、半夏生(はんげしょう)は72候の一つで、夏至から11日目の7月2日ごろで、その名は半夏とよばれたサトイモ科の多年草、カラビシャクが生える頃という意味からもきています。田植えが終わり梅雨明けとなるのもこのころで、この日が晴れか雨かによって今年の稲作の状況を占うなど、地方によって農事に関するいろいろの風習や物忌みがあります。
さて、教会のお聖堂に入ると、飾りが少なく目立つのは司祭の緑の衣服だけです。ローマカトリック教会の典礼から選ばれた色はいくつかの意味が含まれていますし、私たちもこの色の意味によって未来に目を向けるように勧められています。典礼では緑の色が年間の季節を示しています。今は特別な典礼の時期ではなく、イエス様の神秘を黙想する時、「希望」の中で生きる季節を示しています。キリスト信者はどのような希望をもって生きるのでしょうか。まずイエス様との再会を望んで生き、死後も永遠に普遍的な喜びの中で生きます。深い愛情に支えられた希望をもったキリスト信者は、神様との出会いを求め望んでいます。そしてキリスト信者に欠かせない希望はもう一つあります。この世への神の国の到来です。その国は、キリスト信者の心に常に描かれていたものですから、どんな事より期待される出来事です。
マルコ福音書6・1-6
ここではイエス様にとって悲しい出来事が語られています。イエス様がご自分の身内、親戚から退けられています。けれどもこのような悲しみはイエス様がなさった奇跡、語られた知恵に対する一般の人の驚きによって慰められています。このような出来事はイエス様の弟子の運命を暗示しています。旧約聖書の預言者のようにイエス様も弟子たちも、神様の使いとして神様の言葉を語られても、何度も人に拒否される目に会いました。よく考えてみると、どんなキリスト信者でもイエス様の心を現すときに退けられることがあります。この時一番悲しいのは、自分の友達や親しいものから退けられることです。ナザレの集会堂はイエス様が生まれた故郷の中心部にあり、イエス様が特別に好まれた場所で、よく訪れたところでした。そこでイエス様が神様の心を写しながら教えていました。そこで地元の人々はイエス様のことをよく知りながら、イエス様を知らないと言い、イエス様の気が違っているのだと思ったのです。イエス様の知恵と奇跡についても悪魔を通してなしとげられたものと疑っていました。イエス様を拒否した者たちは、同時に神様とそのメシアを拒否したのです。狭いナザレの人々にとってイエス様の身分は明らかでしたから、メシアであることはありえないことと思いました。しかしイエス様の心は限りなく広く、神様の心を語る使命を示していました。当時のナザレの人々は、神様が身近に、しかもとても素朴な姿で来られたことに気付かなかったのです。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」人の不信心を驚き、孤独であること。それは預言者とまったく同じ運命に従われる決意を示しています。イエス様は人間の賛同を求めず、ここでは神様のみ胸だけを果たすようにお示しになりました。        モヨリ神父