カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 王であるキリストの祝日

2017年11月22日 | 神父様からメッセージ(A年)


 王である主の日を迎えるキリスト信者は命を讃える日を祝い、共同体の宴会を催す日でもあり、神様は喜びであふれる豊かな時の準備をされています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りは自分のものになるだけではなく、貧しい人と分かち合う神様の贈り物です。「使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28」で、使徒パウロはいろんな話題が全てキリストから発進して、キリストに戻ると述べています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は私たち一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っておられます。使徒パウロによるとイエス様が来られたのは死者が命を得るためです。使徒パウロが思う死者とは肉体が死んだ者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者なのです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来られました。皆を神様の方に取り戻すためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の懐に戻るのは確かに使徒パウロが述べたように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、そしてその他の者全て、最後にどんなことでも神様のところにもどります。このようなことが宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標です。そしてイエス様が人間を悩ませる敵も、その中の死にも打勝ち、皆をもともとあったように神様のふところにすべて永久に取り戻したいのです.

「マタイによる福音書 25・31-46」
 ローマのバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後の審判が力強く見事に描かれています。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対欠かせないのは私たちのすぐそばにいるのはイエス様ご自身であり、その姿を示してくださるのです。そして周囲の困っている者たち、苦しんでいる人に何かしてあげた時、イエス様ご自身にしたことになります。実際にこの思いの中で、そうすることによって人間は最後の喜びを得られるのです。             モヨリ神父

A年 年間第33主日

2017年11月13日 | 神父様からメッセージ(A年)


 日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げるべきです。この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も、この世と生命の創造としめくくりの時について話してくださいます。命に対する神様に対する大きな感謝の心を持ちながら、神様のみ言葉のメッセージに耳と心を傾けたいと思います。使徒パウロの「テサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6」この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時、そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
「マタイによる福音書 25・14―30」
 典礼の今年の最後の日曜日に向けて、イエス様はとても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。その心を開き、その目を覚めさせるのです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様ご自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標だと思います。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾ります。しかし、それに気付いた人、またその賜物を生かした人だけをイエス様が誉められています。再び帰ってこられるイエス様を大きな希望を持って、努力して、積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様が、さらに大きな報いを準備してくださいます。
                                    モヨリ神父

A年 年間第32主日

2017年11月11日 | 神父様からメッセージ(A年)


枯葉の上に落ちた霜のように、人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命はとても短いものです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。天の方に目を向ければ私たちの人生も豊かになり、神様の思い通りに日々を送ることが出来ます。秋に木の枝にぶら下がっている枯葉のように、私たちの人生は神様の手に大切にされています。

「マタイ福音書 25・1-13」
当福音書の例えを通してイエス様が神様と人間との出会いを語られています。この出会いはお互い知らない者の出会いではなく、お互いによく知る人の出会いです。神様が盛大な祭りに人間を誘われて、人間はその誘いを受け取りました。神様に誘われた人は心を開き、授けられた知恵を通して目を覚まして、神様の存在や思いや働きに注意深くなり気付き、生きています。福音書の中に出てくる灯火用の油は心の知恵、そして心の期待感を例えています。この頃の典礼全体もイエス様が再び来られることとその時に人間との再会に注目されています。このような背景の中で、イエス様が語られた例えばなしを読みとらなければなりません。初代キリスト信者の共同体では、イエス様の再臨を心から期待していましたが、しかし使徒パウロは「2テサロニケの人々への手紙2・1-2」の中で、イエス様がすぐに来られるのではなく、今はふさわしくお会いする為に心の準備をして期待するのが欠かせないことだと述べています。一所懸命期待するのは大切であり、その期待は簡単なことではありません。だからペトロでも、キリスト信者と支え合いながらイエス様が来られるのを期待するように勧めています。なぜなら、期待する間は神様の慈しみと憐れみを受ける時です。つまり、救いの時です。その時にキリスト信者は回心ができる期間を実感しながら、自分の生き方を改善します。福音書の中に出て来る乙女たちは、おそらく普通に誘われた若い女性ですが、実際にはマタイの福音記者がこの例え話を書く時に、乙女たちことは象徴的な姿にして、当時の共同体のことを示しています。使徒パウロは当時コリントの共同体を「清い乙女」とよんでいます。だから、福音書に出てくる乙女たちはキ
リスト信者の共同体であり、彼女らが持っている灯火は信仰から生まれた良い行いです。花婿はイエス様です。
                          モヨリ神父  

A年 年間第31主日

2017年10月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 霜のように人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命もとても短いです。諸聖人の祝日と死者の日を迎えた私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。このような悲しい思いに抱かれても、イエス様に従う者たちは、目を上げて光と喜びのある世界を見つめて、大きな希望をもって過ごしています。人生はどんな時でも神様の贈り物であり、どんなことよりも大切にされて、それを神様に自らの能力によって豊かにすることが、神様への恩返しになります。
「マタイによる福音書3・1-12」
 この福音書のなかに、マタイ福音記者にイエス様がおっしゃったいくつかの表現が集められています。目的はまず、だれにも神様の栄光、神様の権威を奪い取ることはできないと強調しています。次に私たちは唯一の師の弟子であることを明確にします。イエス様はファリザイ派の人々の行いを真似しないように勧めてから、このような人物のプライドと自慢とに注意されます。それに対してイエス様が皆に唯一父である神様のことを注目させながら、皆の唯一の師として神様のことを紹介します。イエス様の時代にファリザイ派の人々は主な神学的な考えの代表でした。同時にファリザイ派の人々だけではなく、新しく生まれてくるイエス様の共同体の指導者も言い伝えることと行いが異なっていました。「第一ペトロの手紙5・1-4」が同じような思いを伝えています。あの者たちの行いは、神様の思い通りではなかったのです。イエス様は結局一番偉くなりたい弟子たちに、基本として自分がされたようにお互いに仕える者になるように勧めています。実際に上席を選ぶのではなく、聖句の小箱を大きくしたりでもなく、広場で挨拶されて「先生」などと呼ばれることでもなく、人の僕、人に仕える者になることを勧められています。イエス様に従う者にとって唯一の先生はイエス様だけです。ほかの人たちは皆、兄弟です。イエス様がおっしゃったことを受け入れないのなら、むしろその代わりに自分自身で立つことにすれば、イエス様の弟子として違反することもないのです。イエス様の弟子の義務は自分の方にではなく、人をイエス様の方に呼び寄せて導くことです。使徒パウロもコリントの信徒たちに、だれにもイエス様だけが救い主であり、イエス様だけが私たちの先生であり、イエス様だけに皆が指導される、それだけを真似しなければなりませんと強調されています。
                             モヨリ神父

A年 年間第28主日

2017年10月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 「収穫は多いが働き手が少ない」イエス様が蒔かれた言葉は豊かに実りましたが、それを受け入れる人、それを愛する人、それを実行する人はまだ少ない。しかし人手が増えるような理想的な目標は、私たちの心のなかにずっと永久に希望となって宿ります。
 使徒パウロの「フィリピの教会への手紙4・12-20」の中で聖パウロは、何にも囚われていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して、感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことができ、共に苦しみを背負う事になったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様ご自身でした。どこでもどんなできごとでも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父としてこの世のどこででも、ご自分の栄光を表されます。私たちがそのことに気づくことができれば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳することができない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは、上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えて下さいます。
「マタイによる福音書 22・1-14」
 聖書ではこの世の出来事や私たちの経験を超える世界、または神様の心について話す時に、独特な方法が使われています。新約聖書でも旧約聖書でも、催された婚宴のイメージが良く使われています。イエス様は罪人と一緒に食事をし、最後の晩餐の中で、ご自分の体を愛のしるしとして食べ物の形で弟子たちに残しました。イエス様は弟子たちと一緒に食事を取りながら、聖霊について話したこともありました。聖書の言葉使いでは、婚宴は食卓に招かれた全人類を象徴し、普遍的な命を示し、神様の知恵、神様の恵みの食卓に誘われた全人類のことを表します。当マタイによる福音書のたとえ話では、再び神様の招きが強調されています。神様はいつでもどんなときでも、色んな方法で色んな人を通して(召命)ご自分の心に人類を呼び寄せています。神様の心は喜びとやすらぎのある所で人間の心を満たす所です。イエス様のたとえ話は聞き手を驚かせながら新しい真実を告げ知らせています。人間の喜びを求めるのは神様です。自己中心的な考え方で神様の誘いを断るのは人間だけです。しかし神様の誘いに応えるには、参加のための礼服が必要です。その礼服は私たちの洗礼式の時に着せられた白い服か、あるいはベールのようなものですが、それは大きな喜びと感謝の心を示現していて、実は神様の命、神様の恵み、私たちの心の完全な改心を通して神様の愛を受け入れられた心を示しています。
                                    モヨリ神父  

A年 年間第27主日  

2017年10月02日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 私たちのあっというまの人生のために日曜日の神様との出会いは素晴らし出来事であり、欠かせない喜びの機会になっています。「使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9」は、物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
「マタイによる福音書 21・33-43」
 いつもたとえ話を語るイエス様が私たちの心の反応を求めています。この場合、まず知らせてくださるのは、神様は私たちに救いの計画のすべてを備えられているということです。それはたとえ話しの中のぶどう園のことです。私たちの場合、人生のこと、信仰のこと、周囲にいる者たちのことで、それはすべて神様が私たちのために供えられたもので、大きな信頼の中でまかせられています。さて、ぶどう園のたとえ話のように、神様の賜物を預けられた私たちはどのようにそれを受け入れて大切にしたか、また神様の望みや導きを表現されている愛にどのように応えたか、それが私たちの心の反応を期待しているイエス様のたとえ話の目的になっています。まず私たちのために神様が供えてくださったことを検討してみると、この世の素晴らしさだけではなく、人類の運命、そしてもっとも大切なのは神の国です。それは神様が準備してくださったもので、私たちの弱い手に預けられています。私たちは神様が送ってくださったいろんな良い知らせ、生きた言葉、励ましの言葉、赦しの言葉をどのように受け入れたでしょうか、それが今日の朗読の重大なテーマになっています。その神様の愛を現わす言葉は、実はイエス様自身です。その言葉を受け入れて、大切にしたものだけが自分の人生、自分の住まいを親石の上に建てることにし、神様の大きな愛の計画を受け入れます。    
                            モヨリ神父

A年 年間第25主日 

2017年09月19日 | 神父様からメッセージ(A年)


 お彼岸は仏事でありながら、イエス様の信者である私たちにも亡くなった方を思い、この人生のみじめさを思い、いつか太陽のように神様の姿を見出すことを思い起こさせてくれます。日曜日、主の日は体と心を休ませる日ですから、この時こそ本当の安らぎを求めて神様への思いだけで心を満たしましょう。いつも神様の言葉は、ともし火のように私たちの歩みを照らしています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 1・20 –27」によると誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって生と死、どちらもあこがれで両方とも望ましい目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒ならばイエス様の姿を見せることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるから、それも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって、死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように、生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導くことができます、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。勿論、このような思いはキリスト信者にとって大いに参考になっています。
「マタイによる福音書 20・1-16」 
 今日もイエス様が驚くべきたとえ話を通して、私たちとの出会いを求めています。イエス様が語られたたとえ話の中で、不正な役割を通して、神様の考え、神様の義を教えてくださいます。まず神様の心、神様の思いは、社会的な計算高い人間の思いのようではありません。人間はいつも自分の働きや行いの利益をもとめています。しかし人間と違ってイエス様は、不正な主人の考えを通して、自分の愛、{諺通り・愛は盲目}自分の限りない慈しみを見せながら、私たちの心の計算を超えた義を示してくださいます。人間は自分の行いの結果において救われるものではなく、神様の慈しみと愛に満たされた義によって救われています。この福音書の箇所は、ペトロがイエス様に報いを求める対話の前に執筆されています。だからこのたとえ話をその神様の報いの背景の中に読むことにすれば、神様はいつも、どんな時でも、人間に呼びかけて誘っておられること、約束されたことを守っておられることがわかります。それに、頼りない私たちに対して、ご自分の慈しみと愛によって、ご自分の心の義を示して私たちの救いを求められています。確かにこのたとえ話を通しても、イエス様が私たちの心に出会われて、神様がいつも求めるのは人間の欠かせない喜びであることを、再び教えてくださいます。
                                  モヨリ神父

A年 第24主日

2017年09月11日 | 神父様からメッセージ(A年)


 今日、この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。先輩方が一所懸命守った信仰は私にとって大きな贈り物になり、新たな義務になります。
「マタイによる福音書 18・21-25」」
 キリスト信者にとって赦すことは欠かせない心の態度です。隣人を赦すことによって自分の罪も神様から赦されます。主の祈りの中でも自分の方から人を赦し、自分も神様に赦されるように祈っています。さて、当福音書を通して、イエス様が赦しについてペトロに対する返事で、そして感動的なたとえ話を通しても簡単に教えを伝えてくださいます。イエス様が語られたたとえ話の中に登場する僕がいて、主人に対して莫大な借金をもっていました。自分の家族の者たちを奴隷として全て売っても、自分の持ち物を全て売っても、持っている借金に対して半分以下も納めることが出来ませんでした。けれども莫大な借金を持った僕は主人の足もとにひれふして、借金を帳消しにしてもらえるように一所懸命に願いました。その願いの仕方は長年、教会のミサの典礼の中に「kirie eleison」という言葉で表現されていました。「kirie eleison」(キリエ エレイソン)ギリシャ語で、心のこもった深い願いを示し、大きな愛で包んでくださいと言う願いの意味をも含んでいます。その願いを聞き入れた主人は、僕の借金を全て帳消しにして赦しました。さてイエス様に望まれた共同体も、お互いの赦しの元に作られています。その赦しがなければ、イエス様の共同体も消えてしまいます。そして私たちがいつか、人に対する赦しや寛大な心によって、同じように神様に裁かれます。神様の大きな赦しを体験した人だけが赦すことが出来ます。赦す人はまず、自分の負った傷を治してから、赦しを与えることが出来ます。けれどどうしても赦せなかったことが赦せるようになるには、長い歩みが必要です。その時、祈りの中で神様の支えは欠かせない力になります。
                                     モヨリ神父

A年 年間第23主日

2017年09月03日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 日曜日に教会に集まるキリスト信者にとって、新たな婚宴のような祝いになります。大きな喜びは花嫁のように私たちが集まる所に登場し、私たちの共同体を神秘的な香りで包んでくれています。その風景の中に、私たちは感謝の祭儀を祝い、神様から頂いた恵みに、それぞれの自分の生き方によって恩返しをすることになります。それでミサは感謝の祭儀と言われています。使徒パウロの「ローマの教会への手紙 13・8-10」の中で、 聖パウロは欠点の多い私たちに向って、お互いを自分のように愛するように呼びかけています。聖パウロはイエス様の言葉を私たちの心に力強く吹きこむようにします。そして掟を超える聖パウロの思いは、私たちに愛の目標を教えてくださいます。愛はすべての掟を含んでいます。愛は、相手の喜びと幸せを求めるだけです。愛は、自分の心の中にある良いものを相手の心の中に置くように願えば伝わっていくものです。このような思いを通して、聖パウロは私たちに神様の愛、またはその篤さと深さを私たちの心の中に伝えてくださいます。
「マタイによる福音書 18・15-20」
 今日のマタイの福音書は、共同体の憲法のような個所だと言ってもいいと思います。イエス様が自分に従った者たちに、家族のように共同体として生きる、思う、行動するように教えてくださいます。神様は私たちに係わるのが個人的にだけではなく、周囲にいる兄弟たちを通して私たちに係わり、ご自分の心を伝えてくださり、ご自分の愛を示してくださいます。マタイの福音書で共同体が生きる方法三つを検討してみましょう。まず、失敗する兄弟に忠告することです。勿論そうする時に、つまり兄弟の目からおがくずを取り除く時に、愛を持って親切に、注意深くするのですが、同時に自分の目からも残された丸太を取り除かなければなりません。その時、兄弟に対する私たちの注意は神様の心が叶う指導となります。次にイエス様に従う人たちの共同体は、神様の思いに基づいて考え、皆でイエス様が望むような共同生活の方法を作るように勧められています。その欠かせないルールはいつくしと憐れみです。そのような共同生活は天国の始まり、天国のような場になっています。最後にイエス様の共同体では、皆で一緒に祈ります。なぜなら二人三人がイエス様の名前で集まる時に、生きておられるイエス様はその真ん中に立っておられるからです。そして何人かが一つの心で願ったならば、必ず神様が耳を傾けて叶えてくださいます。さて、このような力のある言葉を聞いて、自分が属する共同体には見直すところがないでしょうか。
                                    モヨリ神父

A年 年間第22主日

2017年08月29日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 使徒パウロの「ローマの教会への手紙 12・1-2」に耳を傾けてみれば、聖パウロは、わずかな言葉で、大きな世界を目の前に開いてくださいます。神様をいつも大いに喜ばせたわたし達が、自らの生き方によっても神様を喜ばせることができます。まず自分の人生を神様に捧げ預けることです、そして神様の心に叶うように良いことを探し求めるなら、神様は大いに喜ばれます。神様の愛と憐みに包まれて、新しい心で自分の生き方を見直しましょう。この世に倣ってはいけません。聖パウロが言うように、一緒に完全な生き方を目指して、神様だけを喜ばせる生き方に倣いましょう。
「マタイによる福音書 16・21-27」
 フランシスコ・ザビエルがパリ大学で、社会的な考えからすれば偉くなるために勉強していた頃、他の同じ理想を持っている友達と付き合い、いくつかの思いを分かち合っていました。ある日のこと、今日の福音書の箇所に、その若者たちは心を打たれました。「わたしのために命を失うものは、それを得る。たとえ全世界を手に入れても・・・」当時の若者たち(イエズス会の初代の者達)が、このような言葉を聞いて受け入れたそのことが、その言葉の働きとイエス様のことを誰にでも知らせるような見事な結果になりました。さてイエス様が今日、わたし達にも教えてくださるのは人間による考え方ではなく、神様の考え方です。ペトロもこの時、神様によるのではなく自分らしい考えで、イエス様に十字架の道を退けるように勧めました。しかし、イエス様に厳しく戒められました。イエス様に従う者達は、一日でキリスト信者になるというわけではありません。むしろ毎日、イエス様の足跡を踏みながら、自分の十字架を負いながら少しずつイエス様と同じように生きるようになります。確かにそうすることによってイエス様と全く同じような行いをも成し遂げることができます。人間の大きな喜びを求める神様の思いは、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことです。このように思うことは、自分の命を捨てるように見えるのですが、しかし自分の日常の苦しみを受け入れ、それを通して神様とのつながりを深め、また隣人とのつながりを愛で満たすように考えることが出来れば、イエス様と一緒に復活の喜びを迎えることができます。このようにイエス様と一緒に復活した人間が自分の人生を得、大きな喜び、大きな報いを得ることができます。
                                 モヨリ神父   

A年 年間第21主日

2017年08月21日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 イエス様の言葉の意味を、毎週この解説の言葉の中に探し求める人々にとって、どうして今日の解説がこの季語で始まっているかと考えをめぐらしたかもしれません。実はイエス様の言葉は強烈な日差しのように、私たちの日常生活の中に、時によって厳しく入り込んで、私達の人生を全て照らしてくださいます。そのように照らされた私達の心は新しい、素晴らしいことをたくさん見出すことができます。パウロの文章【使徒パウロのローマの信徒への手紙 11・33-36】を読んでみると、これは理性で書いたものとは違って、感情で書いた文章だとみられています。パウロは珍しく同じように3回繰り返して自分の思いを述べています。パウロはイエス様の定め、イエス様の知恵に捕らわれ感動しました。それに従ってイエス様の心を知り、イエス様の相談相手になり、イエス様の報いを受けるだけのために生き、そして人生の中で、それだけを頼るべきだと宣言します。私たちは神様から出るもの、私たちは神様に保護されるもの、神様に向かって生きるものですから、大いに喜ぶべきでそのためだけに生きるはずなのです。パウロは、強く強くその真実を述べ伝え続けています。

「マタイによる福音書 16・13-20」
 今日もイエス様が弟子たちにも私たち
にも質問してくださいます。「あなた方は私が何ものだというのか」その答えによって、様々に生き方は大いに異なって、または変化します。殉教者たちの答えは、イエス様は自分の命、自分の血であるということでした。修道者たちも、上記の質問には全てを捨ててイエス様を第一の宝とすることで答えました。信徒の皆さんも社会的な恥より、社会的な利益よりもイエス様を一番素晴らしい理想にして、一番欠かせない友人としてイエス様だけに従う者になりました。このような答えが自分の参考になりませんか。では使徒ペトロの答えを分析してみましょう。まず、ペトロの答えは自分の才能から発生した答えではなく、聖霊の知恵と力からでた答えです。同時にペトロは、時代を渡ってイエス様に従ったものたちの代表になりました。ペトロの答えによって、イエス様がペトロの名前を変えペトロの運命をも変え、自分の教会の土台に任命されました。二千年以上のキリスト教の歴史の中で、聖ペトロと聖パウロに設立されたローマにある教会は、キリスト教の中心でありイエス様の言葉通りにキリスト教の土台であり、全世界の信徒を指導し、イエス様の教えをと戒めを正しく勧める権利を持ってずっと守って来ました。最後に、イエス様は自分がメシアであることを言い広めないようにと弟子たちに頼んでいます。それはメシアは宣伝する対象ではなく、一人ひとりの心の内からの答えだけを望んでおられるからなのです。
                                    モヨリ神父

A年 年間第20主日

2017年08月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 典礼暦では月曜日15日に、キリスト信者はマリア様の被昇天を祝うことになりました。次の3粒の真珠のような教えを心にとめましょう。マリア様は、天国から一人一人を見守っています。次にわたし達が行くべき場所を示してくださいます。そして天国に行く方法を教えてくださいます。だからマリア様の被昇天の祝いは、日本の死者を迎える文化や宗教観の背景の思いの中で考えても、天国の方に開いた窓になっています。毎週の主日の聖パウロの言葉を心にとめましょう。聖パウロは独特な言葉を使っています。それは異邦人です。実は神様の目からは、聖パウロが自分について言うように聖パウロ自身には権利がなく、身分の低い者で異邦人のような者です。それでパウロは異邦人の使徒であることを公言しながら、神様が特別に弱い者、身分の低い者、権利のない者、外国人のような者を愛されるのだと強調します。つまり聖パウロが言うように、死者が命を探し求めるように、神様が異邦人を探し求め、憐れみ深さをもって皆を受け入れて愛一杯で包んでくださいます。
「マタイによる福音書15・21-28」
 マタイの福音書はイエス様の心の広さを示しながら、信仰の強さについても語ってくれています。旧約聖書によると、神様は約束通り、選ばれたイスラエル人の救いの為にメシアが使わされました。新約聖書ではイエス様が全人類の救いのためこの世に来られて、神様の普遍的な心を、ティルスとシドンの地方のできごとによってお示しになりました。マタイの福音書のイエス様とカナンの女の会話と、先週の福音書の出来事を比較してみましょう。今週は一人の異邦人のお母さんが自分の娘の為に「主よ、憐れんでください。」と強い信仰をしめして願いました。先週は溺れそうになったペトロが自分のために「主よ助けてください」と薄い信仰をしめしながらイエス様の助けを求めていました。カナンの女の信仰はイエス様に誉められ、ペトロの信仰は薄いと叱りつけられました。しかし、両者ともイエス様の限りない憐れみによって救いを得ることになりました。だから、今日教えられたことは、確かに心の信仰のあり様によってだけではなく、神様の普遍的な愛によって救いを得られるのです。神様の救いを得られる資格を考えてみれば、なにも必要ありません。罪人であれ、異邦人であれ、どんな体と心の病人であれ、女性でも男性でも、人間でさえあれば、神様の普遍的な愛の対象になります。                          
                               モヨリ神父  

A年 年間第18主日

2017年07月31日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 キリスト信者は主の日を迎えると心と体が普通より大きく変わり、大きな喜び、信仰の祭りを迎えるために整ってきます。私たちは主の日に普段着を着替えて、綺麗な服を着て、心の中にある希望と喜びを外面的にも表すことにします。このごろミサの朗読では、パウロの「ローマの教会への手紙」を連続で読もうとしています。今日の箇所では私たちの心を強く窺っている言葉が一つあります。それは「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょうか」 さて、イエス様が十字架に死ぬほど愛された者は誰でも、自分の心の中でこのような質問に答えることができます。この答えはとても個人的で、だれも私たちの代わりに答えることができません。聖パウロは私たちのために参考になる答えを見出します。自分の人生による事情を図ってから一つしかない答えを出しました:「私たちはイエス様から引き離されることがないのです」つまり、イエス様ご自身は、私たちの命、私たちの道、私たちの喜びです。キリスト信者は自分の中に生きておられるイエス様と一緒に生き、対話し、模範と理想として人を愛します。

「マタイによる福音書 14・13-21」
 当福音書では何かしようとしているイエス様がとても大切です。その出来事は第一の朗読によると心身で注目するように呼びかけられています。私たちは耳だけではなく目でも神様の言葉を聞いて受け入れるのです。そうです、イエス様はとても重要なことを行おうとしています。それは、洗礼者ヨハネがすでに死んだ時でした。けれどもその時、洗礼者ヨハネの予言した言葉は実現しようとしていました。「後に来るのは私が靴のひもを解く値打ちもないほど、私より大きな力を持つ方だ」と教えました。それに従ってイエス様が病気で悩んでいる民衆に対して、憐み深い心をもって公にモーセと同じように、新しい民族の指導者として力強く大きな愛を示そうとしています。その時、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、つまりエルサレムの方へ行く巡礼者のために定められた食べもので、五千人以上の疲れきった人たちを食べさせ満足させました。その時イエス様は、まず弟子たちに向って「あなたがたがこの人達に食べさせなさい」と誘いました。その言葉に含まれた意味はまず、弟子たちに自分自身、自分の人生、自分を全て、悩んでいる人に捧げなさいと、イエス様ご自がなさったように弟子たちに勧めた愛の形でした。そしてイエス様はパンを手にとってから、「それを祝福し、割って、人に与えました。」このようにイエス様がパンと魚を増やして、群衆の心と体を満足させました。このようなしるしによって確かにイエス様が人を食べさせて、力と希望を与えましたが実際にそのしるしによって、もっと重大な出来事の意味を示したかったのです。人がイエス様のパンを、つまりイエス様の体を食べると、弱い時支えられ、失望の時に大きな希望に抱かれて、病気の時に癒され、死んでも生きる命を得ています。つまり人間がイエスさまの愛によって大きな喜びで満されています.
                         モヨリ神父         

A年 年間第17主日

2017年07月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 初代キリスト信者にとって、復活されたイエス様のイメージは登る太陽の姿に結びついていました。イエス様の降誕祭の祝いでも、ローマ帝国の年末の太陽の俗的な祝いの代わりに、この世の太陽の光りであるイエス様を祝うようになりました。それで日曜日は太陽の日として、イエス様の日となっています。アッシジの聖フランシスコにとって太陽は兄弟のようなものでした。お日様はこの世を暖かい光で照らし、冷えているところを温めます。イエス様のみ心も同じではないでしょうか。イエス様の光に照らされて、より深い真実を見つめましょう。イエス様の篤い愛に抱かれて、人生の冷たさに生きる者たちを温めるようにしましょう。イエス様のことを語ってくださる「しるし」は太陽だけではなく、心の目が覚めれば、どんな小さなことでも、どんな小さい出来ごとでもイエス様の素晴らしさを語っていることに気づくでしょう。
「マタイによる福音書13・44-52」
 今日もイエス様は綺麗なたとえ話を三つ語ってくださいます。田圃で発見された宝のたとえ話、素晴らしい真珠を探し求めた商人のたとえ話、網に掛かった魚がとりわけられたたとえ話です。このようなたとえ話は私たちにとって知恵の箱のようなもので、神の国のあり様がより深く語られます。まず、神の国はどんな人にとっても本当の宝です。その宝はどんなことよりも、この世のすべての財産よりも貴重なものです。神の国はこの世の財産よりも貴重だとわかる人だけが、アシジの聖フランシスコのように全てを捨てて田圃に隠された宝、つまり神の国を手に入れることができます。同じように一番素晴らしい真珠を探し求める商人も一番綺麗な真珠を手に入れる時に、すべて他の輝きのない真珠を売り払うことにします。イエス様に従う私たちにとって、神の国は全くそのようなものです。私たちの価値観の中で、神の国は本当に一番貴重な宝です、本当に一番、世界一素晴らしい真珠のようなものです。さて、そのように思う私たちの日常生活の行動を、周囲の人に見せるべきではありませんか。最後に神の国は網のようなものです、つまり、良い麦と一緒に毒麦を蒔いた畑のたとえ話に似ています。つまり良いこと、また悪いことも一緒に成長していますが必ず神様は良いものだけをより分けて評価し、悪いことを投げ捨ててしまいます。このような世界に生きるキリスト信者は、神様の心を持ちながら、悪い禍にも辛抱して、悪い誘惑も拒否しながら、良いことを選んで成長させていきます。
では、今日もパウロの「ローマの教会への手紙」の言葉に注目しましょう。神様は私たち一人ひとりに、一緒に働くように呼びかけています。神様は呼ばれた者たちにご自分の計画として、この世でイエス様の姿を複写するように勧めています。だから、神様の計画は、イエス様に従った者たちがこの世でイエス様の姿を見せるのです。このように神様の秘められた計画は明らかにされています。それに従って神様は、人間を自分のところまで呼び集めて、ご自分「儀(慈しみと愛)」に包まれ、生かされた、ひとり一人に大きな報いの喜びを与えるのです。このパウロから教えられた神様のご計画は私たちに、大きな生きる希望を与えてくれるのではないでしょうか。                                               
                                     モヨリ神父

A年 年間第16主日 

2017年07月19日 | 神父様からメッセージ(A年)

 
 イエス様が現在でもたとえ話を語り続けています。そのたとえ話はイエス様に従った人たちだけが理解出来ます。つまり、そのたとえ話はキリスト信者の日常生活の中で起こる出来ごとです。イエス様のたとえ話はイエス様と出会う場になり、その中でいつもイエス様が主役であることに気付きます。
「マタイによる福音書 13・24-43」
 今日の主日もイエス様がたとえ話を通して語りつづけて、私たちの心を窺っています。イエス様はたとえ話を通して、神の国の素晴らしさを私たちに告げ知らせてくださいます。神様はこの世のこと、また私たちひとり一人を大切にしてくださいます。そのため、皆の喜びを求めておられます。その喜びの根は神の国にあります。神の国は何であるかと言うと、イエス様自身であり、イエス様から明らかにされています。神の国の始まりはとても小さくて素朴です。毒麦の間にも成長するし、からし種のようにとても小さいのです。パン種にも似ています。けれども神の国を通して神様が皆を大切にされ、確実に皆の心の中に大きな喜びを実らせるまで導いくださいます。確かに神様の国では悪が滅ぼされて、良いことを大切にします。良いことは小さくても成長し実り、素晴らしい影響をいたる所に及ぼします。良いことは大きな力を持っています。パン種のように人の心や環境まで全部、改善し変えることができます。イエス様がたとえ話を用いて、自分の聞き手を教育され、神の国の神秘的な存在を見出すように教えました。このようなイエス様の話はとてもやさしくて簡単で、だれにでも神様を見出す能力を与えました。神の国はいつも神秘的な状態の中に隠されてあり、とても小さな存在です。だからそれを見出すために特別な、イエス様の目のような能力が必要です。なぜなら神の国はすでにこの世にあり、この世の中に溶け込んでおり、だれでも受け入れることが出来ます。では、聖パウロの手紙の中にある思いを深めるようにしましょう。ご存じのように今日の旧約聖書の第一の朗読と福音書のテーマは大体同じで、旧約聖書の言葉と新約聖書の言葉も一緒に並行して学ぶことを示されています。新約聖書からの第二朗読は独特な課題をとり上げて、使徒たちの書簡か使徒の言行録から取っています。今回聖パウロはローマの教会への手紙で「霊」という神秘的な神様の存在を語っています。弱い私たちは「霊」によって強くなります。祈りのできない私たちでも「霊」によって神様に話しをすることができます。「霊」によって神様の心に尽くようになります。私たちの心の中にあることを何でも知っているのは「霊」です。同じ霊は、聖パウロが語る通り私たちの中にもおられて、このように私たちは神の国の真ん中に生きていることを実感することができます。
                                 モヨリ神父