カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 年間第6主日

2018年02月06日 | お知らせ


 この時期になると詩編・103編15節を思い出します。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風が通り過ぎると跡もなく・・・」 キリスト信者の思いとしては、イエス様と教会のことを人々に告げ知らせ、それが世に広がることは重要な課題になっています。だから、宣伝や、イベントなどの方に走ることが教会のことをより多くの人に知らせることのように思いがちです。しかし、実際には教会の心はそのようには広がらないと思います。神の国は不思議な力で広がります。イエス様自身が自らのみ言葉を、人の心に神秘的に届けます。その言葉は権威と力のある言葉ですから、小さな種であっても大きな実りをもたらします。このような真実に対して、キリスト信者の態度も少し調節すべきではないでしょうか。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)10・31~11・1.」
 使徒パウロは、回心によって大きな光で照らされ、新たな目で人の人生、人の生き方を見、その中に神様の栄光を読み取っています。どんな人間でも、人生の中で修業し苦労して神様の心を得るのではありません。イスラエル人であれ、異邦人であれ、神様の心に適う人生を送れば、すでに心の中で、神様が成し遂げられた技を見ることができます。使徒パウロは自分の人生の熱意の中で一つのことだけを探し求めました。自分の利益ではなく、皆の喜びです。実際に自分の人生を捧げて、人の喜び、あるいは人の救いを探し求めたのはイエス様だけです。だから使徒パウロは、熱い言葉を通してイエス様の生き方に倣うよう勧めています。そうすれば自らの人生を通して、神様の栄光を現わし、人類の救いや喜びをも求めることができます。
「マルコによる福音書 1・40-45」
 当個所でイエス様が成し遂げた徴を深く理解するためにはまず、皮膚病について当時の考え方を知ることが大切です。当時皮膚病を患っている人は、生きていても社会に対し宗教に対し、死んだような者として見られていました。命であるイエス様は、死体のような人の中に新たな命を吹き込んでいます。イエス様が力のある言葉で「清くなれ」と言われ、信じ難い素晴らしい場面を皮膚病の人の目の前に開きました。そして、神の命に取り戻された人に、司祭のところに行くように勧めました。その時、神の命に生かされた人は、社会にも宗教の世界にも取り戻されて生かされています。イエス様の命に生かされた病人は、自分の本来の心身の素晴らしさを再発見し、その中に神様の言葉によってあふれてきた喜びを味わい、素晴らしい経験の証しとして、自らの身に起きた事を皆に告げ知らせる者となりました。そして、イエス様が成し遂げた徴のことは、新しい葡萄酒のように四方にあふれ、皆に知らされて広がりました。 
                                 モヨリ神父

B年 待降節 第2主日 

2017年12月03日 | お知らせ


 教会の典礼により降誕祭の準備も進み、イエス様の到来を期待しながら、私たちと一緒に偉大なものたちも歩んでいきます。12月3日お祝いされた聖フランシスコ・ザビエルと、12月8日お祝いされる日本の保護者である無原罪の聖母です。聖フランシスコ・ザビエルの姿は日本人にとって、日本人の信者にとってかかせない情熱的な模範になっていますが、マリア様はどんな人物よりも、どんな女性よりもイエス様の誕生を期待された方ですから、私たちの降誕祭への準備を支え、導いてくれる方です。このような大きな力で支えられる取次によって、心を変え、目を覚ましていましょう、そしてこの世に来られた神様の愛の鏡であるイエス様を迎えるようにしましょう。
「使徒ペトロの手紙(Ⅱ)3・8-」14」
 いつもと違って今週は降誕祭のための準備として、ペトロの手紙が朗読されました。ペトロは確かに忘れてほしくない重要なことを述べています。それは「この世の存在は永久なものではありません、その終わりの時をふさわしく迎える為に目を覚ましていなければならない」とおっしゃっています。そしていくつかの心の態度が必要です。その時は誰にも知られていません。けれども神様に直接、出会う時になっています。聖ペトロがその時を迎えるために心の準備として勧めていることは信心深い生活を送ること、そして神様の約束に従って待ち望むこと、最後に忍耐をもって神様に認めていただけるように励みながら、平和の中に過ごすことです。
「マルコによる福音書 1・1-8」
 マルコ福音記者はその福音書の入門のところに「キリストの福音」という言葉を使っています。この音はだれにとっても愛(め)でたい音であり、福をもたらす言葉です。祝福を述べる言葉ですから、それを受け入れられる心だけが幸せを感じています。さて預言者のように洗礼者ヨハネは砂漠で叫ぶ声として、直接私たちの心に向かって、ふさわしい心で神様の言葉を受け入れるように勧めています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者であり、イエス様の到来の準備をしています。これから降誕祭に向かって、花婿であるイエス様が花嫁である人類を迎えようとしています。だから洗礼者ヨハネは花婿の靴の紐をとく値打ちのない花婿の友人として、イエス様の世への入場のための準備をしています。洗礼者ヨハネに「私は道である」と言われたイエス様は、神様に出会う場として私たちの人生唯一の道です。その道は整えられると、イエス様と全く同じような歩みを歩まなければなりません。その道は目標までまっすぐに導くのですから、価値のないものに捕らわれてはいけません。その道の目標は人類の救いで、神様の慈しみから罪を赦されて、イエス様がなさったように、人に苦しみを通してより大きな愛をみせることです。さて私たちが受けた洗礼は、この道であるイエス様との歩みの出発点であり、神秘的な力である聖霊の導きでイエス様と同じ目標までたどることになっています。         
                              モヨリ神父

A年 年間第30主日

2017年10月23日 | お知らせ
 
 
 先週全世界の宣教の日を祝った私たちが、どれほど皆にこのような神様の愛を告げ知らせることができるか、大きな課題です。そして再び主の日を迎えることができました。イエス様が色々な活動で疲れてきた弟子たちに、休むように静かな所に誘われました。今日は主の日、同じように色々なことで疲れてきた私たちも、イエス様の所で御言葉に支えられて休むように誘われています。「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・5―10」の中で、聖パウロはイエス様の福音を宣べ伝えるために新しい共同体を作り、ときによっては選ばれた召使と手紙を通して、少しずつその共同体の中にイエス様の姿を刻み深めるようにしていました。この時まず、聖パウロはテサロニケの教会のために自分の働きについて話しながら、積極的に苦しみの中で御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちを誉めています。聖パウロは神様の言葉を宣べながら、その言葉の活発な働きと成果に気づき喜んでいます。その満足感もテサロニケの信徒たちに伝えています。様々な偶像崇拝から離れて、神様だけに仕え、聖霊に導かれて働くようになり、イエス様が最後に来ることに期待するテサロニケの信徒たちを、聖パウロは再び誉めています。聖パウロが強調するのは自分の中でも皆の心の中でも、復活されたイエス様こそ全人類の救い主であるということです。
「マタイによる福音書 22・34―40 」
 法律だけが人間を救うものではありませんが、当時のイスラエル人の考えでは、どんな法律でも神様の愛に対する人間の方からの答えでした。だからすでに旧約聖書の時代にも神様に対する、また弱い人に対する、愛する掟を勧められていました。今日の福音書では、すでにイエス様から永遠の命について戒められたサドカイ派の人々の事を聞いたファリサイ派の人々が、再びねじれた質問によって一番重要な掟についてイエス様に答を求めました。ファリザイ派にとって、どんな掟でも(600以上)同じ価値を持ち、違う答えは普通の教えに反する発言になりやすいので、イエス様の答えは皆に注目されました。試されたイエス様はイスラエル人の宗教的な派閥を超えて、愛の掟は一番重要な掟であることを宣言し、愛の根は神様への祈りの中にあると、旧約聖書の個所を示しながら教えていました。「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」実は神様に対して、隣人の愛の泉は最後の晩餐の時に、イエス様ご自身の言葉に明らかにされています。「私が愛したように愛し合いなさい」とイエス様がご自分の心の愛を皆に模範として勧められました。
                                  モヨリ神父

A年 年間第29主日

2017年10月16日 | お知らせ
 
 
 イエス様に従ったものたちはいつもどんな時でもそれを覚悟して、イエス様から頂いた「福をもたらす音」、福音を言い広めています「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・1–5」によると私たちの手紙の書き出しに比べて、羨ましくなるほど素晴らしい最初の挨拶が、テサロニケの信者のために記されています。このような聖パウロの手紙の挨拶は、キリスト信者のための手本になっています。この挨拶は大いに聖パウロの心を現わしながら、同時に聖パウロのテサロニケの信者への深い思い、やむにやまれないメッセージを含んでいます。キリストに結ばれた者は神様の恵み、心の平和の中で生きています。信者である私たちも、人に何かを差し出そうとした場合、上記のような神様の贈り物が一番素晴らしいものです。聖パウロはテサロニケの信者たちに心をかけながら、キリストの信仰によって自分の兄弟として思い、信仰のために働き、愛のために労働していることを誉めます。テサロニケの信者たちは、信仰と愛の中で生きることによって父である神の心の中に留められて、神様に特に愛されているのです。聖パウロは私たちのためにも参考になることをもう一言伝えています。それは福音を宣べ伝える時に、言葉だけではそれが人の心に残らないことがあります、ですから聖パウロがやったように私たちも力や聖霊の光によって、福音的な生き方によって、キリストの心を伝えるならテサロニケの信者と同じように、誰でも神様の心を見出すことができます。
「マタイによる福音書 22・15-21」
 イエス様の言葉を信じることになった私たちは、その言葉によって気づくことが沢山ありました。今日はイエス様が、普段気づかない真実に眼が覚めるように仕向けてくださいます。宗教の世界、社会の世界は私たちにとってどのように見えているのでしょうか、対立し区別されているのでしょうか、宗教と社会、信仰と政治、心の中身と物理的な世界の区別と判断を、イエス様の言葉に基づいて考えてみましょう。まず、イエス様がおっしゃる通り、まず税金を皇帝に返すことを考えましょう。イエス様がおっしゃる通り、だれにとっても社会的な義務、役割、責任があります、それは果たすべきです。それによって、社会の平和と調和を求められます。宗教的な世界は社会的な世界に対立してはいませんが、むしろ神様の光で照らされた人間はどこでも、どんな時でも一番いい方法を探し求め、それは暮らしの原動力になっています。神様は私たち一人一人を心から愛されて私たちを神様の似姿に造られていますから、私たち自身、そしてこの世界も美しく神様が作られたままに返さなければなりません。イエス様の心と一致することによって、神様に私たちの素晴らしい人生を返すことが出来、神様の栄光となるのです。                            モヨリ神父



A年 年間第26主日 

2017年09月29日 | お知らせ
 
 
 イエス様は普通の農民の文化にそって、自分のことを麦の初穂であることを示し、皆のために主食になりました。私たちも一粒の麦として集められた時に聖別のパンになり、イエス様の体になります。日曜日にイエス様の体をいただく時に私たちはイエス様の死を思い、復活を讃えるのです。このような祝いは、秋の祭りだけではなく、永遠の命の神聖な祭りになっています。使徒パウロの「フィリピの教会への手紙 2・1–11」によると、エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
「マタイによる福音書 21・28-32」
 今日はイエス様が語られるたとえ話を通して、私たちの信仰の質を確かめるように勧められています。私たちの信仰が言葉の音にすぎないのなら、私たちも父親に「はい、はい」とだけ答えた兄に似ています。実は「はい」と言っても父親の心を行わなかった兄は、父親の愛に対して感謝の心をあらわしませんでした。私たちの人生を振り返って、どのように神様の愛に応えているのか確かめてみましょう。当時のイエス様の聞き手であった偉い者たちはイエス様の言葉を聞いて、イエス様の言うことを誉めたり、評価したりしましたが、それは自分の生き方までには及んでいなかったのです。日本の表現を借りれば、彼らの反応は建て前にすぎなかったのです。イエス様の言葉を聞いても、心が改心せず、自分の思い通り、利己心で生き続けました。つまりこの、子にかけられた言葉は愛に充ちた父親の、心からあふれ出た言葉であったことに気付かず、自分の人生の中で具体的にその愛に対して応えと感謝までいたらなかったのです。しかしイエス様のたとえ話では、父親の愛に気付いた弟は言葉の音ではなく、行動で父の心に応えるようにしました。どうして罪人、悩む人、貧しい人は神様の目に幸いでしょうか。今日イエス様のたとえ話の中に再びその答えがありました。寛大な心で愛されて赦された者、慈しまれた者だけが、その限りない愛に気付き、自分の人生で感謝を現わし、自分の人生の生き方で応えることができるのです。
                       

A年 年間第19主日

2017年08月09日 | お知らせ


 日本では夏祭りの季節ですが、キリスト信者にとっては毎週の日曜日に、神聖な祭り、感謝の祭儀を迎え、イエス様を大きな喜びをもってお祝いします。むしろその祭りは大きな喜びの日で、感謝の祭儀を通して、神様に対する、また兄弟に対しても感謝の心を現わしながら祭りを祝います。では、聖パウロの「ローマの信徒への手紙」の言葉にも注目しましょう。聖パウロはキリスト信者としてイエス様に強く結び付いていることを確信しています。それによって自分の人生、言葉、行いを通してイエス様のみ心だけを語っています。聖パウロは真実を語り、偽りは言わないとおっしゃっています。それに聖パウロが自分の心が悲しんでいることを語っています。それは、神様に選ばれた者たちがこの世に送られてイエス様のことを紹介して告げ知らせても、それに気つかず受け入れられない者も多いからです。このようなことは使徒パウロにとって非常に不幸なことなのです。
「マタイによる福音書 14・22-36」
 当マタイの福音書は大きな励みのメッセージもたらすところです。福音書のこの場面を正確に読みとるために、象徴的な出来事として分析してみなければなりません。いつも危なそうに浮かんで、揺れている船は教会のことです。しかしその中にイエス様と弟子たちがおられるから、安全に向こう岸に渡ろうとしています。それは神様が定められた教会の歩みを例えています。イエス様にとってどんな時でも祈るのは、自分のお父さん(神様)の心と思いとのつながりの場で、それは私たちの祈りにも参考になっています。イエス様のように祈る時こそ、神様との思いと心が一つになる時です。同時にイエス様がいつもご自分の弟子たちと一緒におられます。幽霊のようなものではなく、支える力、勇気を与える存在として弟子たちと一緒におられるのです。この時にもイエス様に従った私たちのために、心に響く言葉があります。「安心しなさい、私だ、恐れることはない。」この言葉はシナイ山で神様が自分の名前を述べられたように、イエス様が、自分のことを紹介します。「私だ。」つまり「私がある。」と。イエス様がいる時、つまり私たちがペトロのようにその欠かせない存在に気付く時に幸いです。再びイエス様が私たちに呼びかけています。「来なさい、安心しなさい、恐れることはない。」この言葉を信じたペトロは、強い風に襲われてもイエス様の手を握って支えられ、救われ、無事にイエス様がおられる船に戻れました。この時こそ、このような出来事とそのメッセージは私たちの信仰のために参考になりませんか。私たちの人生も嵐の中を小さな船のように進んでいますが、ペトロの信仰さえあれば、イエス様がいつも私たちのそばにおられて、私たちの手を握って安全な所まで導いてくださいます。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」    
                                  モヨリ神父

復活祭

2017年04月15日 | お知らせ


 ご復活おめでとうございます‼ 
大自然と共にわたし達の心の命、わたし達の夢がイエス様と一緒に復活しています。大自然も春分の日とお彼岸を迎えた後、季節はすっかり春になり、新しい服に着替えたような気がします。春は花嫁のように綺麗で、さわやかな香りに包まれ、各家々の庭、野や畑、山に抱かれた森の中にも、春の入場を見る人の心を豊かな喜びで満たします。
「復活祭のヨハネの福音書 20・1-9」
 イエス様が復活されました。イエス様は人類の罪、人類の弱さや苦しみを背負い、それを神様だけが持つ普遍的な力、愛の力によって死の闇を乗り越え、わたし達に赦しの復活、喜びの復活、命の復活を教えてくださいました。言い換えれば、体と心、心身で命の尊さを諭されました。今日、復活祭の喜びを味わいながら、この神秘的な出来事を深めましょう。聖書によると、週の初めの日、婦人達が朝まだ暗い内にイエス様のお墓に着いた時、それは空っぽでした。そこに葬られたはずのイエス様のご遺体はなかったのです。婦人達がイエス様の姿を見ようとしても見当たらなかったのです。あの時の婦人達が感じたことは、誰でも理解し易いと思います。彼らはすでにイエス様のご受難によって、心を騒がせていました。その上お墓の石が転がされていて、イエス様のご遺体は見当たりません。彼らの心は大きな痛みで抱かれました。しかしその時、体の目は心の不思議な光に照らされて、天使たちの声を通してイエス様が復活されたと悟りました。聖書に書いてある通り、イエス様は、お墓で蘇えられ輝いた姿を現わされました。それに気づいた婦人達の心は大きな喜びで満たされて、走って行きその素晴らしい出来事を告げ広めました。わたし達の場合、神様の不思議な恵みによって洗礼を受けましたが、どのようにイエス様の復活の体験を日常的に言葉で語ることができるのでしょうか。まず、人間が自分の人生が暗い時、苦しい状況の中、死の恐怖の中で、神秘的な方法でイエス様と出会うことが出来ます。わたし達が苦しんでいる時にこそ、イエス様は特別にわたし達のすぐそばにおられます。その時わたし達の力でその姿を見ることは出来ませんが、神様が送ってくださった心の光によって、イエス様の輝いている姿を見ることが出来ます。自分が苦しんでいる時に、失望した時に、その場でわたし達の苦しみを分ち合ってくださるイエス様のことを思い出すようにすれば、イエス様が約束された通りに、その出会いを実現することが出来ます。その新たな出会いによって、わたし達は大きな喜びを味わい、死から命の素晴らしさを見出すことができます。罪を赦されたわたし達が、愛する愛される自由を覚えた人間になれるのです。又、イエス様が十字架上で送り出だされた息吹によって、イエス様と一緒に復活し、永遠に生きることになります。「今日私と一緒に楽園にいる」復活とはキリスト信者にとって欠かすことのできない人生の経験です。それは自分自身を深く生きることによって、イエス様がもたらした救いの意味を身近に理解することが出来るのです。                 
                                モヨリ神父

C年 年間第12主日 

2016年06月14日 | お知らせ

 春分を過ぎると昼は目に見えて長く、夏至のころの夜は最も短くなります。夜のことだからさほど判然とはしませんが、なんとなく眠れぬ一夜、いつしか明るむ窓に驚いて目覚めるということはだれしも覚えがあるかもしれません。そこには一抹のわびしさとやるせなさといった感情もふくまれています。このわたし達が生きている人生も短い一夜のように見えますが、その後限りのない普遍的な一日の明るさが待っています。
また梅雨に入って田植えも進み、苗もほとんど植えられて田に広がり、成長する段階に入っています。その小さな苗、風にふらふらする弱い青草のような植物の中に大きな希望があります。キリスト信者も小さな祈りの中の、心にある弱い願いに大きな希望が含まれています。皆を大切にされる神様はいつもわたし達の小さな願いに耳を傾けてくださいます。それがわたし達の大きな希望になっています。自分に従った者達にイエス様は、神様になんでも頼むように勧めておられます、愛である神様は信仰を持っている人にとって欠かせない希望となっています。
「ルカによる福音書8・18-24」
 イエス様に従う人は、先生であるイエス様の心の通りについて行きます。イエス様が定められた生き方の通りに進むのは欠かせない条件です。自分を捨てて、憎まれて、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことは、実際にどのような意味があるのでしょうか。マルコの福音書によると、ペトロの信仰の告白は福音書の中心になっています。ルカの福音書では少し違いますが、マタイの福音書ではイエス様のご受難につながっています。それはどういうことかと言えば、選ばれた弟子がその先生に従って先生に倣って、先生の心をまず知るべきなのです。先生に従う、知る、自分の人生に受け入れるのは、大きな努力や真剣な決定の結果ではなく、祈りの中で生まれてくるものなのです。「イエス様が一人で祈っておられた時…」イエス様は自分のことを弟子たちに知らせ、わからせる時に、苦しみから喜びへの道を教えられます。このようにイエス様が自分の死と復活を予言し、このように自分の弟子の心とあり様を見ておられます。ルカの福音書によると、イエス様の弟子の特徴は五つあります。1)自由に選択する(わたしについて来たい人は…)2)自分の十字架を受け入れること (自分の十字架を背負って)3)忍耐を持つ(日々)4)従うこと(わたしについて)5)神様のみ旨の通りを考えて行うこと(わたしの為に命を失うものはそれを救うのである。)当福音書の注目すべき事は人間の心の自由です。マタイの福音書の中にも同じことが上げられています(もし完全になりたいのなら… わたしに従いなさい)。イエス様が自分の弟子になりたいわたし達を、暖かい心で無条件に誘っておられます。弟子になりたい人はイエス様の誘いを受け入れて、イエス様が教えられた通りに従うようになることです。

C年 年間第11主日 

2016年06月06日 | お知らせ


 キリスト信者には心の中に何にも左右されない、命である神様からいただいた沢山の賜物があり、それを味わって感謝しています。それは本当に幸いなものです。どうしてキリスト信者はこのように幸せであるかと言いますと、イエス様が言われたように、貧しい時、悲しむ時、柔和な時、儀を求める時にあなた方は幸せです。なぜなら困った時、より身近に素晴らしい神様の心をみてそれに倣い、そのために神様から大きな慰めを与えられています。それだけではなくイエス様の言葉を参考にするキリスト信者は、自分の人生を振り返って、その中で神様の働き、神様の贈り物、神様に助けられたこに気付きながら、神様の愛に包まれて自分が幸せであることを実感することで大きな喜びを味わっています。
「ルカによる福音 7・36-50」
 初代キリスト信者たちが赦しの秘跡をいただくのは、現在とちがって特別な出来事であり、人生の中で一回だけでした。しかし教会にはいつも、赦す心とその態度も憐れみ深い背景の中にありました。いつも罪人の回心と救いが求められていました。善行によっても罪が赦されていました。今日の福音書の課題は、イエス様が罪を犯した女を赦すことによって、わたし達に赦しの素晴らしさを語ってくださいます。当福音書の出来ごとにはイエス様の慈しみに対して、二つの心の態度を紹介されます。一番目はファリザイ人であるシモンの態度です。イエス様のやり方を批判し、イエス様のことまで見下しています。二番目はベタニアのマリアの行動です。マリアは寛容をもって、本当の愛情を見せながら、イエス様に自分の心を開きます。確かにイエス様は皆の心の中にある良いものを評価します。ファリザイ派のシモンの判断も、罪を犯した女の愛情も誉めています。イエス様は罪を強調しないで、むしろ愛の大きさを高めて、ファリザイ派のシモンが示したうすい愛情を見直すように勧めています。このようにイエス様が神様の愛は赦しの泉であることを示しています。神様の赦しはより大きな愛からわき出て、いつでもどんな時でも皆、ゆるしてくださいます。旧約聖書では神様はダビデの罪でさえ赦してダビデの命を守りました。新約聖書ではイエス様が大きな愛の中で罪を犯した女を赦して、彼女はイエス様の愛の大きさを知りました。彼女はイエス様の愛に包まれて生き、大きな愛をイエス様に返しました。キリスト信者も神様の愛によって赦されて、その愛を返しながら、より大きな神様の愛に包まれています。
                              モヨリ神父

C年 三位一体の主日

2016年05月16日 | お知らせ
  
 
 今週は三位一体の主日に向かっています。神様について、皆に温かい心で話したくてたまりませんが、それについて語ろうとしたとき、うまく伝えるのはなんと難しいことかと深く感じています。 三位一体とは神様の自己紹介です。ちょっと哲学的、神学的な表現ですから説明しても、神様のイメージはすぐには身近に理解出来ないと思います。けれどもお祈りの中で、神様の神秘を黙想しながら理解できるように、神様について感動的な心が燃える話を心に留めるようにしたいと思います。神様はだれも見たことがありません。しかし、イエス様が身近にその心、その姿を語ってくださいます。神様に向って、お祈りさえ知らなかった弟子達に、イエス様は次の言葉を教えて神様の姿を見せました。「天におられる父よ」神様は私たちのお父さんであり、私たちといつも共におられます。皆のお父さんであり、皆を大きな愛情で包んでくださいます。このようにイエス様が神様の心を語ってくださいます。「み名が聖とされますように」神様は私たちのお父さんであり、素晴らしい唯一の方です。私たちの心を大きな喜びで満たしてくださいます。そして、全てのものよりも偉大であり、全てのものよりも一番大切で欠かせないものです。このように神様の名前は高められています。「み国がきますように」神様の国は小さいもの、弱いものの国であり、愛の国です。そしてその「国」はイエス様自身です。神の国はもうすでにあなたたちの間にあるとイエス様がおっしゃっています。その時、イエス様は神の国は自分自身であることを示しています。この国はどんなことよりも価値があって、小さくても宝物のようなものです。大きな力を持ち、どんな人をも含んで大きな木のように成長し、遠くまで心の枝を伸ばしています。次に「み心が天に行われる通り地にも行われますように」神様の神秘的な心は聖霊です。つまり聖霊は御父とイエス様の心を結びながら、神様が愛で燃える心を示しています。その愛の中に私たちのことも含まれています。聖霊は私たちと一緒に歩みながら、私たちを見守り導き、私たちの人生の計画を組み合わせています。私たちの過ちを、いつも大きな心で赦してくださいます。
「ヨハネによる福音 16・12―15」
 今日の福音書も、聖霊の力で神様の姿を悟らせていただきながら読み進んでいきたいと思います。 イエス様が御父の愛を示す為にこの世に来られて、私たちの友、兄弟になり、私たちと一緒に歩んでくださいました。イエス様に担われたり、引っ張られたりする時がありましたが、愛する愛される道だけを教えてくださいました。その愛は無償で普遍的で、神様だけが示している愛です。神様は誰をも滅びないようにと望まれるので、どうぞ大きな希望を持って前向きに歩むようにしましょう。神様は私たちを必ず、大きな喜びのあるところに導いてくださり、腕をひろげて私たち一人一人を待っておられます。キリスト信者の心に降って来られる聖霊は、キリスト信者に真理全体を告げ知らせ、真理の光の元に導いてくださいます。真理とは神様についてのことと人類の救いであるイエス様の死と復活についてのことです。真理の世界に入ることによってイエス様の心を知り、同時に神様の心を見つめることが出来ます。それが出来るのは聖霊の光によるのです。弱い人間にとって真理を知ること、真理を究めるのは簡単なことではありません、しかし聖霊の賜物である知恵、理解、判断、勇気によって、真理を完全に理解するまでに導かれています。イエス様の死と復活によって、人類が神様と和解し、神様の友情に取り戻されました。聖霊によって真理、愛、命である神様の心を知ることが出来ました
                                 モヨリ神父   

主の昇天の主日

2016年05月02日 | お知らせ
 
 最近五月に教会よりもキリスト信者の家庭でロザリオを唱える習慣がひろがりつつあります。日常生活の喜びと苦しみの場である家庭で、いつも見守ってくださるマリア様に祈る事はとてもふさわしいことです。皆の家庭はいつもマリア様に守られて、神様にとりなしてくださるマリア様から支えられています。次に主の昇天の祝日を迎えながら、昇るという言葉を検討してみましょう。まずお日様が高いところに昇ることを表しています。高い立場、その位置も示しています。さてイエス様はお日様のように天の高いところ、全ての上に昇って地球を照らし、温めて、命を育てています。お日様が昇ったところは大変高いところで、人間には簡単に行けませんから、神様がおられるところを示しています。しかしお日様は自分の日差しによって、人間の心を照らしあたためて、命の成長を守っています。天に昇られて神様になったイエス様も全く同じことです。
「ルカによる福音書 24・46-53」
使徒たちの宣教による主の昇天の物語とルカの福音書の主の昇天の物語は、同じ著者で書かれているのに微妙な違いがあります。使徒たちの宣教には歴史の流れに注目しながら、イエス様が復活されてから四十日後、弟子たちの目の前で天に昇られました、一方ルカの福音書によるとイエス様が復活された後、すぐにその晩、天国に上げられました。このような違いがあり矛盾することもありますが、神様の目には時間のことは一瞬でも、何日後かであっても人間との出会い、人間とのかかわりはいつも時間的なことは論外に見られています。さて現在の時代に復活されたイエス様は皆の目の前から消えてしまわれても、私たちの間におられて時間が霊的に流れることのない時代が始まりました。私たちの救いと喜びと栄光の時代です。イエス様の教会の成長に注目する使徒たちの宣教は歴史の中で歩み続ける出来事を語り、時間の中で神様の働きを述べています。実際に新しい教会を生み出した人たちは復活されたイエス様の神秘を理解するため、完全に受け入れる為に時間がかかりました。イスラエルの古典では、「先生の教えを覚えるために弟子は40日間かかります」と。イエス様の死と復活の神秘を覚えるため、その心を受け入れる為にこのようにしばらくの時が必要でした。聖書の物語によると、確かに初代教会にとって、旧約聖書の流れに入るため、イエス様の言葉、イエス様の神秘的な存在を受け入れるのは簡単なことではなかったのです。その時、初代教会は成長の苦しさを感じながら、厳しい時間のながれを体験しました。上記のような矛盾を理解しながら、イエス様の発言に関して、もうひとつ、理解をもとめる矛盾的な言葉があります。イエス様が「これからずっとあなた方と共にいる」と約束しながら、天に昇って弟子たちの目の前から消えられたことです。しかし、イエス様はご自分の人間的な姿が消えても、ご自分の言葉、共同体、秘跡、貧しい人、の中にいつも別の形で私たちと一緒におられるのです。
                                 
                                モヨリ神父

C 復活節 第6主日 

2016年04月25日 | お知らせ
2016 5・1
 5月に教会から特別に大切にされた「母の日」を迎えることになりました。母の日は、限りのない感謝の心を示す時です。キリスト信者は自分の母を通して神様からいただいた命を大切にしながら大きく感謝を表します。もちろんまず自分の生母ですが、それに十字架の下でキリスト信者を任命された皆の母としてのマリア様です。マリア様はイエス様のお母様でありながら、イエス様の内に生きる者たちのお母様です。神様の母であるマリア様は私たちをずっと見守って、私たちの為に神様に取りなしてくださいます。それで5月はマリア様にささげられた月として、キリスト信者がいろんな方法でロザリオを唱えて神様の母であるマリア様を誉めたたえながら、お祈りささげます。マリア様は母として私たちの弱さ、苦しみ、労苦を見ておられますので、その中でいつも私たちの祈りを聞きいれてくださり慰め、見守っていてくださいます。キリスト信者にとって、マリア様は欠かせない存在で、いつでもマリア様のご絵、ご像、メダイなどを見てなんでも願って祈ります。そして、主の昇天の祝日を祝います。イエス様は天国に昇られましたが、天国はどこに置かれてあるのか、これはキリスト信者にとって欠かせない課題です。ではルカ福音記者の福音書を通して、答えるようにしてみましょう。
「ルカによる福音書24・46-53」
 これから復活の喜びを味わった教会全体やその典礼も、大きな情熱を持って主の昇天と聖霊降臨の祝日に向かっています。当福音書はイエス様の最後の晩餐の話の一部を紹介しています。基本的に4つの課題が取り上げられています。1)イエス様に対する愛はイエス様の言葉を聞くことによってあらわすことが出来ます。2)イエス様は出てこられた神様の元にもどります。3)イエス様は弟子たちに弁護者と指導者として聖霊を送ります。4)イエス様が神様のところに帰る前に平和を贈り物として弟子たちに与えます。今日の典礼はイエス様の言葉を受け入れる人は聖霊を贈り物として与えられ、聖霊の宿になります。それはまさしく教会の心です。それに注目すべきことは、ヨハネの福音記者によれば、最後の晩餐の時のイエス様が話されたことはその時だけではなく、おそらく復活後も同じように話された可能性があります。イエス様を愛する人はイエス様の言葉を聞いて受け入れますがその時、先生であるイエス様と弟子としての関係を定められています。信仰によってキリスト信者は愛情で先生であるイエス様に結びついて従っています。キリスト信者はイエス様の言葉を聞き、理解し、身につけ、広めています。先生であるイエス様の言葉を弟子と私たちの心にとめることによって、神様の愛が自分の中に宿られたことを経験します。神様が教会に送り込んだ聖霊は、教会の中でイエス様が与えた言葉、教え、その心を実現する役割を持っています。聖書は大理石のように固まった言葉ではありません、聖霊によった生き生きとした言葉であり、歴史の流れの中でいつも新しく、どんな時代でも人の心の中で燃えています。最後に「平和」も復活されたイエス様の贈り物であり、その平和は祈りや観想されたイエス様の言葉から発生します。キリスト信者は信仰によってそれを自分の心の中、共同体の中で造りあげるのではなく、むしろ発見するように誘われています。                   モヨリ神父

C年 四旬節第5主日

2016年03月07日 | お知らせ
 2016・3・13

 聖周間及び一年間中でキリスト信者には信仰の頂点であるお祝いが近づいて来ました、新たな思いでそれを迎えるようにしましょう。イエス様のエルサレムの入城、イエス様の最後の晩餐、イエス様のご受難、イエス様のご復活を記念し、それを祝いながらイエス様の死と復活によって、それぞれ自分が神秘的に神様の愛に救われたことを思い起こしましょう。大自然も春の登場と共に、桜も開花しこのような大きな喜びに参加しているようです。イエス様が私たちの代わりに自分の命をささげ、私たちに神様の赦しと神様の愛を授けられました。その命によって、赦しの命、愛の命で人間が生きています。復活祭に向かうキリスト信者は、春に新しい水が湧き出るように、神様からだけ流れ出る新鮮な生き生きとした命をくんで、新たな力、新たな喜びで人生を進んでいきます。
「ヨハネによる福音書8・1-11」
 神様はいつも新しいことを成し遂げて、行きづまりになった人間の人生、死に向かう人間を新しく完全に生まれ変わらせています。このように神様の慈しみは限りがありません。神様は無条件で皆を愛し、赦しています。当福音書の中に出てくる罪を犯した女は、イエス様の赦しによって命を得ました。神様は愛によって、女の犯した罪を全て赦され命に変えられています。現在、この世では教会がこのイエス様の赦しの権威と心を受け継いで、それを寛大な心で慈しみ深く人々に授けています。当福音書のエピソードは、あくまでもヨハネ福音記者に属している個所ですから、象徴的に読むと豊かな内容が表れてきます。この段階でイエス様とファリザイ派の人々の間の対立は、ますます悪化して、イエス様の寛大な慈しみを批判するファリザイ派の人々が、イスラエルの法を尊敬せず守らないイエス様を厳しく訴えようとしています。イエス様の言葉と行動も神様の心をみせるようにしています。人間から裁かれても神様は大きな愛情、命の愛情で包んでくださいます。神様の正義は不正に思われるほど罪人を愛し、罪人を探し求めて自分のふところに止めています。より深く当エピソードを見てみれば、罪の現場で見つけた女なのに相手のことについて何も記されてありません、なぜなら罪を犯した女は教会のことを示し、イエス様はその裏切られた花婿であり、罪は裏切った相手のことを表しています。このような見方で、人類から裏切られたイエス様は、限りない普遍的な憐れみと慈しみを示しています。教会の人々には何も定められていません。罪によって死に定められた人類は、イエス様の赦しによって命と喜びに取りもどされ解放されています。イエス様の教会の人々は、このような寛大な神様の心で包まれて、全ての罪を赦され大きな喜びを持って復活祭の方へ歩んでいきます。
                          モヨリ神父

C年 四旬節第四主日 

2016年03月01日 | お知らせ

 
 皆さん、いろんな小さな犠牲を積み重ねながら、復活祭への準備が進んでいますか。四旬節の特徴は、洗礼志願者の勉強であり、自分の人生を振り返り、よりイエス様の思いに近づいて日々を送る時季であることです。そして怠ったことのため出来なかったこと、間違ったことのために神様からお赦しをいただくことです。寛大な心で人を赦すこと、叉自分も赦されるのは四旬節の中心的なメッセージです。赦しは赦す者と赦された者の心の癒しになります。自分を赦し、神様も赦して、親や身内の者たちも皆赦せば、心は体験したことのない平和に満たされます。神様はみんな、どんな時でも、どんなことがあったとしても、いつも赦しています。つまり赤心で皆を癒して大きな愛情で包んでいます。それはキリスト信者の模範です。
「ルカによる福音書 15・1-32」
 当福音書のテーマは人間に対する神様の暖かい赦しです。つまり再び命を与えることです。昔、神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、奴隷制から解放して救いの道を教えたように、イエス様は罪の束縛から私たちを解放し、神様に深い愛情で結びつかせてくださいました。神様はイエス様のあがないによって、遠去かってしまった人類を再び赦して大きな愛情でご自分のふところに入れてくださいました。当祝日は「Dominica laetare」と呼ばれています。福音書の中で参考になる言葉は「……祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」です。なぜなら神様から何度も赦された者、救われた者は大きな喜びを味わいます。放蕩息子のたとえ話の背景は、福音書に導入されたように神様の心を見せます:「罪人を招いて、かれらと共にお祝いする。」放蕩息子のたとえ話の構成は、登場する人物を特別に強調します。自分の命より子供を愛するお父さんのこと、お父さんの愛を無駄に使いはたした弟とお父さんの愛の広さを理解しなかった兄です。放蕩息子のたとえ話は罪人に対するイエス様の愛を高めています。たとえ話の欠かせないポイントは「心に受け入れる」ことです。たとえ話に登場する父親の態度は罪人や間違っている人に対して参考と手本になっています。まず、息子が離れてから、父親はずっと絶えず待っています。過去のことを完全に忘れて、過去を掘り起こさないようにし、むしろ、反省し赦しを願って戻った息子を喜び、大きな祝いに迎え入れています。受け入れる人は受け入れられた人と赦しの愛を分かち合うことによって、大きな喜びを得る事ができます。このようにイエス様がいつも罪人とかかわっています。弟の兄を受け入れる態度はイエス様から批判され、もっと寛大な心で人を受け入れるべきだと、そして喜んで祝い、素晴らしい経験で人生を飾るようにと勧められています。               モヨリ神父