カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 四旬節第一主日

2018年02月12日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 四旬節第一主日 2018・2・18

 灰の水曜日の典礼で四旬節に踏み出しました。灰の中で火が燃えていると思い、より深い復活祭の喜びを味わいたい私たちの四旬節の過ごし方は大きな課題になっています。イエス様が勧めてくださるのは「自分をして、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」それは日常の奉仕、祈り、小さな犠牲によって、イエス様の足跡を踏みながら、周囲にいる人達の心を思いやり、神の国を作ることです。キリスト信者の労苦は復活祭の光で照らされて軽くなり負いやすくなります。
「使徒ペトロの手紙 3・18~22」
 使徒ペトロの手紙は、イエス様の霊を通して神様に近づくように勧めています。人間は弱い者、間違いやすい者ですから、何度も神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の死と復活によって神様のところに立ち戻ることが出来ました。使徒ペトロはこのような神秘的な出来事をノアの物語の人類の救いに例えて明確にします。洗礼の本格的な準備に入ろうしている方々にも参考になるはずです。洪水によって、罪に落ちた人々は滅びてしまいましたが、ノアは船で水の上に逃れ救われました、そして神様とのつながりを作り直しました。さて、洗礼を受ける者も同じように神様の霊から救われています。洗礼の時にかけられる聖水の徴によって私たちの罪は清められて、ノアと同じように神様と新たな深いつながりを作ることになっています。それはイエス様と一緒に復活することです。
 四旬節に入って、キリスト信者は心の回心を求めて祈り、節制し、神の愛の技に導かれて復活祭を迎えようとしています。当マルコの福音書は二つのテーマに分かれています。イエス様が受けた誘惑と、イエス様の宣教活動です。基本的にイエス様が受けた誘惑のメッセージは、人は悪に追われていても神の言葉によって生きるということです。新しい人生の始まりにどのように心の回心を得られるのか、神は導かれながら最高の愛の技を教えてくださいます。それは赦しのことです。神の言葉によってイエス様と同じように人が悪に打ち勝って神の国の素晴らしさを見出すことが出来ます。だから神の言葉はキリスト信者にとって日常の食物になり、心の回心への道になります。確かに私たちもイエス様と同じように日常生活の中で野獣に囲まれています、しかしイエス様と一体となれば神の言葉だけに生き、天使たちは私たちに仕えてくれるのです。さて、神の言葉に目を覚まされ新しい時代が始まったと気付いたとき、神の国はもうすでに私たちの目の前です。なぜなら神の言葉は私たちにとって心の光であり、福をもたらす音だからです。このような言葉に励まされて私たちは砂漠のようだった心の回新を求めるのです。
                            モヨリ神父

B年 年間第5主日

2018年01月29日 | 神父様からメッセージ(B年)


 イエス様の苦しみと最も一致している病者はイエス様の力で支えられています。イエス様と共に苦しむ人はイエス様と共に喜びの中に復活します。癒しの油を塗布された病者は、人類の救いである自分の苦しみの目標を見出し、神秘的なイエス様の力で癒されます。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)9・16-23」
 使徒パウロにとっての欠かせない義務は、福音つまり祝福の音であるイエス様を告げ知らせることです。それは教会の欠かせない義務でもあります。福音宣教は使徒パウロにとって自らを誇るものではなく、給料を得られる勤めでもなく、そのための特別な権利を持たず、心から福音を述べ伝えるためだけに特別な力と希望を感じています。それはイエス様です。使徒パウロはイエス様の言葉を伝える為に全ての人の奴隷になりました。弱い人にイエス様を知らせるため、また弱い人を得る為に自らも弱い人のようになりました。使徒パウロの心の中には確かに一つの希望がありました。それは、どんな人をも皆、イエス様のところまで導くことです。使徒パウロにはそのことこそが大きな喜びであり、人生の最高の目標だったのです。
「マルコによる福音 1・29-39」
 聖書の研究者によるとイエス様は、この頃、自分の小教区であったカファルナウムにおられます。つまりイエス様はカファルナウムでいろんな活躍をされました。会堂で話終って、ペトロとアンドレの家に行かれます。少し専門的にマルコの福音書をみてみることにします。まず、イエス様のことを弟子たちと同じようにあまり知らなくて、けれども身近に使徒パウロに係わったマルコはずっと歩き続けるイエス様の姿を描いてくださいます。さて、この箇所は4つの場面に分けられています。A)イエス様が病気のペトロの姑を癒されています。B)イエス様が奇跡を行い続けています。C)イエス様が祈られています。D)イエス様が福音を宣べ伝えています。この四つの場面の特徴を振り返ってみましょう。イエス様がペトロの姑を蘇らせ立ち上がらせています。つまり彼女のためにイエス様が新たな命になります。イエス様の力で生き返った者は人をもてなして奉仕します。次にペトロの姑に注がれた力と恵みは、苦しみ悩む人々にも与えられています。その後、イエス様は自分を知るためには聞いた言葉によるのではなく、自分と出会い深く係わった人だけが理解出来るのだから、自分の行いについては沈黙するように命じています。イエス様はそのためにも祈っています。実際イエス様の正体は人には理解しがたいものですが、イエス様自身が人の癒しや救いであることを教えてくださっています。
                                モヨリ神父

B年 年間第4主日

2018年01月23日 | 神父様からメッセージ(B年)


「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)7・32-35」
 世にある多くのラブ・ストーリーは、何故かいつも私たちの注目と興味を得ています。でも、私たち自身にも長い、複雑なラブ・ストーリーがあります。それは神様と人類の間の愛の物語です。神様はいろんな時、いろんな方法で人類に花嫁のようにご自分の愛を示しました。しかし、人類の方は神様の愛に応えなかった時もありました。しかし、神様は絶え間なく忠実に、人類に、私たちに、ご自分の愛を示し続けられました。神様の愛は人間の愛の手本になり、家庭の愛も神様の愛を語るものです。人間間の愛はわずかなものですが、神様は広く豊かな愛を見せてくださいます。さて使徒パウロは、人間の愛を評価していなかったコリントの信徒たちに、人間の愛の尊さを語り、神様の心にある愛を映してくださいます。そして、イエス様に従った者たちは、結婚してもしなくても、自分の人生の中でより高い理想をめざすように努めれば、自分の家族の中や社会の中でも、神様に仕え、より大きな愛を示すことができ、大きな喜びを得ることになるのです。
「マルコによる福音書 1・21-28」
 いつも第一朗読から打ち出されたテーマは、福音書にも含まれています。よく福音書にでてくることですが、イエス様の言葉や教えを聞いた人は非常に驚いたと書いてあります。驚くとは通常起こらない出来事を見ること、いきなり新しい気持ち、喜びや悲しみか発生することです。よくそのような経験をしているのは子供たちです。彼らはこの世に生まれてきてまだ日が浅く、なんでも新しい経験ですからよく驚きます。そして純粋な心で真理を探し求めます。さて、人間でありながら神様の力で悪霊を追い出し、神様の代わりに話す人、言いかえれば預言者の権威のある者の話を聞くと、だれでも驚くのではないでしょうか。イエス様が神様の力、み言葉の力で悪霊を人間の心から追い出しています。イスラエル人は、神様を見る人は生きていられないと信じていました。しかし、イエス様の言葉で追い出された悪霊が、自分の畏れを示してイエス様の正体を叫び続けています。又、神様より自分の弱さを認めていた悪霊は、イエス様の素晴らしさを公に認めています。だからそれを見た人々のように、私たちもどこででもだれにでも、悪霊にさえ勝ったイエス様のことを、大きな情熱をもって告げ知らせましょう。                                         
                        

B年 年間第三主日

2018年01月16日 | 神父様からメッセージ(B年)


 今年に限りカトリック典礼では、年間の第三日曜日に使徒パウロの回心の祝日が重なっています。そこで使徒パウロの年にあたり、使徒パウロの回心を優先してお祝いすることになりました。全世界のカトリック教会にとって、自分の真の姿を明確にする機会となります。何故使徒パウロは使徒と呼ばれるようになりましたか、キリストの使徒の主な役割は何でしょうか、キリストの教会はどうあるべきでしょうか、このような欠かせない質問に対して、キリスト教会に属している私たちは、使徒パウロの回心によって答えることが出来ます。当祝日の第一朗読は、使徒たちの宣教による使徒パウロの回心を活き活きと感じさせながら三回語られています。ちなみに聖書の英訳では、使徒パウロの回心の文章は英文学の最高に美しい参考文になっています。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)7・29-31」
 自分が生きるのではない、イエス様の中に生きるという回心によって、イエス様と一体となった使徒パウロは、この世に生きることよりも死が利益であることを思い、復活されたキリストと共にいるのは自分にとって真実のすべてであると述べています。人は生きている間、どうしても心は家族のものに、悲しみに、喜びに、この世の全てのものに捕らわれています。心の自由を求め続けた使徒パウロは、この世のすべては無であると知ることを私たちに勧めています。私たちに価値のあるのはキリストのみです。自分の人生を法律に基づいて生きようとした使徒パウロの心の中は、それらが完全に見えなくなったところに新たな素晴らしい光が見えるようになりました。それは神様の恵み、神様の救いだけです。そこから人間の自由と愛が生まれます。人間はいくら法律を守ろうとしても、いつも自分の弱さと欠点だけしか見えないようになります。使徒パウロはその光の中に普遍的な宇宙を見出し、法律の空しさを悟り、キリストの教会である生きたイエス様の姿を見、全世界に素晴らしい出会いの心を宣べ伝える生涯を生きました。
「マルコによる福音書 16・15-18」
 マルコの福音書は、使徒パウロがローマで死刑になったのち書かれた福音書ですから、使徒パウロの書簡の心に特に忠実に沿って書かれた書物であることがよくわかります。マルコは身近に使徒パウロを知り、その情熱に戸惑いつつ感化され、使徒パウロの言葉や働きに完全に捕らわれていたことがあったと歴史からわかっています。そのようなところは当福音書の中によく顕れています。イエス様の使徒である資格は、イエス様の復活の証人であることから発生しています。そのような確信をもった使徒は、復活されたイエス様から全世界に派遣されています。その派遣の目標は人々に福音を宣べ伝えること、そして神様が人の心の中にすでに行われた奇跡を確認し、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けることです。このような使命を帯びて神様と共に働く人たちは、確実に神様に見守られ、支えられ、勇気と特別な力をも与えられて、神様のみ旨通りを神様と共に行うことになっています。
                            モヨリ神父

B年 イエス様の洗礼の主日

2018年01月08日 | 神父様からメッセージ(B年)


 教会の典礼では、降誕節とその中のイエス様の公現を締めくくる日曜日を迎えることになりました。それは「主の洗礼」です。この時、イエス様に従うようになった信者たちは自分の洗礼とその時の感動を思い起こします。その時から、私たちの心の中に贈り物のように聖霊が入り込んで教えるようになったことはたくさんありました。私たちは神の子となり、私たちの人生は神様の愛の証しになっているのです。
「使徒ヨハネの手紙5・1-9」
 親子の関係、特に父親と子供の関係はいろんな文化や時代の詩の中で例えられていますが、聖書のなかでは、特別に神様と人類との関係が普遍的な親子(父と子)の物語として語られるようになりました。使徒ヨハネは私たちのことも親子のつながりとして感動を語ってくださいます。イエス様に従う者たちは神様から生まれたもので、神様の愛に特別に包まれています。その愛によって、親子となった関係の中で、それを大切にすれば、私たちの生き方はその愛の答えとなります。神様の愛に応えるためにまず神様のみ旨、神様の希望、(掟)を守ることです。神様の掟を守るなど難しいことと思われるかもしれませんが、そうではありません。愛する人の希望を受け入れることは、人間関係の中でも一番やさしいことではありませんか。同じように神様の希望を守ることは、軽い重荷ではないでしょうか。私たちが与えられた人生の中で、神秘的な出来事を気付くことはたくさんありました。それは神様の愛が私たちの中に「霊」として止まり、気付かせてくれるからです。この世に神様の心を語るために来られたイエス様は、真理を語り、自分の死と復活により私たちに神様の愛を身近に証しました。
「マルコによる福音 2・7-11」
 洗礼によって私たちはイエス様と一つになりました。そのとき天から下った言葉は今日私たちに直接向けられています。「あなたは私の愛する子・・・」と言うこの言葉によって、私たちは父である神様の子なのです。それは私たちの理性で知ることではなく、大きな光で天から幕を取り除いた聖霊から知らされた真実であり、私たちにとって素晴らしい恵みとなっています。そして「・・・私の心に適うもの」という言葉は、イエス様の人生、死と復活に当てはまっていますが、洗礼によって聖霊で満たされた私たちにも当てはまっています。洗礼(水と霊)によってイエス様と一体となった者、つまりキリスト信者は、神様の心を果たすために生きています。人生のその一瞬一瞬を神様から頂いたものと思い、それを大切に感謝を現わしながら、神様の愛の証となるのです。そしてイエス様とともに同じ運命に向って神様のふところに戻るのです。このようにイエス様に従った者たちは、この世の価値観に勝っています。                            
                                   モヨリ神父

B年 聖家族の祝日

2017年12月29日 | 神父様からメッセージ(B年)
お正月の挨拶

神様に愛されるキリスト信者ゃ良い思いで心を満たされた皆さん!!
新年おめでとうございます!
主はあなた方を祝福し、あなたを守られるように。
主がみ顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主がみ顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように。
                       [民数記6,22-27]

 聖家族の主日を迎えます。キリスト信者は聖ヨセフとマリア様とイエス様のご家族を見習い、同時に自分の家族のために祈りたいと思います。この時に自分の結婚式の誓いの言葉を思い起こし、再び神様の取次と祝福を受けるように、大きな希望を持ちながら、それぞれの家族を大切にできるように神様に願いましょう。忘れてはならないことですが、教会自体も聖家族を見習っている素晴らし皆の家族です。
「ヘブライ人への手紙 11・8-19」
 実はヘブライ人への手紙は、使徒パウロが亡くなってから書かれたものです。この手紙は確かに使徒パウロの心を写しながら、同時に初代キリスト信者の共同体の信仰を語っています。当個所の主役はアブラハムの信仰です。アブラハムの信仰は神様を信じる者たちの信仰の元になっています。アブラハムは神様の手に自分の人生をゆだねました。神様から自分の生まれた故郷から出て行くように言われた時、行先も知らぬまま、神様のみ旨に従いました。又、アブラハムの妻サラは不妊でしたが、アブラハムは神様との約束を信じ子供イサクをもうけました。しかし、神様がイサクを生贄として捧げるように勧められたとき、命の神様はアブラハムの信仰を見て息子イサクを返し、その後数知れない子孫でアブラハムの人生を報いました。アブラハムが生きる神様のことを決して疑わず信じたことによって、死の淵から蘇り普遍的な命を得られたのです。
「ルカによる福音 2・22-40」
 ルカの福音書で、幼いイエス様は神殿で神様に捧げられています。実はこのような習慣はイエス様の時代には普通でした。各家庭に男子が生まれた時、神様に対する感謝として神殿で聖別されていました。イエス様の場合、より深い意味につながっています。この個所ではヨセフ様とマリア様とイエス様は当時の貧しい家族のように、とても素朴な捧げもの(山鳩、家鳩)を通して、イエス様を神様のみ旨の計画におゆだねになりました。この場面を見ると、聖家族はキリスト信者の家族の皆さんにも、より大きな愛の模範になっています。そして皆の命と人生は神様のものですから、いつも各家庭の者たちの命を神様の手に感謝をもってゆだねるように勧められています。典礼の祈りが勧めるように、いつでも家族そろって神様の家で大きな喜びを味わいながら過ごせるように願いましょう。そして命の尊さを大切にしながら、子供たちをいつでも大きな愛情で包むことにしましょう。聖家族は聖霊の力で包まれていましたが、このように神様の救いの計画の最初の雛形になりました。これらのことを、各家庭が神様から与えられた使命を全うするために心に留めましょう。                
                         モヨリ神父

B年 待降節 第4主日

2017年12月19日 | 神父様からメッセージ(B年)


 このときこそ神様は私たちの人生を大切な贈り物のような希望と喜びで満たしてくださいます。怖れることはありません、洗礼者ヨハネと聖母マリアは、どのように救い主であるイエス様を受け入れられるのか教えてくださいます。貧しい所でお生まれになるイエス様は、世界の貧しい所で生まれる子供たちのことも思い起こさせます。あるいは子供の誕生を望まない所でも、又その一方で子供に恵まれない人たちもあり、その寂しさを思い起こさせます。けれども来られる救い主であるイエス様は、悩みのある所に大きな光によって平和と喜びをもたらします。
「使徒パウロのローマの教会への手紙16・25-27」
 この頃、典礼から勧められた朗読は、特別に神様の心の豊かさを感じさせられる箇所になっています。神様の言葉は福をもたらす音であり、使徒パウロによると、いつどんな時でも私たちの心は強められています。皆の心の中に、愛で満ちた人生のための計画があります。その希望と計画は秘められて一番愛する人に告げられます。それは目立たない徴(きざし、しるし)から始まり、預言者を通して明らかになり、最後にイエス様を通して啓示されました。その計画は皆のための喜びであり、神の命、希望です。それを理解して受け入れるのは素朴な人であり、信じる者であり、どんな神様の言葉をも受け入れる人なのです。
「ルカによる福音書 1・26-38」
 今日の福音書は、すでに無原罪の聖母の祝日の時に朗読されました。しかし、もうすぐイエス様が生まれる出来事を中心にして、今日別の目で同じところを読み取るようにしましょう。特別にこの個所の最後の部分に注目したいと思います。どんな使命を与えられた時でも起こることですが、天使ガブリエルの言葉に対してマリア様は、このような出来事(イエス様を身ごもること)がありうるのかと聞ました。天使はマリア様の身に起るのは、神様の神秘的な計画であり、聖霊によって起こることだと語りました。ちょうど世の創造の時と同じように「光あれ」という言葉によって光があったように、マリア様の心の中で神様の言葉によって神様の計画は実現されました。しかしマリア様は畏れながら天使ガブリエルと次の神秘的な対話に進み、神様は天使を通してマリア様にそのことを確認できるような徴を与えました。それは、もう年をとっていた従姉妹エリサベトが身ごもっていたことでした。その徴は、神様の偉大な力を示した出来事でした。マリア様はその徴の魅力に捕らわれ、従姉妹エリサベトの所に行き、自分の心の中に同じ神秘的な出来事が起こったことを確認します。その時マリア様とエリサベトの心は素晴らしい喜びに満たされて神様の働きを誉め讃えました。

 2017年 12月24日†

喜びで満ちたクリスマス おめでとうございます!
皆様に感謝の心を込めて、恵みであふれた降誕祭を!
良い年を迎えられますように願いながら、神様の祝福をお祈り申し上げます。
                            モヨリ神父



B年 待降節 第3主日

2017年12月13日 | 神父様からメッセージ(B年)




 キリスト信者は日に日に心躍らせながら、救い主の到来を待ち望んでいます。来られるイエス様は私たちの心の鈍さと体の弱さを癒し、私たちの過ちを赦してくださいます。そして私たちの間に、すでに神の国が存在することに目を覚まさせてくださいます。真冬の間、昼が短く暗い時間が多くなり、人間は光に憧れています。イエス様は私たちの人生の暗闇に来られる救いの光です、だから今日、私たちの心は大きな喜びで満たされます。キリスト信者の望みは素晴らしい光に満たされ、大きな喜びを味わっています。
「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(Ⅰ)5・16-24」
 使徒パウロはテサロニケの信者に、大きな情熱で神様の望みを伝えています。祈るように、喜ぶように勧めています。感謝の心で生きることです。聖霊で照らされた私たちの人生を、いつも良い事で、肯定的な思いで満たさねばなりません。そのようにすることで神様の心を現わせます。聖霊がイエス様に従った者たちの中に宿っていますから、使徒パウロは彼らに対してご自分の書簡に於いて大きな尊敬を現わし、聖なる者、聖人、神に選ばれた者などと呼んでいます。そして使徒パウロは神様に招かれた者たちに、いつもイエス様に反する思いや行いをしないように願い、いつも神様の思いのままに生きるように勧めています。そうすることによって、来られる光である救い主は私たちの人生を豊かに満たしてくださいます。
「ヨハネによる福音書 1・6-8、19-28」
 ヨハネの福音書の当節は洗礼者ヨハネの姿を描きながら、実はキリスト信者の姿を紹介します。洗礼者ヨハネは「証し」とよばれていますが、ラテン語でこの言葉は「マルチレス」と訳されています。キリストにつながった者はイエス様の光の証であり、イエス様自身の姿を現わしています。そして当個所では洗礼者ヨハネに向けられた質問に特に注目してください、イエス様に従った私たちにも同じ質問が向けられています。洗礼者ヨハネと共に答えるようにしましょう。「あなたはどなたですか」と聞かれた時に洗礼者ヨハネと一緒にキリスト信者も、自分はメシアではなく、予言者でもなく、素朴な立場に立ってイエス様が来られる道を準備している者だと答えます。この世に洗礼者ヨハネと同じように、キリスト信者も神様に遣わされて、神様が宣べる言葉の声になり、神様の方に導く道をまっすぐにする役割を持っています。ヨハネから洗礼を授かるのは、キリスト信者にとって意味深いしるしになっています。イエス様に従った者たちは洗礼によって聖霊で満たされて、この世のどんな人にも来られるイエス様の、心の証人になっています。                  モヨリ神父     
 

B年 待降節 第1主日

2017年11月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
 

「使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9」
 今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。

「マルコによる福音書 13・33-37」
 マルコ福音記者の福音の個所は待降節の雰囲気へと皆を導いています。待降節の欠かせない課題はいくつかありますが、それはマルコの福音書に取り上げられています。まず、いつも目を覚ましているように誘われています。このような誘いは4回も繰り返されています。マルコ福音記者はこの場合だけではなく、イエス様が、ご受難の直前にゲッセマネに弟子たちと一緒におられたとき、居眠りをする弟子たちに目を覚ましているように勧められたと記しています。つまり、気をつける、試練の中で自分の身を守る、真実を理解することです。なぜなら神様が私たちの喜びを求めながら働いています。だからどんな時でも、どんな出来事においても神様と会える場となります。イエス様が語られるたとえ話の主人が、いつ帰ってくるか知らなくても、僕にとって恐ろしいことではありません。むしろ希望と楽しみで満ちた期待となっています。だから、常に信じるこころで祈りながら、再び会える、帰ってくる神様を期待しましょう。            
                                         
                                bモヨリ神

王であるキリストの主日 

2015年11月16日 | 神父様からメッセージ(B年)


 王であるキリストの祭日を迎える時になりました。キリスト信者に欠かせない選択を語ってくれる時だと思います。私たちの人生には重要なことが多いと思います、たとえばテレビ等のコマーシャルで宣伝する品物はまるで世界一大切なもののようですが、しかし自分のことを宣伝しないイエス様、自分の弱さを十字架で自慢するイエス様は私たちの、唯一絶対欠かせない王です。私たちにとって一番大切な存在です。私たちの王は苦しみの茨の冠をかぶり、侮辱の赤いマントを羽織り、良い牧者の杖を手に持っています。私たちのすべて、それはイエス様、愛を語ってくださるイエス様です。すべてのどんなことよりも大切であり、私たちの人生、私たちの思いの中心です。
次に当祭日は私たちの信仰も飾ってくださる豊かな思いをもたらす、日本の文化の勤労感謝の祝日です。皆、仕事に対して又住居や、着ること食べること等生活のすべてに対しても、神様に大きな感謝を捧げるべきだと思います。すべての人類が豊かな生活を送っているわけではありませんが、日本は国民の大きな勤労の力、また神様の恵みによって安定した生活を送れるようになりました。私たちの王であるキリストにいただいた恵みのために、今日は心をこめて感謝を捧げましょう。
「ヨハネによる福音書 18・33-37」
 イエス様はピラトの前で王であることを宣言します。その時、イエス様が霊による王であることを示しながら神様が支配される世界の証となっています。イエス様の国は勝利の国であり、普遍的です。王であるイエス様は自分の敵までも大きな慈しみで受け止める心を示しています。王であるイエス様は人類のための神様の賜物であり、赦しの賜物、命をもたらす賜物、神様に対する祈る場です。このようなイエス様に倣い、キリスト信者は自分の人生を奉仕して捧げ、イエス様の国の支配のことを覚えて生きるのです。当福音書のこの箇所では二つの流れを示しています。一方でピラトはイエス様の犯罪を論争し、他方でイエス様はご自分の国の心を語っています。イエス様がイスラエルの王であることを宣言したので律法学者たち、ファリザイ派の人が反論して訴えました。ピラトはイエス様が潔白であると思ってもイエス様のことを保護しません。しかしイエス様は自分の国について明確に愛に満ちた心で語ってくださいます。「わたしの国はこの世には属していない。この世に属していればわたしの部下が戦ったはずです。」聖アウグスチヌスが次のようにイエス様の言葉を強調しています。イエス様の国はこちらにあるのにこの世に属しておりません。同じように、キリスト信者はこの世に暮らすが国籍は別の国(天の国)にあります。イエス様は天国の証であり天国の喜びを語ってくださいます。イエス様に結ばれることによってキリスト信者は王であるイエス様に支配され、真理の中で生きるようになり、より素晴らしい天国にあるものの証になっています。                     モヨリ神父

B年 第三十三主日

2015年11月09日 | 神父様からメッセージ(B年)
 

 七五三は11月15日に、3歳5歳の男児、3歳と7歳の女児を祝う行事です。男児、女児とも三歳の髪置き、4歳の紐解きに当たる子が、親に付き添われ着飾って産土神(うぶすな神)に参拝し、お世話になった方々を招き小宴を張ったりします。今まで息災に育ってくれたことへの感謝と、これからの健やかな成長を祈ります。思いのこもった晴れやかな祝いごとです。同時に日本人のキリスト信者も日本の伝統的な文化を祝いながら、神様から頂いた命のため、また子供を与えてくださったことに対して大きな感謝を持ち、弱い、特別に神様が愛される小さい者たちのために祈ります。確かにどんな文化の中でも、神様の種がまかれており、その中から成長します。子供達は神様の大きな贈り物ですから、大切に受け入れて、宝のように預からなければならないのです。神様からいただいた命を大切に育てながら子供たちに一番おいしいもの、一番綺麗な服を準備し、一番素晴らしい理想を与えるようにしながら、その中に一番価値のある心の喜びを与えるようにしましょう。それは、私たちに洗礼式の時に神様が下さった信仰の宝です。この時こそ日本の文化が人間の命を尊ぶように、キリスト教はその命が神様からの欠かせない贈り物である事を目が覚めるように悟るのです。
「マルコ福音書13・24-32」
 典礼による一年間の最終の年間の主日を迎えることになりました。今度の日曜日(22日)の「王であるキリストの祭日」で完全にイエス様の生涯、行いと言葉の朗読などの典礼も閉幕になります。典礼が最後に強調するテーマはこの世の終末、イエス様の再びの来臨、最後の審判、そしてそれに従う救いの時の始まりです。この世の終わりを考えると、人間は不安な思いにかられるのですが、今この時、この一瞬もその時と同じように神様のみ旨に属している事だと考えれば、すべての出来事は神様の計画に属しているとわかります。だから人間はどんな時でも神様から頂いた時間だと心に留めれば、世の終わりの時も心からそれを受け入れられます。そして再びイエス様が来られる時にイエス様に従った者たちは自分と人の救いのために人生を尽くしたのですから、自分の名前がもうすでに命の本に記されたことが聖書からわかります。その時キリスト信者は大きな信頼に支えられて、大きな希望で満たされて、永久に神様と共に大きな喜びを味わうことになります。当福音書では旧約聖書の預言とイメージを借りて、神の子の到来が語られます。天地創造の時には暗闇から光に照らされる世界になりました。反対にこの世の閉幕は大きな光から暗闇に戻る形で語られています。この最後の到来にイエス様は神の子でありながら、人の子と呼ばれています。そしてその形で人類を裁くために来られ、神様に近い者を皆、救うことを宣言します。当福音書は恐れ、心配を与える目的の言葉ではありません、むしろ目を覚まさせて心の準備を勧めています。イチジクの木のたとえ話が、聞き手に夏が近づいたしるしを語ってくれるように、その時もいきなり来るのではありません、注目するいくつかのしるしによってこのような予想された出来事が確かにいつか起こります。イエス様がこのような言葉で自分に従った共同体の心を支え、心の準備をさせています。神様だけが歴史の主ですから、イエス様に従った者たちは心して最初から終わりまで、どんな時でも神様の働きを見極めているべきです。
                               モヨリ神父


B年 年間第32主日

2015年11月06日 | 神父様からメッセージ(B年)

 11月は死者のことを思い偲ぶ月になっています、永遠の命を讃えるキリスト信者にとっては悲しむ時ではなく、むしろ亡くなられた親類とお祈りの中で新たなつながりを築くようになります。すでに天国におられる私たちの身内やご先祖様は私たちを見守っていて、私たちが彼らとお祈りの中でつながり、ずっと一緒に神様の懐にいることができます。キリスト信者には天に神様が備えられている住み家があるので、死は体の滅びではなく新たな命への門であります。
このような思いの中、カトリック教会では憐み深い寛大な心によって、信者で無い方でもお葬式を執り行う事ができます。わずかな献金で、事情があって教会でお葬式を希望される方の願いに心から応えることができます。
「マルコによる福音12・38-44」
 神様はルールを守る人や自分の努力を自慢する人よりも、人の心を見て評価します。当福音書は真の信仰の道について話してくださいます。ファリザイ派の人たちは自分の行いの表面的な結果を探し求めていますが、福音書に出てくる未亡人は神様が好む心をみせてくれます。イエス様が人の様子に注目されていました、大勢の人はあり余る中から献金していましたが未亡人は「すべて」、自分が生きるための持っているもの全てを神様に捧げました。イエス様は特別にこの未亡人の心を喜ばれ尊まれています。イエス様はご自分の言葉の力を通して皆に向かって、ファリザイ派の人々の考え方に注意するように言われています。当時のユダヤ人の学者たちが論争したようにイエス様も人のやり方を比較します。登場する人物のふたつのタイプとも、神殿で神様に献金を捧げていたのですが心の態度は完全に違います。自分のやったことを自慢しながら、人の注目を求めて、それと知らずに神様を侮辱しているのがファリザイ派の人の行動でした。
反対に未亡人は心の自由な、財産から縛られていない心を示して神様に自分の貧しさを捧げものにします。未亡人は神様に対して大きな感謝の心をもって自分の弱さの中からすべてを、自分の命でさえ神様に捧げます。このように行動を比較しながらイエス様が今日も私たちにより深いことを教え続けています。はっきりと私たちにも、神様がどのような心を好むかを教えてくださいます。
                           
                                 モヨリ神父 


諸聖人の祝日

2015年10月27日 | 神父様からメッセージ(B年)
  

 11月に向かうとキリスト信者にとって大きな祝日に出会います。それは諸聖人の祝日です、そして次の日に亡くなられた全ての方の日に向かいます。この時、キリスト信者にとって天国に目を上げる機会になり、私たちの本来の故郷、つまり神様の懐を考えることになります。天国の故郷を思いながら、どのようにすればそちらに行けるかを思うとふさわしい生き方、人生をどのように送るべきかを教えられることになっています。初代キリスト信者の間では、殉教者だけが確かに天国に行くことができるのであり聖人として名づけられていました。しかし殉教の時代は終わって新しい聖性が生まれました。イエス様に従ってすべてにおいてイエス様に倣うことが聖人になる方法だと考えられました。当時、使徒パウロの言葉を思い起こして聖人はイエス様に従う人のことだと考えられていました。
「マタイによる福音書 5・1-12」
 当福音書は重大なイエス様の山上の話を語り、イエス様の言葉で幸せになるように誰にもどんな人にも呼び掛けています。それは俗世的文学的な文章であり、しかも宗教的な世界の文学の最高の作品になっています。だれもが驚く言葉であり、確かに深く私たちの心を問われる言葉です。山上の話を通してキリスト信者のイエス様の本来の姿を理解することが出来ます。実はイエス様の山上の話は心を縛る法律のような言葉ではありませんむしろ、赦されて救われたキリスト信者がイエス様に従う方法の道標のような良き知らせです。確かにこのイエス様の話は人間にとって幸せになる福の音であり、心身を縛られる命令ではありません。イエス様が山上の話で自分の心を語ってくださり、その魅力によって従う弟子たちも引きつけられています。山上の話のメッセージを深く理解するために分析をしてみたいと思います。イエス様の八つの発言は二つに四つずつ分けられています。鏡のように向き合わせてみると、第四(6節)と第八(10節)の文章は同じテーマを巡って義を求める人のことを強調しています。このように進めていくと心の貧しい人は、憐れみ深い人と向き合っています。悲しむ人は心の清い人と、柔和な人は平和を実現する人と対しています。義に飢え渇く人は義のために迫害される人に対しています。それに八つの発言は複数の人物に向っていますが、最後に二つの発言はイエス様の聞き手にストレートに向かっています。この場面から、美しいメッセージが浮かんできます。憐みをもった心の貧しい人は幸いです。柔和な心を持った人だけが平和を実現します。悲しむことによって人間が清い心を得られることになっています。このような発言はすべてイエス様に当てはまることに気づけば、イエス様の素晴らしい姿が浮かんできて、どのようにしてイエス様が心の貧しさ、悲しさ、柔和な心、義を求めた心を生かしてきたかがはっきりと顕れてきます。さて、イエス様に従うひとにとって山上の話は真剣に生きるための参考になると思います。
                          モヨリ神父

B年 第30主日

2015年10月20日 | 神父様からメッセージ(B年)
  
 
 ツルの越冬地鹿児島県の出水平野に、今季第一陣のナベヅル2羽が飛来しました。先週後半から大陸で高気圧が強まり、そこから吹き出す北風に乗って九州に寒気が南下し流れ込み朝晩の冷え込みが強まっています。シベリアなどから飛来するツルたちもこの北風に乗って遠い旅をしてきたのでしょう。冬の使者のようなツル達の飛来が続いています。 
「マルコによる福音書 10・46-52」
 信仰というのは先生であるイエス様に従う者たちの歩みです。この歩みの方向は御父である神様のところです。イエス様に従うために必要とされるのは、イエス様と出会いイエス様の心を見出すことです。バルティマイの経験は信仰を求める者たちの先駆者として、信仰の決定的な歩みを示しながらイエス様の光で照らされている主役者となっています。道端に座っていた盲人は「ダビデの子」とイエス様のことを呼んでいます。その叫びかけは信仰の告白であり、イエス様は天からの贈り物で、光として世を照らすメシアであることを実感します。バルティマイが当時の祈りである詩篇を使ってイエス様に自分のことを憐れまれるようにと願っています。注目すべきところはイエス様の周囲の群衆がまず盲人を、以前「弟子たちと子供たちにしたように」「追い払い」「黙らせようとした」ことです。しかし、絶え間なく願っている声に耳を傾けられたイエス様は群衆を通して、盲人を自分のところに呼び寄せられます。次の三つの動詞はイエス様に近づく段階を示し、キリスト信者の洗礼を受ける心構えも示しています。「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ。」そして、見えるようになりたかった盲人は上着を脱ぎ捨て、つまり新しい人生を求めて、古い物乞いをしている生き方を捨ててイエス様のところに近寄りました。最後にイエス様と盲人の対話にも注目しましょう。「何をしてほしいのか」「先生、目が見えるようになりたいのです。」「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」よく考えてみれば、洗礼によってよく見えるようになった私たちは、人生の中をバルテイマイと同じようにイエス様に近づき、先生であるイエス様の言葉を信じて癒されただけではなく、心と体の救いの喜びを受けたことを見出すのです。

                            モヨリ神父


B年 第29主日

2015年10月12日 | 神父様からメッセージ(B年)

 
 この29主日は世界宣教の日で全世界の教会が各共同体の本質を現わしながら、その誕生の時からのそれぞれの目標を祝っています。それはイエス様の言葉から発生しています。「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい・・・」イエス様は約束されたようにいろんなところで、人の心の中で私たちのことを待っていてくださいます。キリスト信者は派遣された全世界の地で救い主であるイエス様と再会し、もうすでに人々が救われたことを、人々の目を開かせて気づかせることになっています。フランシスコ・ザビエルが日本に来られた時に地獄に落ちる大勢の人を救いたかったのです。言いかえれば、救い主であるイエス様のことを気付かなかった、あるいは知らなかった人に、そこにすでにおられるイエス様の喜びを告げ知らせたかったのです。フランシスコ・ザビエルにとって福の音を知らなかった人は、暗い世界に、地獄に落ちたような人だと見えたのです。だから、それらの人々に絶え間なくイエス様の存在、言葉、行いやその方を知る喜びを告げ知らせたかったのです。
「マルコ10・35-45」
 当福音書のテーマは「奉仕する」ということです。これは独特なキリスト教の課題ですが、現代の社会でもボランティア活動が豊かに見られます。しかし、キリスト教の奉仕の精神に近い活動でありながら、イエス様がおっしゃる奉仕から微妙に外れています。イエス様に従う者が奉仕することは、イエス様がなさったように小さいものや隣人に優しく対し、そして神様から頂いた恵みを分かち合うことです。自分が出来たことよりも、相手が望むことに注意深く心をかけながら行います。それに神様を崇敬する気持ちで自分の身を捧げて働き、イエス様の言葉を宣べ伝え、それを証します。当個所では弟子たちの間でもだれが一番になれるかの競争が発生していました。しかし、イエス様はこの弟子たちの願いを咎めず、より素晴らしい方向に向かわせています。まず、イエス様がゼベダイの子らの心を探ってどこまで自分の運命に従うことを望むのかを確かめます。確かにヤコブとヨハネの希望はイエス様と共に運命を全うするまで従う決心を示しています。それを受けたイエス様が自分に従う者の心を明確に語っています。世間の考え方と違って神様に従う者たちは、偉くなるよりも人に仕えることを望んでいます。イエス様に従う者は共同体の中で奉仕して、共同体の弱い者たちに仕えます。そしてみ言葉に仕える者としてそれを読み上げて解説したり、それを知らせながら、み言葉が世界に広がるように宣べ伝えています。最後にイエス様は、キリスト信者はどのようにしてこの奉仕を成し遂げるべきかを語られます。それは心を尽くし身を捧げながら人生を全うすることです。

                            モヨリ神父