カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 四旬節第二主日 

2015年02月27日 | 神父様からメッセージ(B年)
命のあり様でさえ区別されている人間ですが、聖書によると生き物は全て神様の命を誉めたたえるものになっています。命を評価しないものは神様を拒み、神様にとって大きな痛みになっています。当主日の朗読に思い起こされることは、ただこの真実です。神様は命の主であり人間が生き、罪や死や苦しみから蘇り、豊かに生きるように希望されています。
「使徒パウロのローマの教会への手紙 8・31~34」
 もし年間の主日に第二朗読が独特な課題で進んでいるとすれば、待降節と四旬節における第二朗読は当時の典礼的な思いを深めてくれます。四旬節の間、節制と洗礼式への歩みを強調する朗読の中で、使徒パウロも適切な助言を与えています。まず使徒パウロは神様の観点や思いの中に入り込むように勧めています。そうすれば神秘的な出来事を見出します。私たちに神様が送ってくださったイエス様が私たちの運命と一致して、私たちの罪を取り除き新たな力と豊かな命を与えてくださいます。これは神様の義(慈しみ)と言われています。神様の右に座っておられるイエス様が、聖霊と共に私たちのために執りなしてくださいます。このような真実を前提にして、神様は私たちを罰せられるものではなく、むしろ私たちの代わりにイエス様が死なれたことによって、イエス様と一緒に復活させられ、より豊かな命を与えてくださいます。このような出来事は洗礼の儀式で素晴らしく明らかにされています。
「マルコによる福音書 9・2~10」
 イエス様と3人の弟子たちとの一生忘れられない経験が語られています。イエス様と弟子たちがエルサレムに向う途中のことでした。弟子達にはイエス様がメシアであること、また十字架のご受難に向かわれることはすでに分かっていました。しかしまだ理解されていないことは、イエス様の死が大きな喜びにつながることでした。人間にとって言葉だけでいろいろ理解するのは場合によって難しいものですが、実際的な経験によって目と心が一度に開かれる時があります。さて弟子たちが神様に出会ったできごとに注目しましょう。山に登ったこと、そこでイエス様の姿が変わったこと、イエス様の服の白さがこの世のものとは思えない、輝く白さであったこと、突然現れた雲のこと、その中からの神様の声などの聖書による表現は、神様と人間の間の神秘的な存在を示しています。その場面に巻き込まれた使徒ペトロは他の弟子たちの代わりに「ここにいるのは素晴らしい!」と叫んでいます。なぜならその時、弟子たちはイエス様の本来の姿を見ることが出来、今度復活されるメシアである神の子を身近に見つめることができたからです。その時から弟子たちはイエス様の言葉だけを聞くべきだと悟ったのです。
                                                       モヨリ神父


B年 四旬節第一主日

2015年02月19日 | お知らせ
  この時期は、まだまだ冬の厳しい寒さが戻ってくることが多く時によって、熊本では気温が零下に戻る日があります。しかし「光の春」という言葉も使います。日脚が延び、太陽の光は少しずつ強くなってきます。同じ寒さでも日差しがずいぶん明るく感じられることを表わし、もともと、ロシアで生まれた言葉だそうです。灰の水曜日の典礼で四旬節に踏み出しました。灰の中で火が燃えていると思い、より深い復活祭の喜びを味わいたい私たちの四旬節の過ごし方は大きな課題になっています。イエス様が勧めてくださるのは「自分をして、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」それは日常の奉仕、祈り、小さな犠牲によって、イエス様の足跡を踏みながら、周囲にいる人達の心を思いやり、神の国を作ることです。キリスト信者の労苦は復活祭の光で照らされて軽くなり負いやすくなります。
「使徒ペトロの手紙 3・18~22」
 使徒ペトロの手紙は、イエス様の霊を通して神様に近づくように勧めています。人間は弱い者、間違いやすい者ですから、何度も神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の死と復活によって神様のところに立ち戻ることが出来ました。使徒ペトロはこのような神秘的な出来事をノアの物語の人類の救いに例えて明確にします。洗礼の本格的な準備に入ろうしている方々にも参考になるはずです。洪水によって、罪に落ちた人々は滅びてしまいましたが、ノアは船で水の上に逃れ救われました、そして神様とのつながりを作り直しました。さて、洗礼を受ける者も同じように神様の霊から救われています。洗礼の時にかけられる聖水の徴によって私たちの罪は清められて、ノアと同じように神様と新たな深いつながりを作ることになっています。それはイエス様と一緒に復活することです。
「マルコによる福音書 1・12-15」
 ここでて私たちは砂漠のようだった心の回新を求め 四旬節に入って、キリスト信者は心の回心を求めて祈り、節制し、神の愛の技に導かれて復活祭を迎えようとしています。当マルコの福音書は二つのテーマに分かれています。イエス様が受けた誘惑と、イエス様の宣教活動です。基本的にイエス様が受けた誘惑のメッセージは、人は悪に追われていても神の言葉によって生きるということです。新しい人生の始まりにどのように心の回心を得られるのか、神は導かれながら最高の愛の技を教えてくださいます。それは赦しのことです。神の言葉によってイエス様と同じように人が悪に打ち勝って神の国の素晴らしさを見出すことが出来ます。だから神の言葉はキリスト信者にとって日常の食物になり、心の回心への道になります。確かに私たちもイエス様と同じように日常生活の中で野獣に囲まれています、しかしイエス様と一体となれば神の言葉だけに生き、天使たちは私たちに仕えてくれるのです。さて、神の言葉に目を覚まされ新しい時代が始まったと気付いたとき、神の国はもうすでに私たちの目の前です。なぜなら神の言葉は私たちにとって心の光であり、福をもたらす音だからです。このような言葉に励まされるのです。
                                 モヨリ神父

B年 年間第6主日

2015年02月12日 | 神父様からメッセージ(B年)
この時期になると詩編・103編15節を思い出します。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風が通り過ぎると跡もなく・・・」 キリスト信者の思いとしては、イエス様と教会のことを人々に告げ知らせ、それが世に広がることは重要な課題になっています。だから、宣伝や、イベントなどの方に走ることが教会のことをより多くの人に知らせることのように思いがちです。
 しかし、実際には教会の心はそのようには広がらないと思います。神の国は不思議な力で広がります。イエス様自身が自らのみ言葉を、人の心に神秘的に届けます。その言葉は権威と力のある言葉ですから、小さな種であっても大きな実りをもたらします。このような真実に対して、キリスト信者の態度も少し調節すべきではないでしょうか。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)10・31~11・1.」
 使徒パウロは、回心によって大きな光で照らされ、新たな目で人の人生、人の生き方を見、その中に神様の栄光を読み取っています。どんな人間でも、人生の中で修業し苦労して神様の心を得るのではありません。イスラエル人であれ、異邦人であれ、神様の心に適う人生を送れば、すでに心の中で、神様が成し遂げられた技を見ることができます。使徒パウロは自分の人生の熱意の中で一つのことだけを探し求めました。自分の利益ではなく、皆の喜びです。実際に自分の人生を捧げて、人の喜び、あるいは人の救いを探し求めたのはイエス様だけです。だから使徒パウロは、熱い言葉を通してイエス様の生き方に倣うよう勧めています。そうすれば自らの人生を通して、神様の栄光を現わし、人類の救いや喜びをも求めることができます。
「マルコによる福音書 1・40-45」
 当個所でイエス様が成し遂げた徴を深く理解するためにはまず、皮膚病について当時の考え方を知ることが大切です。当時皮膚病を患っている人は、生きていても社会に対し宗教に対し、死んだような者として見られていました。命であるイエス様は、死体のような人の中に新たな命を吹き込んでいます。イエス様が力のある言葉で「清くなれ」と言われ、信じ難い素晴らしい場面を皮膚病の人の目の前に開きました。そして、神の命に取り戻された人に、司祭のところに行くように勧めました。その時、神の命に生かされた人は、社会にも宗教の世界にも取り戻されて生かされています。イエス様の命に生かされた病人は、自分の本来の心身の素晴らしさを再発見し、その中に神様の言葉によってあふれてきた喜びを味わい、素晴らしい経験の証しとして、自らの身に起きた事を皆に告げ知らせる者となりました。そして、イエス様が成し遂げた徴のことは、新しい葡萄酒のように四方にあふれ、皆に知らされて広がりました。     モヨリ神父

B年 年間第5主日

2015年02月06日 | 神父様からメッセージ(B年)
 江戸時代、旧暦1月4日から3月にかけて行われた踏み絵は、キリシタンではないことの証や転宗を確かめるために、聖母マリアやキリストの絵姿を裸足で踏ませたことです。踏まないことでキリシタンであることが発覚し、多くの殉教者が出ました。教会歴で2月5日は、日本の26聖人の殉教者の祝日です。人は誰でも踏み絵を前に言葉を失って立っています。キリストが十字架を負われたように、人は時に自分の「うしろ」に「冷え」を感じて生きるものではないでしょうか。
 さて、当主日に世界病者の日(11日)にちなんで、病者の秘跡を授けることになりました。イエス様の苦しみと最も一致している病者はイエス様の力で支えられています。イエス様と共に苦しむ人はイエス様と共に喜びの中に復活します。癒しの油を塗布された病者は、人類の救いである自分の苦しみの目標を見出し、神秘的なイエス様の力で癒されます。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)9・16-23」
 使徒パウロにとっての欠かせない義務は、福音つまり祝福の音であるイエス様を告げ知らせることです。それは教会の欠かせない義務でもあります。福音宣教は使徒パウロにとって自らを誇るものではなく、給料を得られる勤めでもなく、そのための特別な権利を持たず、心から福音を述べ伝えるためだけに特別な力と希望を感じています。それはイエス様です。使徒パウロはイエス様の言葉を伝える為に全ての人の奴隷になりました。弱い人にイエス様を知らせるため、また弱い人を得る為に自らも弱い人のようになりました。使徒パウロの心の中には確かに一つの希望がありました。それは、どんな人をも皆、イエス様のところまで導くことです。使徒パウロにはそのことこそが大きな喜びであり、人生の最高の目標だったのです。
「マルコによる福音 1・29-39」
 聖書の研究者によると、イエス様はこの頃、自分の小教区であったカファルナウムにおられます。つまりイエス様はカファルナウムでいろんな活躍をされました。会堂で話終って、ペトロとアンドレの家に行かれます。少し専門的にマルコの福音書をみてみることにします。まず、イエス様のことを弟子たちと同じようにあまり知らなくて、けれども身近に使徒パウロに係わったマルコはずっと歩き続けるイエス様の姿を描いています。さて、この箇所は4つの場面に分けられています。A)イエス様が病気のペトロの姑を癒されています。B)イエス様が奇跡を行い続けています。C)イエス様が祈られています。D)イエス様が福音を宣べ伝えています。この四つの場面の特徴を振り返ってみましょう。イエス様がペトロの姑を蘇らせ立ち上がらせています。つまり彼女のためにイエス様が新たな命になります。イエス様の力で生き返った者は人をもてなして奉仕します。次にペトロの姑に注がれた力と恵みは、苦しみ悩む人々にも与えられています。その後、イエス様は自分を知るためには聞いた言葉によるのではなく、自分と出会い深く係わった人だけが理解出来るのだから、自分の行いについては沈黙するように命じています。イエス様はそのためにも祈っています。実際イエス様の正体は人には理解しがたいものですが、イエス様自身が人の癒しや救いであることを教えてくださっています。             モヨリ神父