カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」44

2012年10月25日 | メッセージ(その他)
B年 年間第三十主日     12・10・28

「カトリック教会の教え」から

「イエス様の山上の話し」              

義に飢え渇く人や義の為に迫害される人は幸い」とイエス様がおっしゃっています。義を求める人、そのために命をもささげる人は神様の思いを求めている、それでイエス様がおっしゃる通り満たされています。そして最後まで神様の思いを実現します。世間の正義、社会や人の思いを求める人は神様の思いから離れてしまい、不安の中に陥ります。いつでも神様のみ旨を絶えず求め、あきらめないで神様の思いだけを追及する人は、平和の中で暮らし、心配、おそれなど一つもなく、心の幸福と平和を深く味わうことが出来ます。
同じように「憐れみ深い人は幸い」。イエス様自身、最初に赦しと憐れみの心を示してくださいました。その時に反感、競争、恨みが消え去り、人間が初めて愛され赦される世界を覚えて、大きな喜びを味わうことが出来ました。イエス様が勧められたのは、神様から作られた人間のその本来「心の清い人は幸い」です。清い心とは素朴で、複雑な欲望のない心のことです。このような者たちは自由な心、何も縛られていない心をもって、神様のみ顔、神様自身を身近に見つめることが出来ます。夢のような、輝いている神様のみ顔を見る人は幸いであり、より大きな喜びを味わうことが出来ます。
「平和を実現する人」も幸いであり大きな喜びを味わえます。イエス様に従う人たちの平和は、神様から賜物のような与えられる平和、神様の思いに従って生きる平和です。このような平和はイエス様が命じて、あらゆる所に伝える平和であり、復活されたイエス様が弟子たちにくださった、愛と赦しで満たされた平和です。このような平和が人間の幸福であり、神様の愛と思いの中に生きる心の状況を示しています。だからこのような心の平和を求める人は特別に深く幸福を享受できます。

                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」43

2012年10月19日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 年間第二十九主日  2012・10・21
 「カトリック教会の教え」から
「イエス様の山上の話し」
イエス様が山上の話しによって、本当の喜びがどこにあるか、それをどのようにして得られるのかと具体的に教えてくださいました。イエス様の思いと話はこの世の考え方から離れて、人間の望みをより深く、新しい考え方で満たすようにされました。イエス様が勧められた理想、夢、価値観はこの世の価値観ではなく、真の永遠の喜び、くずれない幸せを勧めてくださいます.
「心の貧しい人は幸い」
と言うイエス様の言葉の中に、大きな喜びが含まれています。逆に世間では大金持ちの人は幸いですが、実はイエス様が言うように弱い立場から、また力のない時、貧しい人で目を上に上げられる人は神様の顔を見るのです。また人に助けを願って支えられ助けられます。基本的に人間関係を求める人は貧しい心を持った場合、初めてその素晴らしさ見出すことが出来ます。
「悲しむ人は幸い」も、イエス様の言葉として矛盾する発言に聞こえますが、イエス様の復活を信じるキリスト信者は深い夜の後、確かな夜明けが来ると信じます。どんなに厳しい冬があってもその季節がくれば桜が満開になり、同じように苦しみの後には必ず安らぎが準備されていますから、悲しむ人にとって心の底に大きな喜びがあるのです。なぜならその後復活の喜びのような幸福があるとイエス様から教えられているからです。
「柔和な人は幸い」と、イエス様が何回も人間の心よりルールを大事にするかたくなな心を持ったファリザイ派の人々を戒めています。法律よりも人間の心を大切するように教えました。柔和な人は人の心を優先して、憐れみ深い心を持っています。人を厳しく計らず、いつも人を赦し、敵まで愛します。助けられる所があれば自分を奉げます。良く見てみれば、このような人は大きな喜びを味わうことが出来ます。人間が自己中心的な思いから離れると他の人の心に出会い、それを受け入れるなら、人間にとって最高の喜びになります。さて上記のような幸せや幸福も、いつでもキリスト信者にとってイエス様の言葉に従ってこそ手にはいる経験となるのです。
 
                               モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」42 

2012年10月12日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 年間第二十八主日             2012・10・14
「カトリック教会の教え」から   
「本当の喜びを求める人間」
どんな人でもいつも幸福を求めて生きています。幸福とは自分の夢と希望が満たされることですがそうならない時もあります。普通に幸福は自分の望みを獲得することで、理解や愛を与えてくれる人に出会った時のその充足感や平安な気持ちです。けれどもこのような喜びは簡単に得られるものではありません。悩みや苦しみ、それに不安な人間は偶然な喜びとか「ハプニング」のきっかけによって幸福を探しているのです。このような喜びは人間にとって常に満たされるものではありませんから常に真の幸福を探し続けています。それに人間は孤独では幸せになれないものです。人の間、人と一緒にこの世間の中で幸福を求めています。そして肉体的な幸福を求めるだけでは、霊でも作り上げられた人間は簡単に満たされません。人間が捜している喜びは、より深いことで、人間全体を満たす喜びです。キリスト信者にとって本当の喜びは、聖アウグスチナスがおっしゃるような喜びを思っています。つまり「あなたは(神様)私たちをご自分に向けてお造りになりました。ですから私たちの心はあなたの内に憩うまでは、やすらぎを得ることは出来ないのです。」(告白)そこから人間の真の喜びが得られるし、具体的にイエス様自身はこのように話してくださいます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」人間にとって、どこで、何をすれば本当の幸福を求め、得るることが出来るのかは欠かせない課題だと思います。カトリック教会の共同体は、祈りの時に神様の言葉(聖書)を聞き入れて幸福への大切な道を歩んでいます。しかし、人間の本当の幸せはあくまでも自分の才能で得られたことではなく、神様の無償の恵みなのです。
                                                          
                               モヨリ神父
                                               

法律とその批判者に対するイエス様の心 

2012年10月07日 | 神父様からメッセージ(B年)
        
イエス様がこの世に来られた当時、イスラエルの社会の中で、法律や山ほどのルールにぶつかることになりました。人間を縛る613法に対するイエス様はどのような考えをもっていたのか欠かせない課題になります。実はこのような法律とルールは素晴らしいところから発生した。つまり神様と人間の間の愛の約束として定められました。その時決定された言葉は神様が言う「わたしはあなた達の神、あなたたちは私の民!」歴史中にイスラエル人は神様の導きとその助けを求めながら、答えとして、神様につながる、また神様への愛を示す法律を多数作りました。
1)まずどう言った法律がイエス様にどのようにかかわっていたのでしょうか。
ほとんどマタイの福音書にそって、答えることが出来ます。
(マタイ5章17~26節)(私は来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。)
イエス様が法律に対して特別な尊敬を示しています。イエス様が人に反感を持つ人、人をおろかものと言う人は裁きを受けるとおっしゃっています。税金でさえ支払うように教えられます。 
イエス様が昔の人々の中にもともとの精神を吹き込もうとしでいます。イエス様が神様の掟、私の掟とよびながら、それを守らない人は私の弟子になれないとおっしゃっています。
しかしイエス様がイスラエルの法の中で新しい精神を吹き込もうとしています。絶えず自分の話の中でもたらした新しいルールを紹介されました。「神を愛し、人間を自分のように愛しなさい。」
むしろ(マタイ5章38~42) 仕返しをしてはいけません、それより敵を愛するように勧めています。(マタイ 5章43~48)
2)イエス様自身と弟子たちも規則を守らないので当時の律法学者たちから批判されました。
イエス様がイスラエルの偉いものたちにも違反します。(マタイ 23章1~3節) (23章,23,25,27)
に破壊、腐ってる遺体のような心を持っています。安息日は人間の為に神様から定められています。
3)イエス様がファリザイ派の考え方を破壊するようにします。
人の健康は心から始まります。(マタイ 9章1~5節)
イエス様は人間の心から癒すように始めます。
安息日などのようなルールが良いこと、つまり人間の救いの為にあるから、人間を圧迫と賞罰する為ではないのです。
4)最後にイエス様が命を捧げられた最高の法を教えてくださいます。それは「赦し」の事です。
何回赦すべきかと言うペトロの質問に対して、(7回ですか...)いつも、いつまでも赦すべきです。(マタイ18章 21~34) たとえば:罪を犯した女。(ヨハネ 8章 3~11節)
5)最後にイエス様が十字架上で、一緒に死刑になる犯罪人を赦し(ルカ 23章42~43)、
自分を殺そうとしている者たちも赦し死の前にみ言葉をかけられました。(ルカ23章 34)
                               モヨリ神父