カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 第31主日

2016年10月27日 | 神父様からメッセージ(C年)

「期待する、待つこと」はキリスト信者の日常生活が置かれた状況です。待つ人は自分の平凡な人生の状況を認めて、より大きな喜び、助け、大きな愛情で包まれることを期待しています。キリスト信者は神に愛された方との出会いを待っています。その出会いを憧れて、望んで、そのために心の準備をします。それだけではなく、自分の人生全体を整えて準備します。皆を大切にされた方はイエス様であり、再び迎えに来られる、その到来を待っています。キリスト信者にとって、現在生きる世界は仮に神様から任せられている居場所ですが、喜びの中でずっと、神様と共に生きる時期をも持っています。
「ルカによる福音書19・1-10」
 神様は命を愛し、好まれ、それを欲されたので、この宇宙万物を創造されました。当福音書のエピソードは、生きておられる愛で満ち溢れたイエス様の心を示しています。罪人は神様から愛されて、神様の命によって喜びの中で生きるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」                             
                        (ヨハネによる福音書3・16)
 また、ザアカイのエピソードは、素朴でありながら、生き生きとした感動的で素晴らしい背景を描いています。従順な人から歓迎される人に、歓迎される人から救われた人に変わります。登場する人物はザアカイで、徴税人であるだけではなく、その役目の頭の任務もしていた者です。最初にザアカイがイエス様を見ようとする目的は、なんとか利益が得られるかもしれないと期待したのです。確かに友情が目的ではなかったのです。しかしザアカイとイエス様が間近になった時に、イエス様がザアカイの方に目を注がれています。その時だけではなく、イエス様がいつも最初に愛する者に目を向けています。弟子になりたかった若者の時も同じだったのですが、その若者が金持だったのでイエス様の誘いを受け入れられなかったのです。反対にザアカイはイエス様の視線に打たれて、イエス様の愛で満ちた誘いの言葉を受け入れています。ザアカイの心はイエス様の温かい眼差しによって変身しています。ザアカイは放蕩息子のたとえ話に出てくる父親と同じように、大きな喜びでイエス様を受け入れています。欠かせない感動的なところは愛で満ちた出会いでした。ザアカイの場合、回心の火(芯)はイエス様との出会いでした。その後、ザアカイは自分の新しい人生の計画を宣べます。(人に…返します)自分の財産を人に施すようになります。イエス様と出会える道は沢山あります。いつもどんな時でも、イエス様がわたし達を探し求めています。わたし達の方も、謙虚に心を開いてイエス様を受け入れることにすれば、イエス様の力でわたし達の人生を素晴らしい出来ごとや大きな喜びで満たすことができるのです。

C年 第30主日

2016年10月18日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 自分について話すとき自分ができたことについて自慢する人は、だれにも好まれないと思いますが、そのような態度を持つ人は聖書の中でも神様でさえ好まれないのです。人間が上手く色々できても自分の力でできたことではなく、不思議な神様の支えでできたことですから、それに対して自慢するのは愚かではないでしょうか。だからイエス様は時によって隠れたところで祈るように、断食するように、施しをするように勧めています。隠れたところでなんでも見ておられる神様は、それを評価して報いてくださいます。神様は表面的なことよりも、心の中にある思いや行いを見ておられて、それを特別に好まれます。キリスト信者は自分の人生の中で、数知れない良い行いも成し遂げますが、そのために自慢せず、神様から頂いた恵みに対して努力し、神様に恩返しをしながら生きています。キリスト信者は自分の弱さを認め、神様の赦しを絶えず願い、自分が成し得た僅かなことに対して自慢せず、神様を誉めたたえます。
 「ルカによる福音書18・9-14」
 当福音書ではイエス様が相手を裁かない、戒めない(特にルカ6―42)と伝えながら他の話につないで、兄弟の欠点を強調しないように注意しています。イエス様は言葉じりを捉えるのではなく、いつも自分の聞き手に向かって、はっきり明言した話し方をしていました。また、イエス様の言葉の中には、秘められた悲しみも含まれています。さて、福音書が語っているエピソードで、イエス様がファリザイ派の人との根本的に違った考え方を示しています。すでに旧約聖書でも、神様の前で自分の正義を自慢し、間違っている他人を見下して批判したファリザイ派の人たちが忘れていた注意でした。いくつかのところで(ヨブ記、詩編などで)自分を自慢しないように勧めながら、人間は神様に対して自慢できるものはなく、欠点をこそ持っているものだと教えられています。同時に旧約聖書では、隣人を軽蔑しないように強く注意します。そのような心を持った人は神様から離れ去り、愚かな考えをもち、罪を犯しています。イエス様が語られたエピソードの中に登場するファリザイ派の人は、イエス様の言葉から離れて、大きな自己満足と間違ったプライドをもっているので、それに気付きません。反対にファリザイ派の人と一緒に祈る為に神殿に上がった罪人は、神様に対して自分が欠点だらけのものだと認識しています。自分の具体的な有り様を実感しないと、自分のことを自慢して人を見下してしまいます。反対に罪人は自分のことを神様にゆだねています。罪人は深く自分の罪を認識して、神様の心に届く祈りを祈っています。旧約聖書の中の、ダビデ王と同じ祈りです。だからイエス様が語られたたとえ話は、キリスト信者にとって、具体的な日常の公教要理になっています。初代キリスト信者の共同体から近代に至るまで、わたしたちキリスト信者は、このようなイエス様のたとえ話を参考にして、お互いに赦し合い慈しみの中で支え合っているのです。
                                    モヨリ神父


C 第29主日 

2016年10月10日 | 神父様からメッセージ(C年)


 本来ひとにしつこくものを頼むのは失礼なことなのですが、しかし時によって一生懸命に願うことはその必要性、その欠かせない希望、願うことに対する愛着を示しています。このような思いの中でキリスト信者の祈り方を考えたいと思います。イエス様に従うもの達は、いつも祈るようにイエス様に勧められています。祈りの内容とその方法もイエス様に指導されています。しつこく頼めば神様が叶えてくださることよりも、まずイエス様はお父さんのようにわたし達を愛してくださる神様の姿を見せてくださいます。わたし達には必要なこと、良いことを何でも知っておられる神様が、いつもそれを願う前に与えてくださいます。「主の祈り」はわたし達に祈りの完全な内容を教えてくださいます。イエス様は子供として神様のものですから、いつでも神様に向かって絶えず祈るように勧めてくださいます。確かに神様はその祈りを聞いてくださり、いつもそれを叶えてくださいます。わたし達の思い通りではなく、いつもわたし達のための良い方を叶えて、むしろわたし達の心や思いに欠かせない指導をされる聖霊を与えてくださいます。
「ルカによる福音書18・1-8」
 当福音書で注目すべきところは二つあります。まず不正な裁判官と父である神様のやり方の比較です。次にイエス様に従うもの達の絶えず一所懸命に祈る方法とその目的です。日曜日に福音書を読む時に、いつも必要なのは二つの観点です。イエス様が生きておられた時のエピソードとその出来事が、初代キリスト信者の共同体にどのように受けとめられて解釈されたのかです。昔のイスラエルの社会の中で一番身分の低いものは未亡人、孤児と異邦人でした。旧約聖書では神様がこのようなもの達を特別に大切にします。そして良いイスラエル人もこのようなもの達を大切にし、収穫の時にも田圃に収穫の一部をこの弱いもの達の為に残していました。そして貧しい人に対して、未亡人に対しても法律によるよりも特別な扱い方が勧められています。しかし福音書の中に登場する裁判官はこのような心を持たず、未亡人からしつこく願われています。キリス信者は不正な裁判官ではなく、いつも皆に心を掛けてくださる父である神様に向かって、絶えず一所懸命に祈るようにします。絶えず願うことによって、不正な裁判官でさえ、応えることが出来ました。それよりも、一人一人を大切にしてくださる慈しみ深く憐れみ深い神様が、心から願えば必ず応えてくださいます。一所懸命に願う人に神様が特別に救いを与えてくださいます。絶えず願い続けなければなりません。イエス様も最後までそれを頼み願う人がいるかどうか大きな希望を表しています。キリスト信者もあらゆる願い事のために祈っています。しかし、一番大切なのは自分の最終的な救いです、または人生に一番欠かせない事の為に願うことです。それを人は忘れてしまうことがあります。
                            モヨリ神父


C年 年間第28主日

2016年10月03日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
 キリスト信者はいつも欠かせない大きな感謝の心を味わいながら過ごしています。神様に対して、また神様の姿を示す周囲にいる人に対してもいつも大きな感謝をもっています。それを表す方法は様々で、感謝の心はいくつもの理由から発生します。まず神様からいただいた命、この心と体、そして大きな喜びのため、それは神秘的に洗礼の儀式に認められた信仰を下さったことのためです。このような贈り物によってキリスト信者の人生は豊になって大きな感謝の心を持っています。それに従って、その感謝の心は大きな喜び、心の平和で明確にされています。神様にどのような恩返しをすればよいかキリスト信者が考えるよりもまず、大きな贈り物を与えてくださった方に賛美を、そしてその贈り物を受け入れながら大切にし、自分の身を小さくして深く頭を垂れるしかありません。そしてキリスト信者は自分の毎日の務め、良い行いを重ねることによっても神様に普遍的な感謝の心を表します。
 
「ルカによる福音書17・11-19」
 人間にとって神様に感謝の心を表すのは大変限られた経験です。たとえば聖書の詩編の中でも、嘆きの詩編、願いの詩編は感謝を表す詩編より多いのです。だから当日曜日の典礼が強調しているのは神様が今の命と普遍的な命の泉であり、わたし達のありのままの与え主であるということです。当福音書では皮膚病を患って癒していただいた十人の中で、一人だけが感謝を表しに戻ってきましたが、他の九人は定められた法律によって癒されたと思い、イエス様に感謝の心を表しませんでした。当福音書の物語の形を良く見てみると、まず大きな背景から=サマリアとガリラヤを出発し、その後、ある村の中で、次に皮膚病を患っている十人、最後にその中の一人が感謝を表したサマリア人です=だから当福音書は決意をもって自分の使命を果たそうとエルサレムに進んでいるイエス様が、このような感謝を表すサマリア人を伴っています。ギリシャ語では(救い)も(癒し)も同じ単語で表現されています。だからイエス様が人類の救いにエルサレムへ向かおうとしているのも具体的にそのためで、癒されたサマリア人がその救いの為に感謝を表しています。イエス様の勧めを通して祭司たちの所に行った他の九人の病人も癒されました。実は苦痛や病気も人を平等にします。しかし、その中でイエス様の時代にサマリア人は明らかに差別を受けた者で、皮膚病によって汚れた者、死に定められた者でした。イエス様がその病人を祭司のところに行かせて癒すことによって命を与え蘇らせています。そのサマリア人の中の一人だけがイエス様の元の救いであり、イエス様の言葉と働きによって癒されて信じた一人だけが、イエス様の力、その心を信じた一人だけが、大きな喜びの中で感謝し、その喜びを表しました。
                                 モヨリ神父