カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」65

2013年03月27日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 復活祭  2013・3・31
 「カトリック教会の教え」から
「キリスト信者とイエス様の祈り」
ご復活おめでとうございます! 今年も復活祭を迎えることになりました。
今年も去年の行事の繰り返しではなく、毎年桜の花が咲いても、初めて咲く新しい花であるように、今年の復活祭を迎えるわたしたちにとっても同じ経験になります。清々しい気持ち、大きな喜びをもって初めてのように今年の復活を迎えれば、私たちの人生も新しい光、新しい色で満たされます。それだけではなく、神様を知りより深く出会う為の、あらたな機会を与えてくださいます。だから今年も復活祭を恵みの時として、見逃さないようにしましょう。今年も神様が私達と共におられて神様と出会い、神様が大きな愛と喜びで私達の人生を満たしてくださいます。
復活祭を迎え、復活祭を記念するそれぞれの重要な時の前に、イエス様が祈られるのを弟子たちが見ていました。最後の晩餐の時パンを割く前に、「これは私の体」、その後、杯を祝福して配る前に「これは私の血」、「これを食べて、飲むとわたしを記念する」の言葉の前から目を上げて御父である神様に深く祈られました。このような愛の印(パンとブドウ酒)によってイエス様が神様の神秘的な救いの計画を果たそうとしておられたのです。一所懸命祈られるイエス様の姿はオリーブ山の場面でもみられます。弟子たちは眠気を誘われ、イエス様は一人で心と戦っておられました。「この時は避けるべきではなかっただろうか」と、血に変わった汗を流しながら、「この杯をわたしから放してください。」と御父に向かって願っておられたのです。しかし、御父である神様の救いの計画を、つまり自分の死を最後まで果たすように決心しておられました。
最後に、十字架に架けられた死の直前、御父に向かってイエス様は「全てあなたに委ねます。」と言って祈りながらこの世のご自分の人生を閉じられました。
                             モヨリ神父

私は教誨師

2013年03月24日 | メッセージ(その他)
私は教誨師 2013年3月22日

教誨師に任命されてからほぼ二年が過ぎたところです。今まで経験がなかったこのような役目をはじめてからを振り返ってみれば、現状を理解しないままに進み出し、心の中で「これでいいでのだろうか」と何回も繰り返し考えてきました。しかし、このようなおぼつかない歩みの中に少しずつ日差しが射してきて、大きな喜びを感じるようになりました。このような喜びはどこから来るのか考えてみると、収容者との面会の時間の中からと思います。
まず日本の刑務所の組織に関わった段階で驚いたのは、細かい所まで、人間に対する大きな尊敬を持ちながら、積極的に刑務所の役目を果たし、いろんな問題に取り組んでいることと、そのいろんな考え、取り組みを身近に見たことでした。次に収容者に面会した時に、私が教えてあげたことよりも、私が彼らから教わったことの方が沢山ありました。
さて、出会った収容者の全員ではありませんが、何人かの心を知ることによって、とても素晴らしい心を持った人にも出会うようになりました。大きな犯罪を犯した人に出会ったこともありました。けれども皆の緑の制服の中のそれぞれに違った性格に気付き、それぞれの考えも異なって、生き生きとしている心があることも実感しました。時によって人生について、信仰についていくつかの質問をされたことがありました。その時私の答えに一生懸命耳を傾けてくれたことは、大きな驚きともに良くわかりました。それでも収容者たちのそれぞれの日常生活の中でお役にたてたかどうか、あるいは、話してあげたことを実行されたことがあったかどうかはわかりません、しかし耳を傾けられた瞬間に、本人達の心の底に何か響いて感じてもらえたと分かりました。
収容者に会う時にいつも握手をしています。その時、言葉以上にその小さなしるしによって心が通じたなぁと感じています。聖書の中でもイエス様が病気の人、弱い人、罪人に近づく時にいつも、相手の手に自分の手を置き、相手に触れるようにされて、大きな癒しの力を与えていました。そのつもりで、うまく言葉に出来ないのですが、普通の人、普通の人生のぬくもりをも感じさせてあげたいと思ったのです。優しさはどんな壁でも突き破って、どんな心でも開きます。またクリスマスと復活祭の時期にも、他のキリスト教団体といっしょに収容者のために舞台での催しにも参加しました。その時も、とても素晴らしい行事だと思い、収容者の心まで届いたことがあったと分かりました。参加された方々の顔を見ながら、開いた絵本のように、いろんなことを読みとることが出来たとも思いますが、一番嬉しかったことは収容者の笑顔を何度も見られたことです。最後に熊本刑務所始まって以来初めて、刑務所内でミサを立てることが出来て大きな喜びでした。その時にイエス様をこんなに、目で見えるぐらい身近な存在に感じて、神様と支えてくださった中村牧師さん、教育部の担当警備さん達にも大きな感謝を申し上げたいと思います。

最頼 巌流神父


「今週の公教要理の錠剤」64 

2013年03月23日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 枝の主日   2013・3・24
 「カトリック教会の教え」から
「キリスト信者と祈り」
キリスト信者にとって祈りは特別な課題となっています。その理由はまず、イエス様ご自身がいろんな時、ご自分の人生の重要な時に祈られたからです。イエス様に従う人たちにとって、祈ることはイエス様と同じように欠かせない心の息吹となっています。祈ることは御父である神様と話し合うことです。イエス様の弟子達が、どのように祈ればいいか尋ねた時に、イエス様に教えられました。イエス様から教えられたこの祈りは、イエス様に従う人々にとって祈りの基礎となりました。イエス様は「主の祈り」と呼ばれるこの祈りによって、祈りの心、祈りの中身、祈りの目標を教えてくださいます。主の祈りはキリスト信者にとって祈りの全体的な形が含まれています。それを参考にして祈っています。祈りは神様との話し合いの中で、自分の小さい利益(受験合格、商売繁盛、寿命)を求めることではなく、神様の栄光や神様がこの世の完全な到来を求めると共に、神様の贈り物である命を求めることです。それに、どんな悪からでも解放されることによって、神様から赦されたように、隣人を赦すように求められることです。イエス様が祈りについていくつかの指示をされました。まず、自分の人生の中で言葉だけではなく、行動によっても絶えず祈るように。自分の部屋の奥まったところで、静けさの中で神様の言葉に耳を傾けながら、謙虚に自分の出来たことについて自慢せず祈るように勧められています。また言葉数多く祈るのは神様が好まれる祈りではなく、行いがついていかない祈りも神様の望まれる祈りではありません。キリスト信者が知るべき祈りは、数少ないことですが「主の祈り」、「マリア様への祈り」、「栄光の祈り」です。それにいくつかの日常生活の中で必要な祈りもあります。キリスト信者は食事をいただく前に、仕事や勤めの前、旅行に出る前に神様の導きに感謝して祈っています。

「今週の公教要理の錠剤」63

2013年03月15日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 四旬節第五主日   2013・3・17
 「カトリック教会の教え」から
「キリスト信者と世の平和」
この世、この社会、この現在の共同体で生き、暮らすキリスト信者は、神様と同じように人類の救いを求めて、社会の平和、また人々の心の平安の為に努めています。復活されたイエス様ご自身は弟子たちに出現された時に、彼らの共同体の中で一番素晴らしい宝物をもたらしました:「あなた方に平和があるように」。人類がのぞむのは平和な社会です。武器で、また武力の対立によって設立された平和ではありません。人間一人一人を大切にしながら、お互いの尊敬によって平和を求めています。このような世界の平和の為に皆の協力は欠かせないことです。国際共同体の平和を建設する為に、弱いものの権利を求め、強い者、力のある人の持っているものをわかちあう心を勧めるのは大事なことです。平和な社会はお互いの尊敬、男女を問わず上下の関係をなくしながら、お互いに助け合うことによって得られます。政治の中で働くキリスト信者はイエス様の思いをもって人々のより良い暮らしを求め、社会による義を高め、不正な行動を避けるように努めています。平和に反する状況はいくつかあります。差別や不正な雇用によって霊的と物質的な貧しさの中に人々がおかれることです。キリスト信者はイエス様が教えられた通り、力強く悪と戦って、間違っている人に対して憐れみと慈しみを持って、むしろキリスト信者は赦しと言う神様から頂いた神秘的な力によって、さまざまな所で、また国際共同体の中で平和を築いています。キリスト信者は同じように、神様に対する感謝の心を持って、神様が創造してくださった大自然と環境を大事にします。現在は特別に環境の保護は、自然破壊が続き問題になっており、犯される社会の平和を求める為、そしてより良い暮らしを求める為に、大自然と環境を大切にしながら人間の命とその暮らしを守らねばなりません。最後にイエス様が教えてくださったのはどんな問題、課題の中でも、いろんな働きの中でも、世界の平和の中心に置かれるのは弱い人間、その思い、そのそ欠かせない存在だけです。

モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」62

2013年03月06日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 四旬節第四主日 2013・3・10
 「カトリック教会の教え」から
「人間と文化と経済」
キリスト信者は自分が住んでいる地域、社会、国とその文化を愛してその中に溶け込んでいくつもの関わりを持ち、イエス様の思いとその価値観に元づいて動き、働き、場合に応じて選択して自分の力を注いでいます。文化とは時代を通して積み重ねられた習慣、価値観、技術、法律などです。日本の文化の中にも、日差しのようなイエス様のメッセージは何百年も前から差し込んでいて、その跡が残っています。光のようなみ言葉の力が歴史に定められた文化は新しい内容、新しい価値観、新しい思いに少しずつ変えられ、改善されながら豊かになっています。キリスト信者は自分が生まれた故郷の文化を深く知り、愛し、イエス様の心を一所懸命に吹き込んでいきます。信仰と理性と、つまり宗教と文化は対立するのではなく、お互いに満たされて人間の心をより豊かなあり様に誘導しています。そのようにいつも文化に対して、人間の心と歴史から生まれたいろんな国の文化に対し、キリスト信者は大きな愛着と尊敬を持ちながら、それをイエス様の目で見て、イエス様が教えられたことを魂のように文化と社会に吹き込んでいます。現在は日本の文化の中でキリスト教の思いがずいぶん入り込んでいます。しかしまだ、隅々までイエス様の心とその価値観は広がっていません。キリスト信者の役割はその使命を完成するように勤められていることです。同じようなパターンで、人間の労働の様々な形の中でも、イエス様の教えは欠かせないことです。まず人間は労働のために生きるのではなく、労働は人間の独特な特徴であり、人間をまず優先にして労働は人間の豊かさの為にあるように考えなければなりません。同時に人間にとって厳しい労働、つまり人間の素晴らしさとその価値を見失う労働は赦されていないし、イエス様の思いに反しています。経済に対する思いも同じです。経済は人間の豊かさと幸せの為にあるので、その反対のためではありません。経済を犠牲にする人間の行動は神様の思いには赦されていません。どんな時でも、聖書によって語られる神様の思いにはいろんな活動の中で、文化であれ、労働、あるいは経済であれ、その目的は人間の喜びとその幸せです。そうではなくむしろ、人間が文化、労働、経済によって犠牲にされた場合、それは神様が望まれることではありません。 
モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」61

2013年03月01日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 四旬節第三主日  2013・3・3
  「カトリック教会の教え」から
「人間と社会」
キリスト信者は住む地域の環境、社会、その枠組みを無視していることはできません。キリスト信者は俗的な世界に生きても、社会の中に溶け込みながらキリスト教的な特徴をもっています。つまり隣人愛、憐れみ深い心、平和を求める努力の中で自分の地域と社会の中で人の救いの為、奉仕の心をもって働いています。神様は共同体の中で人間に働くように呼びかけています、なぜなら共同体の中で、ご自分の姿、ご自分の思いを見せておられうからです。キリスト信者が思っているのは、周囲にいる人たちはイエス様の姿をもっているので、その彼らに対して深い感謝の心を持って、さまざまな方法で奉仕しています。社会の中で、キリスト信者は皆と一緒に共通善を求めています。積極的に社会の行事に参加しながら、周囲の人々の救いのために大きな責任を感じています。場合によって社会の中で働くキリスト信者は、ボランティアの精神とは違い、役割や責任などを積極的に担っています。目的は自分の自己満足ではなく、まず神様から与えられた使命を一所懸命に果たすように考え、自分の利益と権力を高める為ではなく、人の救い、人の幸せを求めて、それを通して神様から頂いた恵みや喜び、また愛に対する限りのない感謝を表しています。キリスト信者にとって社会の中で働く目標は一つだけです。それは神様の協力者として、神様と一緒に、あるいは代理人として無償の愛と心の奉仕によって、人の救いと幸せに役立つ為です。キリスト信者は聖書の神様の言葉によって、社会で生かされるすぐれた価値観を持っています。それを証しとして、社会の中で、違った信仰を持った人と共に働き、その価値観を生かすようにしています。キリスト信者は謙虚に自分の身を削って、神の国を作り上げるように努めています。良いことを灯火のように燃え立たせています。悪いことと戦って改善を求め、自分を後に置くように望みながら、弱い相手を優先して人の喜びを探し求めています。
モヨリ神父