カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

「今週の公教要理の錠剤」41

2012年08月29日 | メッセージ(その他)
B年 年間第二十二主日         2012・9・2
 「カトリック教会の教え」から
「キリスト信者の倫理」
キリスト信者の倫理は人間に対する尊敬から発生します。手本になるのはイエス様自身です。その心その思い、その行動です。イエス様自身は人間の本来の姿です。人間は神様の似姿に創られています。人間は同じ普遍的な希望を持っており、神様と同じように愛することができます。イエス様は福音記者を通して教えられたように、人間の心に宿り人間を指導しています。言い換えれば人間は神様のもとで生きるということです。人間は創造された時、神様の息を吹きかけられて生きるようになって、イエス様が教えてくださったように人間はいつもこの息のもとで生き、働き、希望を持ち、愛して愛されています。このように人間はとても貴重な存在で欠かせない神様の似姿です。それで人間のその命はもっとも大切な、貴重なものです。このように丁寧に、そして自由に生きる為に神様から創られた人間は、人生の中に神様からいくつかの方法で呼びかけられています。その呼びかけに言葉だけではなく、人生全体で応えるように誘われています。たとえば、自分の人生にはどのような信仰の選択をするのかは神様への呼びかけに対する一つの答えです。そして、どのようにしてこの世間でイエス様に従うかは神様の言葉に応えて決めることです。人間は幸せになる為に生まれて、喜ぶ為に生きるのです。けれども神様の言葉に沿ったカトリック教会の倫理は、真の幸せを教えてくれます。それによって人間は、神様が望まれる人間の姿を果たすように生きていて、本当の幸せが含まれた救いの道を辿るようになります。カトリックの倫理は否定な掟や禁止の命令に基づく心を持った倫理ではなく、むしろどんな人のためにも神様が望まれる救いや喜びを果たすことがどうすれば出来るのかを知ることを勧められています。
        モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」40

2012年08月24日 | メッセージ(その他)
B年 年間第二十一主日   2012・8・26

「今週の公教要理の錠剤」40 「カトリック教会の教え」から

「教会への奉仕」
キリスト信者は洗礼を受けたことによって、教会の一員となってイエス様と同じ思い、精神をもって、イエス様の後ろを歩くようになって、自分の人生では祈りと奉仕の心を優先します。イエス様の心にかなう奉仕が教会ではいくつかあり、活かされています。隣人への奉仕以外に、たとえば豊かなカトリックの典礼には儀式の時にキリスト信者に当てはまるいくつかの役割があります。その役割はキリスト信者が上手に果たすことによって、典礼自体が荘厳になり、参加する人の心に響き、神様は儀式を通して身近に皆の心に話しかけてくださいます。典礼に参加する人の前に素晴らしい神秘的な世界も広がってきます。イエス様に従う者たちにとって、典礼の行事の準備、そしてその後片づけはとても綺麗な役割であり、儀式に集中力を与えますから、祈りのような心の準備になります。侍者の役割は神父に身近な奉仕であり、司祭と一緒にミサを捧げることになり、とても素晴らしい奉仕です。祭壇の所で奉仕することはすぐれた奉仕ですから神様に仕えること、教会にも仕えることです。その後、神様の言葉を朗読することは神様のみ言葉が声になり、神様と人間の間の素晴しいコミ二ケーションの役割になります。 また、祭壇まで奉納の贈り物やパンとブドウ酒を運ぶことも神様への捧げものになり、素晴らしい感動的な奉仕だと思います。
そして、毎週の祭壇の為のお花の準備もすぐれた祈りになります。教会への奉仕は神様への捧げものとしてすれば、とても素晴らしい信仰の印になり、神様への直接の祈りになります。同じように教会の掃除や教会の庭の整理もすぐれた神様への奉仕になります。神父が不在時の奉仕も欠かせない役割です。み言葉の祭儀を上手に行えば、素晴しい信者の奉仕だと思います。それにオルガンを弾くこと、病者の訪問、その他自分のカリスマを活かして奉仕すること、宣教活動、教会の役員職を受けること、教会の行事を手伝うことまで素晴らしい神様への奉仕と祈りになり、確実に神様はその奉仕者に大きな報いを備えてくださいます。
                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」39 

2012年08月17日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第二十主日       2012・8・19
 「カトリック教会の教え」から
「秘跡以外の典礼」
カトリック教会による七つの秘跡以外に、いくつかの典礼的な行事と義式もあります。たとえば、まず秘跡と各典礼行事を上手くとり行う為、準備は大変大切ですから、いつでもその心構えは欠かせないことです。教会の典礼の準備と後かたつけは心の準備と心の感謝につながっています、それを正しく扱うようにすれば、作業としてではなく典礼に結びついた心の態度になります。だから各儀式の準備は心の成長と教育になっています。典礼に属していることには様々な祝福もあります。神様自身だけが人間の人生、それに属しているできごとなどを祝福します。神様によって祝福されたものは神様に属していることを示し、神様から良いものとされています。この意味で神様だけが祝福が出来ます、司祭はそれを示しています。イエス様の命令に従がって「絶えず祈りなさい」、時間を大切にする毎日の祈りと食前と食後の祈り以外に、信心的な祈りもあります。たとえばいろんな形で個人であったり、グループであったりロザリオを唱えること、また様々な信心に従って唱える祈りです。祈りの中で一番すぐれた形であり、イエス様と共に祈るのは教会の祈りです。イエス様の祈りを祈り続けて、長い伝統の中で教会が続けてきた祈り方が聖書の言葉である詩編に元づいて唱える祈りで、教会全体と共に典礼の年間に沿って祈ります。教会は典礼を通して、まだお母さんの胎内にいる子供が生まれる前の時期を大切にし、同時に死の事もとても綺麗な典礼に包まれて、人生の締めくくりを大切にします。カトリックの葬式の典礼は、死の苦しみを和らげるか隠すよりも、神様から頂いた命に対する大きな感謝を表し、それを大切にします。人間の本来の故郷である神様の懐に戻って、永遠の命と人生の中で報われた喜びを強調して、お葬式を通して人生の最後の時も大切にします。
    
                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」38 

2012年08月10日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十九主日          2012・8・12
  「カトリック教会の教え」から
「奉仕のための秘跡―結婚の秘跡」
カトリックの心では男女二人が結婚した場合、もっとも愛である神様の姿を示しています。結婚した二人は神様と一緒に命の創造者になり、全て神様と共に愛の中で新しく生きるようになり、神様の本来の姿を示しています。結婚生活の愛自体は自分の中で閉じこもることではなく、外へ表し、広がっています。神様は人間が身近に見える結婚の愛を例えて、人間に対する自分の諦めない愛を示しています。結婚を支える愛の意味を良く理解する人間は、神様の愛を理解し、神様の愛の忠実、神様の愛の嫉妬まで深く覚えています。結婚生活の愛のように神様は花婿として、花嫁である人間を愛し、大切に、丁寧に話しかけたり導かれたり、人間が自分から離れた時でも絶えず忠実な花婿として追いかけたり、心から赦しを表して、自分の腕の中で、傷ついた花嫁のように皆を抱きしめます。神様は失われた羊を捜されたように、花嫁である人間を絶えず追い続け、一人でも多く自分の方に呼び寄せる為に捜し求めています。結婚式はこのような神様の愛の形を示している秘跡ですから、とても尊い秘跡であり、これを受ける為にも適切な準備が必要です。キリスト信者にとって、結婚生活は、特別に相手がキリスト信者ではない場合でも、共に愛の中で歩むことは基本です。しかし簡単ではありません。それで神様の助け、特別な祈りと祝福の支えは欠かせないことです。家庭は社会の細胞でありながら、イエス様の教会の姿であり、子供の心と信仰を育てる尊い場です。またキリスト信者にとって、結婚しなくても神様に人生を捧げて、愛のもとで送る独身生活も意味があります。つまりイエス様と同じように、より大きな愛の為に生きることは、自分自身を全て神様に委ねて、誓願の勧めに従いながら、イエス様の足跡を踏むようになることです。神様の愛の為、隣人への愛の為に独身生活を送ることも神様のみ旨にかなって、結婚生活と同じように大きな意味を持っています。                      
                              モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」37

2012年08月03日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十八主日     2012・8・5

 「カトリック教会の教え」から

「奉仕のための秘跡―叙階の秘跡」
叙階の秘跡は司祭になる儀式です。男子一人の若者はイエス様に従う恵みを受けて、その呼びかけにこたえるようになって、特別なカリキュラムの後、幾人かの上司司祭、司教様の賛同によって、司祭になる資格を得られます。叙階して、司祭となるのはイエス様の立場に立って、キリストの唯一の司祭職を実行することです。司祭になる為には司教様がとり行う叙階式が必要ですがその時に、イエス様から派遣された若者は、イエス様の心をもって人々に迎えられるようにします。司祭の役目は実は仲介者のような役割です。人を神様の方へ導きながら、神様の心と言葉を人々に伝えています。つまり、人類の救いを求めて、人々が神様を知るように、従うように、愛するようにいろんな方法で勧めます。同時に慈しみと憐れみをもった神様の心と言葉を伝えて、人々に自分の人生の中でその存在と働きに気づかせるように努めます。そして、司祭たちの間の中心になるのは司教様です。司祭たちは司教様の思い希望などと一致して、まかせられた民衆を司牧します。司祭の欠かせない役割は共同体を作ることで、単なる団体のような共同体ではなく、イエス様の心にかなう共同体作りを希望しています。その後、共同体に七つの秘跡を与えることです。イエス様の共同体は司祭の手によって、秘跡を大切にし、秘跡を頂くことによって成長します。その中で司祭の欠かせない役割はイエス様の最後の晩餐を記念することです。イエス様の言葉とその体を分かち合いながら、それはミサの事ですがその中に司祭はイエス様の姿を示し、改めてイエス様のように、共同体の奉仕の為に生きるように約束します。最後に信徒に神様の祝福を与えながら、司祭は自分と信徒も宣教の役割を幅広く果たすように推進します。
                          モヨリ神父