カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第4主日 

2016年01月26日 | 神父様からメッセージ(C年)


  今年の冬の寒さは格別に厳しく全国的に大雪となり、沖縄にも雪が降るという前代未聞のことで人々を驚かせました。でも、「冬来たりなば春遠からじ」といいます。今年は殊の外その春が待たれます。さて、キリスト信者の生活に欠かせないことは、病人訪問です。身内や親戚などはもちろん、地域の孤独なひと、お年寄り、不自由な方など、皆がほほ笑む心を待っています。慰める心、支える心、イエス様を見習っているキリスト信者は、人をだれでも癒す目標をもっています。キリストに従う者は励ます役割を任命されて、それを果たす機会をのがしません。このごろの年間の典礼の朗読から勧められたことは、神様の言葉を大切にすることです。つまり聖書を時々手にとって、神様が勧めるところを読み、その言葉がどのようにして実現されているのかを知れば、あるいはどこが自分に当てはまっているのか考えてみれば、神様の言葉の力、その行動、その癒しを見出すことができます。それを経験するために、ただ試すだけです。その言葉は神様の贈り物であり、それを通して素晴らしいことを創造します。その言葉は水をワインに変え、人の心をも変えることができます。そのみ言葉はイエス様ご自身です。
「ルカの福音書 4・21-30」
 イエス様の本性は人間には神秘的なことであり、神様だけに知られています。人々はイエス様に近づくと、その神秘的な存在を感じます。イエス様と神様とのかかわりは人間が想像できない神秘であり、愛に包まれた深い結びあいです。確かに人にとって人を知るのも簡単ではありませんが、イエス様のことを知るのは特別な経験になっています。今日もイエス様の時代と同じように、イエス様のことをはっきり知らずに自分の狭い観点から見る人もいます。先週の福音書と同じように、イエス様は神様のみ言葉であり、この世に来られて素直に誰にでも受け入れられたのではなかったのです。イエス様がナザレの会堂で説教されたとき、神様の言葉は歴史の中で実現すると思うファリザイ派と違って、み言葉は自分に当てはまって実現すると宣言しました。ナザレの人々がそれに対して自分勝手な発言を加えて、イエス様は人間にすぎないものであり、ヨセフとマリアの子であることを強調します。ナザレの人々の態度を戒めて、イエス様が預言者のように自分の身内でさえ受け入れていないと訴えています。しかし身分の低い、外国人であるシリア人のナアマン、またなんの資格もないとされていたフェニキアの未亡人は、イエス様の言葉を受け入れて救いの喜びを味わうことができました。この出来事によって、この世でイエス様が来られたのはイスラエル人のためだけではなく、全ての人の癒し、救い、全世界の全ての人々の幸せのためだとわかります。なんでも知るように示していたナザレの人々はイエス様を拒み、その拒否はイエス様の最大の拒否である十字架上の死のことを予言します。神様は無償でいろんな人に、特に資格のない人々まで自分自身を贈り物として与え続けたのです。時代、場、人によってイエス様のことを受け入れていない人もいます。しかしイエス様とそのみ言葉を受け入れる人は、喜びの癒し、自由を感じ、救いを味わうことになります。
                                          モヨリ神父 

主の洗礼の主日 

2016年01月04日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 キリスト信者も感謝のこもった心で新年の行事を楽しみながら、イエス様の公生活をたどることから新年が始まります。今度迎えるのはイエス様の洗礼の主日です。確かにイエス様の洗礼と言う表現は不思議に聞こえます、しかし、その時イエス様は普通の人間の行列に並びながら心の回心を求めて、神の子であることを明らかにします。同時に主の公現、主の洗礼の主日、カナで行った奇跡を通してイエス様が世界に人間と神である姿を示しています。それだけではなく同時に私たちも神様の子であることを知らされています。
その後(一つ)を強調している年の始まりには、イエス様の教会はひとつになるように呼びかけています。歴史のあらゆる出来事によって、人間の間のコミュニケーションの不足によって、欠点のある人間の心の結果として、イエス様の共同体はいろんな形で分裂し分けられて、イエス様が教え残した唯一真の愛の証の教会が成らない時があります。だからこの頃、イエス様の教えに従う教会は一つの教会に成るため、一緒に同じ言葉で祈るように考えています。
「ルカ福音書 3・15-22」
 主の洗礼の主日はおそらく、初代キリスト信者にとって自分の洗礼のための要理だったと考えられます。この主日によって確かにキリスト信者も自分の洗礼の意味を深めます。当箇所は聖霊で洗礼を授けることでそれによって、神の子になることが強調されています。神の子であるのはイエス様だけではなく、私たちにまで及んでいます。さて、ルカの福音書は二つの場面に分けられています。まず洗礼者ヨハネが自分の立場を明確にします。次にイエス様がメシアであり、神の子であることを啓示されています。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない、ただ一つの声にすぎず、自分の洗礼の意味は回心を求める洗礼であって、メシアが授ける洗礼とは大きく異なると明らかにします。メシアであるイエス様は霊と火で洗礼を授けます。このような洗礼を受けたイエス様自身が自分に従う人々にも授けられています。このような洗礼をいただくことによってイエス様に従った人々はイエス様の弟子たちの聖霊降臨の時と同じ経験をします。当福音書ではイエス様の洗礼が素朴に語られていますがその時、素晴らしい知らせが告げられます。イエス様は普通の人として、皆と同じに洗礼を受けます。しかし聖霊で満たされて、聖霊の中で生きるようになっています(鳩の姿で聖霊が降ってきた)。それによって神の愛する唯一の子であることを宣言されて、お祈りの中で神様の思いに溶け込んで人類の救いの計画を自分の人生で実現されることになったのです。イエス様が聖霊の力でお生まれになって、人として生活をされ、ご自分の死と復活において聖霊の導きで神様の人類のための計画を成し遂げられました。イエス様に従った者たちも聖霊の働きによって、イエス様の運命と一致して人類の救いを求めています。       モヨリ神父