カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 四旬節第二主日

2010年02月25日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

鶯「うぐいす」は日本人に古くから最も親しまれる鳴禽(めいきん)です。春に先駆けて鳴くので春告げ鳥の名があります。初音と言えば、その年最初に聞く鶯の声のことで、熊本では2月初めから聞かれます。あちらこちらで初音を聞いたことが話題に上ると、すぐにでも出かけたくなるほど待たれるものです。鳴き声が整うのは3月ごろで、その整っていく過程も楽しみの一つです。また沈丁花の花は菊池教会と山鹿教会にもあります。沈丁花は中国産の落葉低木で、日本には室町時代に渡来し、主に庭木として栽培されてきました。3~4月ごろ枝先に10から20個ほどの花をつけ、強い芳香を放っています。この香りを沈香(じんこう)と丁字(ちょうじ)にたとえて、花の名前が付けられました。
さて、キリスト信者も沈丁花の香りと共に、四旬節の香りその甘さを吸って復活祭の準備の方へいざなわれ、四旬節の間私たちの歩みも続いて行きます。イエス様と一緒に砂漠を通り誘惑の辛さを感じ、イエス様と一緒に悪魔に打ち勝ち、神様のみ旨を忠実に守る約束をしました。今度、イエス様がご自分の姿を変えて、ご自分の本性を見せてくださいます。その姿は輝く姿で、イエス様が新しい真実を、新しい世界を知らせてくださいます。その姿はイエス様に従うことによって私たちの姿にもなります。それはキリスト信者も自分の人生の様々な出来事の、どのように辛い出来事をも神様の言葉の光のもとで見つめれば、その中で、神様の丁寧な指導、神秘的な跡を見出し、どのように暗い出来事でもそれが変わり輝いてきます。辛くても私たちにとって、ペトロがイエス様の前で言ったように「ここにいるのは、つまりイエス様と一緒にいるのは、いつでも素晴らしい!」
ルカによる福音書9・28b-36
イエス様に従う人は信仰に対する誘惑を受けますが、それを乗り越えるためにイエス様と同じように神様のことを選ぶのです。イエス様のご変容は、誘惑を乗り越えた人に対するこたえになります。イエス様が十字架上の死を予想された後、弟子たちにキリスト信者が迎える理想と喜びを知らせます。それは、光で輝いている姿です。だからイエス様のご変容の意味は誘惑の時、苦しみを迎える時も、イエス様の言葉を聞く人は輝いているものになるということです。イエス様がご自分の姿を変える途中、天からの声は「これに聞け」と勧めます。イエス様を聞くのは素晴らしい人間、輝いている人間にとって欠かせない過程になります。輝いているイエス様の姿が歴史の中にあり、人間と共に歩む神様の存在を示しています。イエス様と一緒にいたモーセとエリアは法律と預言を象徴しています。メシアであるイエス様は旧約の時代から、つまりモーセの時代から人類に期待され、この世を去った時でも皆と一緒におられることを示しています。 同じようにエマオの方へ歩く弟子たちにも、イエス様について旧約聖書に書いてあること、モーセからそして預言者が予言したことも解説されました。ペトロと他の弟子たちはこのような神秘的な場面にとらわれて、大きな情熱の中でイエス様と一緒にずっといたいという希望を示しましたが、実際に神様と一緒にいることは出来ます、それはイエス様のみ言葉を聞くことによって実践されます。キリスト信者にとって、あらゆる形で神様の言葉を聞くことは欠かせないことです。神様は聖書全体に渡って、イスラエル人との愛の約束を述べた時でも、それを人類全体が聞くように勧められています。そうすることによって、使徒パウロが語っているように、私たちの貧しい体はイエス様と同じように輝いている体となります。輝いているイエス様と同じようになったキリスト信者が神様と一つになって、世界に神様の本来の姿を見せることができるのです。
                                  モヨリ神父     

毎週の一言 C年 四旬節第一の主日

2010年02月19日 | メッセージ(その他)
イエス様を愛する皆様へ

春の暖かさは一進一退しながらやってくるのが常で、立春を過ぎてからの寒さを「春寒」あるいは「余寒」といいます。さて、春菊は地中海沿岸が原産地と言われ、日本では江戸時代に野菜としてまた観賞用として栽培されたものだといいます。花は黄色でいかにも野菜の花らしくたくましく、畑に一杯咲いている様はなかなかのものです。けれども春菊は花より菜、独特な香りといい、春野菜の代表格、おひたしや鍋物などには欠かせません。また白魚は、早春から産卵のため日本の各地の河川を遡上(そじょう)する上品な小魚です。体長は大方7~8センチ、四手網などで掬って獲ります。小さくて透き通ったところがいかにも哀れで愛しい。茹でると真っ白になるので「白魚」の名があります。
さて、最近良く使われる言葉は病院に限らず「ケア」です。英語であり、日本語でも普通に使われるようになって、人に対する憐れみと慈しみを示しています。日本語のぴったり用語は「赤心」、言い換えればボランティアの心です。お年寄りに対して、子供に対しても、困っている人にケアという心は欠かせない現代社会人の態度になっています。けれども、ケアと言うのは名詞だけではなく動詞としても使えば「アイ、ケア」となります。無理に翻訳すると、「興味を持つ、知りたい、関わりある」と言う意味です。しかしキリスト信者は大自然に対して、また人間がかかわるすべての分野、背景などにケアだと言いすぎないことが大事です。なぜならそれは神様の心だからです。神様の心は全てに対してケア、つまり、興味と愛を示し全て温かい憐れみと慈しみで包んでくださいます。キリスト信者も同じように、全てに「ウィ、ケア」「全て、愛している」というべきなのです。
「灰の水曜日」頭に灰をかけられたしるしによって四旬節に入り、つまり積極的に復活祭への準備に踏み込む時季になりました。
ルカによる福音書 4・1-13
四旬節に入って、当時季は私たちの明確な改心のしるしになりました。み言葉に導かれてキリスト信者の共同体は五つのステップによって、復活祭の方へ歩みを進めて行きます。今年の四旬節の五つのステップは、1)イエス様の荒野の誘惑、2)実りを持たないイチジク、3)イエス様のご変様、4)放蕩息子のたとえ話、5)罪を犯した女です。四つの個所はルカの福音書に属していますが、5番目の個所はルカの心を表しているのに今、ヨハネの福音書に属しています。この朗読の背景は大いに神様の慈しみと憐れみを示しています。この四旬節の間、イエス様の素晴らしさを深く知るように誘われています。み言葉によって自分の経験によって、イエス様の心を知る、愛する、経験することが出来れば、確かにキリスト信者もイエス様の心を見せることが出来ます。ルカ福音記者が語るイエス様の荒野の誘惑は、イエス様の全ての公生活をまとめています。イエス様が乗り越えた誘惑は、イスラエル人たちが砂漠の中で乗り越えられなかった誘惑で、それはこれからキリスト信者になる者が乗り越えなければならない誘惑を語っています。イエス様は示された神様のみ旨に対する忠実と愛着によって、そして、神様のみ言葉に支えられて、あらゆる誘惑を乗り越えることが出来ました。四旬節を迎えるキリスト信者も、み言葉に支えられてイエス様と一致して、神様の心と愛に反する日常生活の誘惑を乗り越えるように誘われています。
                            モヨリ神父


毎週の一言 C年 年間第六主日

2010年02月11日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

寒の内の時季に汲んだ水を「寒の水」といいます。厳しい寒さで冷たさを増した水は、徴生物や雑菌などが繁殖しにくく、このため昔から「冬中の水は薬になる」と言われています。特に寒の入りから9日目に汲んだ水を「寒九(かんく)の水」といい、これを飲むと一年間を無病息災で過ごせるといいます。また、澄んだ清らかな寒の水は、品質の良い醤油や日本酒の製造などにも利用されています。また「三寒四温」とは、冬期において中国、韓国で寒い日が三日間続くと、その後四日ほど温かい日の続くことがあります、この気象の変化が三寒四温と言われてきました。日本でも周期的ではないが、低気圧が通過する際はそれに似たような現象が起こります。さて、キリスト信者になって何と幸せになったなあ!と言える人がいます。まず、神の赦し、慈しみと愛に癒された者になり、そのため喜んでいるので幸せなのではないでしょうか。そしてイエス様に従った者は、いつも神秘的な光で照らされた人生の一瞬一瞬の出来事が、神様の作品のように見えるのです。そしてキリスト信者は自分の努力によって神様に近づくのではなく、神様の独特な愛によっていろんな時に、特別に祈りの中で感謝を表す時に共に近づき合い一緒に暮らし、一緒に歩みます。それを実践し実感する者が幸せであることを感じています。
それから、巡礼をすることはどんな宗教の中でも独特な行事ですが、どうして巡礼は人間にこんなに好まれているでしょうか。仏教、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教などにあります。仏教では八十八ヶ所を回る人はお遍路さんといい、かぶっている笠の上に「同行二人」と書いてあります。さて、巡礼は人生にたとえられますが、人生の中でだれかと歩もうとするのはとても楽しい時ではありませんか、イエス様は私たちにいくつかの約束をしてくださいました、その中に「いつもあなたがたと共にいる」と。イエス様と一緒にずっと歩む、このように貧しく弱いキリスト信者は幸いではないでしょうか。
ルカによる福音書6・17、20-26
聖書の専門用語である「しあわせ」という単語の意味は「神の救いを喜んで受け入れる人」になっています。すなわち「神様に愛された人」です。たしかに聖書の言葉の意味は社会的な意味の「幸せ」つまり「嬉しい、運がいい」などに、はずれているところがあります。今日の典礼で第一朗読のエレミヤ預言者の個所とルカの福音書の比較は、私たちに生き生きしたメッセージを伝えてきます。ルカは幸いな人に不幸な人の生き方を比べますが、エレミヤ預言者は同じように神様に祝福された人に、呪われた人を比べていす。同時に聖書の専門用語として「祝福された者」の意味は、「神の命を与えられた者」と受け取れば、今日の典礼では第一朗読と福音書もお互いに大きな光で照らされて、神に祝福された者と幸いな者は、同じように神様にとても大事にされた者になります。だから幸せな人は貧しい人であっても、泣いている人であっても、迫害された人であっても神様の命と愛を受ける人になり、喜びで満たされた人になっています。マタイの山上の話とちがって、ルカによるイエス様の話の特徴をみれば、貧しい人は実際に飢えている人で泣いている人です。さてイエス様はこのような人に向かって、あなた方の救いはすでに準備されているとおっしゃいます。つまりあなた方は神の国に属する資格を持ち、その中で慰められ満たされています。神の国には自分の希望に答えがあり、救いはそこだけにあります。ルカの福音書による最後の「幸せ」とは預言者たちと同じように、イエス様のために迫害を受けた人が、イエス様に対して実践的に自分の愛を示すことで神様に属する者となることです。
                                 モヨリ神父

毎週の一言 C年 年間第五主日

2010年02月04日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「春隣」は濁らずに春となりと読みます。春がすぐ近くまで来ているという意味です。一月もこのごろになると、風や光は春めき、花のつぼみや木々の芽もふっくらとしてきたように見えます。春はそこまで来ているという気配を感覚的に捉えた季語といえます。また節分は立春の前日のことです。季節が変わる節目のこの日、寺院などで、行われる儀式を「節分会」と言い家々で「鬼は外、福は内」と連呼、豆を撒きます。陰暦では1年を15日ずつに区切って24節気とします。その一番に当たるのが「立春」です。寒さはまだつづいているものの春の気が立つ意がこもっています。さて、イエス様のメッセージは人間の心を問われています。人間は心の悪、体の悪から逃れる希望を持っていますが、そのために医学を頼るだけではなく、宗教を通して解放されるように望んでいます。それを見抜いたイエス様は私たちと一緒に悪と戦って支えてくださいます。むしろ祈るように教えられた時に「悪から救ってください」と神様に願うように勧めてくださいました。2月11日はルルドの聖母の祝日であり、世界の病者の日になっています。私たちも、日曜日にこのようなルルドの聖母の取り次ぎを願って、いろんな悪から解放されるように祈りましょう。病気になること、病気であることを運が悪い、罰があたったと考えてはいけません。悪は神様から出るのではなく、神秘的に善に対立してそれを強調し高めています。神様は苦しんでいる人間のすぐそばにいて慰めてくださいます。事情によって健康が取り戻せない時に、その病気の中でイエス様の苦しみも見出すことができれば、その中で周囲にいるも者たちの愛情と支えにも気付き、感謝の心に変わり、病気の中でもより大きな喜びを見出すことができます。私たちもイエス様と同じように、マリア様の子でありマリア様の腕の中で大きな愛情で包まれているのです。
ルカによる福音書 5・1-11
当主日の福音書でも主役はみ言葉です。誰にでも神様の呼びかけはいつもみ言葉を通して行われます。皆の人生の中で重要な時があり、同時に人生を全うするためにどのような選択をすればよいのか、どのような方向に人生を向ければよいのかを考える時です。場合によって自然にわかることがあり、逆に困難の中で決める時もあります。とにかくいつでもその中に神様の呼びかけがあります。このような神様の呼びかけは父、母、聖職者などを問わず、全ての人間にあります。私たちは自分の人生の中でいろんな役割がありますが、このような呼びかけによって、この世の素晴らしさを完成するまで神様の協力者になります。当箇所ですぐに目立つのは、群衆がイエス様の言葉を聞くことを憧れていることです。他方ではイエス様がペトロの小さな舟であるように、教会の低い立場から話しています。群衆は驚きながら、み言葉を岩の中から湧いている清い水のように憧れて聞いていました。イエス様はファリザイ派の人のように、理屈っぽい言葉で話してはいません、むしろ真実を語り、権威のある言葉を語っていました。その後、イエス様がペトロとその仲間にも、ご自分の言葉の力を持つしるしを与えます。ペトロはイエス様のみ言葉の指示に従って網を下ろし、自分の働きの大きな結果を得られます。同じ権威のある言葉で、それによって群衆に偉大な教えを与えられ、イエス様のみ言葉は頼るべき言葉だと明らかにされます。このような魅力的な言葉に捕らわれたペトロは、自分の足りなさを実感しますが、イエス様の力強い言葉の誘いに抵抗することを諦め、イエス様に全身全霊で従うように決心しました。
                               モヨリ神父