カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 四旬節第一主日

2009年02月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

春の季語に「冴え返る」があります。春を迎え暖かい日が多くなってきた中で、寒さがぶりかえすことを表す言葉です。例年、この時期は、まだまだ冬の厳しい寒さが戻ってくることが多く時によって、熊本では気温が零度に戻る日があります。しかし「光の春」という言葉も使います。日脚が延び、太陽の光は少しずつ強くなってきます。同じ寒さでも日差しがずいぶん明るく感じられることを表わし、もともと、ロシアで生まれた言葉だそうです。灰の水曜日の典礼で四旬節に踏み出しました。灰の中で火が燃えていると思い、より深い復活祭の喜びを味わいたい私たちの四旬節の過ごし方は大きな課題になっています。イエス様が勧めてくださるのは「自分をして、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」それは日常の奉仕、祈り、小さな犠牲によって、イエス様の足跡を踏みながら、周囲にいる人達の心を思いやり、神の国を作ることです。キリスト信者の労苦は復活祭の光で照らされて軽くなり負いやすくなります。
使徒ペトロの手紙 3・18~22
使徒ペトロの手紙は、イエス様の霊を通して神様に近づくように勧めています。人間は弱い者、間違いやすい者ですから、何度も神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の死と復活によって神様のところに立ち戻ることが出来ました。使徒ペトロはこのような神秘的な出来事をノアの物語の人類の救いに例えて明確にします。洗礼の本格的な準備に入ろうしている方々にも参考になるはずです。洪水によって、罪に落ちた人々は滅びてしまいましたが、ノアは船で水の上に逃れ救われました、そして神様とのつながりを作り直しました。さて、洗礼を受ける者も同じように神様の霊から救われています。洗礼の時にかけられる聖水の徴によって私たちの罪は清められて、ノアと同じように神様と新たな深いつながりを作ることになっています。それはイエス様と一緒に復活することです。
マルコによる福音書 1・12-15
四旬節に入って、キリスト信者は心の回心を求めて祈り、節制し、神の愛の技に導かれて復活祭を迎えようとしています。当マルコの福音書は二つのテーマに分かれています。イエス様が受けた誘惑と、イエス様の宣教活動です。基本的にイエス様が受けた誘惑のメッセージは、人は悪に追われていても神の言葉によって生きるということです。新しい人生の始まりにどのように心の回心を得られるのか、神は導かれながら最高の愛の技を教えてくださいます。それは赦しのことです。神の言葉によってイエス様と同じように人が悪に打ち勝って神の国の素晴らしさを見出すことが出来ます。だから神の言葉はキリスト信者にとって日常の食物になり、心の回心への道になります。確かに私たちもイエス様と同じように日常生活の中で野獣に囲まれています、しかしイエス様と一体となれば神の言葉だけに生き、天使たちは私たちに仕えてくれるのです。さて、神の言葉に目を覚まされ新しい時代が始まったと気付いたとき、神の国はもうすでに私たちの目の前です。なぜなら神の言葉は私たちにとって心の光であり、福をもたらす音だからです。このような言葉に励まされて私たちは砂漠のようだった心の回新を求めるのです。
                            モヨリ神父
《お知らせ》
†毎月、第1と第2の木曜日午前10時から信徒会館で、
 聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。ご参加お待ちしています。

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1 コメント

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A年 四旬節第四主日 (神父)
2009-02-28 15:31:20
イエス様のことを愛される皆様へ、

ぽかぽかと暖かい今日この頃、冬は少しずつ過ぎ去ろうとしています。周囲の畑や田圃も新しい緑で染まってくるような気がします。今まで見たことのない種類の小鳥が身近に飛ぶようになりました。 そして小鳥や色んな生き物が、自分の巣を作るためになんと忙しく動いていることでしょう。
わたし達の復活祭までの歩みは四旬節の第四の日曜日になりました。中心になる課題は洗礼の時に得られた信仰、その時注がれた聖水、そして油で塗られたことによって神の子として選ばれた喜びです。
人間は盲人のように生きていると言うような言い方は珍しくありません。ヨーロッパでは、人間は自分の鼻の高さの距離までしか見えないと言うことわざがあります。 
ここに、人間が暗闇の中に生まれて生きることを語る小さな物語があります。
「一人の女が犯罪の現場で見つけられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井にあいている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」  さて、全ての人間にとってもまったく同じ状況だと言われています。福音書の中のイエス様に出会った盲人と現在の人間にとっても、見えない状況の中で生きているのは同じですが、けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださって、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいるもの達、そして神様の存在を見えるようにしてくださいます。
上記のような課題でわたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人の経験とまったく同じになります。実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのですが、神様からいただいた信仰によって、わたし達の日常生活の中で神様の存在とその働きが見えるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印を信じることによって、いただいた愛を見出し、神様へも人へも返すことが出来ます。
さて最後に洗礼の時に受けた光を思い出して、そしてその光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。              モヨリ神父
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