カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第八主日

2011年02月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「あなたの祈りを邪魔されることがあっても、笑顔で受け入れてください。それを神様に捧げてください。」
聖フランシスコ・サレジオ
春の暖かさは、一進一退しながらやってくるのが常です。立春を過ぎてからの寒さを「春寒」(はるさむ)あるいは「余寒」(よかん)と言う季題を用いて俳句に詠みます。どちらも同じものですが、言葉から受ける感じがおのずから違います。「春寒」の一語には春に心を寄せたところがあります。
さて、聖書の言葉は神様の言葉、み言葉とも言われていますが、私たちの心の中にしみ込んで永く残ります。香りのある花で部屋を飾つたとき、花がなくなってもその香りが残ることがあり、美味しい料理を食べたあとで、その香り、その味が口の中、又周囲に残ることもあります。では神様の言葉のことですが、それを耳にした時、それを心に受け入れて、自分の思いにしみ込んで身につけてしまえたら、簡単に忘れることは出来なくなると思います。永く、いつまでもそれは自分の中に残ります。さて、先週の日曜日にイエス様が愛について話してくださった所も、心から簡単に消し去ることは出来ないと思います。神様は皆を愛しておられます。神様のことを知らない人でさえも愛しておられます。それで私たちに、敵までも愛するように勧められます。愛すること、愛されることは人生の一番素晴らしい目標だと思います。それは人生を満たします。愛によって人は幸せになります。愛は人間の心の欠かせない喜びです。このような素晴らしいメッセージを語ってくださるそのみ言葉は、簡単に心から消え去ることは出来ません。是非、神様の言葉を心の中に残し、留め、味わって生きて欲しいと思います。
マタイによる福音書 6・24-34
預言者イザヤの書では、神様が人類を産んだ母親のように描かれています。主に見捨てられたと感じる時もこの神様への信仰をもって生きるべきです。人は一生懸命に働く時に、神様と一緒にこの世を創造し続けて、神様から与えられた役割を果たせるようになります。だから当福音書の中に、イエス様が強調されたのは、この世の物理的なものに心を奪われないようにということです。人間にはまず心の自由、神の国の正義のような言葉より、大切なことが沢山あります。典礼の祈りの中で、教会は神様に向かって、自己中心的な行動と思いから解放されるように願っています。同じようなことが当福音書にも願われています。人は普通、いろんなことを心配しています。心配し過ぎると不信仰を表し、人生の不適切な考え方も起きてきます。特に財産を貯め込んだり、未来についてまた、現在の日常生活についても無事に過ごせるかどうかと無駄に心配することです。キリスト信者は未来について、又日常生活、財産などについて心配し思い悩むことはありません。自分に必要なことは神様が全て備えてくださいます。神様は大自然の花、空の鳥も大切にして、それを養っておられます、まして人間を大事になさらないことがあるでしょうか。今日の福音書の中心になる言葉は、心配しないように、と同時に一生懸命努力して神様の協力者として生きるようにとの教えてす。イエス様の時代に奴隷は、同時に二人の主人に属する場合もありました。しかし、それによっていくつかの問題が生じていたことも事実でした。イエス様がその制度に例えて、富と主人とに同時に仕えることは出来ないと教えられています。富は人間の心を奪い、絶対的な存在になりがちで、それだけが人間の人生の目標になってしまうこともあります。神様に造られた人間は神様に属するものですから、富は身を縛る鎖になるばかりなので、神様から奪い取られるのです。神様を選んだキリスト信者はなにも心配せず、心の平和を味わいながら、神様と一緒に働き、自分のことも、隣人のことも大切にすべきです。

モヨリ神父                                    

毎週の一言 A年 年間第七主日

2011年02月18日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「仕事をするにあたっては、成果を気にして不安になるほど執着してはなりません。
成功は神のみ手にゆだねましょう。」聖フランシスコ・サレシオ

このごろ気象台で「煙霧」(えんむ)が観測される日が多くなっています。煙霧とは遠くの景色が白くかすんで見えるなど見通しが悪く、その原因が大気中に漂うちりやほこりである場合をいいます。春は空気が乾燥することが多く、ちりやほこりが舞いやすいので、煙霧が現れることが多くなります。しかし、ひと雨降れば、ちりなどが洗い流され、くっきりとした景色が戻って来ます。
さて、主の祈りをよく唱えるキリスト信者たちは、主の祈りの様々な文書の意味を理解しにくい時もあります。たとえば「み名が聖とされますように」と祈ると、実際にどのようなことを願うことになるのか、すぐには言いにくいと思います。まず、聖書と祈祷文の中で、文章が受身形になる時に主役になるのは、神様自身です。だから神様自身が自分の名前を聖なるものとします。神様の名前とはオリーブ山でモーセに教えられた名前でした。それは「わたしはある」と言う表現で、神様は自分が人々の日常生活の中に溶け込んで、働いて、人間と一緒に喜び、悲しんでおられると言うことを伝えたかったのです。そして「聖とされる」と言うのは生き生きとする、躍動する、燃え立たせることを示しています。だから、祈りの言葉を一つ一つ分析してまとめれば、祈りの内容が豊かに現れてきます。「神様、人間である私たちの間に、というよりむしろ、私たちの心の中に神様を生き生きとした存在にしながら、私たちを支え、豊かなあなたの命と力を与え、命の尊さをたっぷり味わわせてください」と言う内容になります。是非このような思いの中で、主の祈りを唱え、命である神様の心に向かい、大きな信頼を持って神様の助けと安らぎを求め、得られますように。
マタイによる福音書5・38-48 (黄金の法)
イエス様は新しく、人生の過ごし方を考える方法を勧めてこられました。場合によっては正直な考えよりも、革命的な行動と思いも勧め、そのように自分の弟子にも生きるように教えました。イエス様はいつも自分の思いや話に父である神様の姿を基本にして話しました。それでイエス様は、弟子にも「神様が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と呼びかけられました。当福音書では、イエス様が山上の話を続けています。特別に隣人の愛によって仕返しの法を廃止して、その古い考え方を乗り越えるように教えています。それを乗り越える為に欠かせない理由があります。「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからである。」つまり、神様が皆を大きな慈しみと愛で包んでいます。イエス様の時代に「目には目を」「歯には歯を」と言う原始的な法律がありましたが、しかし、イエス様は完全にこの法をも廃止し、それを乗り越えようとします。実際にイエス様の時代、頬を人が打つことはとても屈辱的な行動でした、それを帳消しにするためには多大な金額が必要でした。しかしイエス様がおっしゃるのは、右の頬を打たれた弟子は仕返しを求めず、左の頬も見せなければなりません。イエス様自身もカイファの裁判所の兵士に打たれた時にとても優しく、憐れみ深く、反感を持たず答えました。そして、当時、敵を憎むこと、敵と戦うことは当たり前のことでした、なぜなら、イスラエルの敵は神様の敵だと考えられているからです。     しかしイエス様は、当時の法律ではなく、模範として神様の思いとやり方(完全な)に基づいて、それに従って真似をするように勧めています。イエス様に従った弟子は、人の中にイエス様の姿をみいだし、イエス様と同じように考え、同じように行い、心から人や敵を愛します。これがキリスト教の「黄金の法」です。                                                                     
     モヨリ神父
 ※「新 くまもと歳時記・編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

毎週の一言 A年 年間第六主日

2011年02月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様を愛される皆様へ

「人間にとって最高の幸せは、ただ神様の為だけに生き、働き、喜ぶことです。」聖フランシスコ・サレジオ

此の文章のためにいつも参考にしている「くまもと歳時記」に「踏み絵」「絵踏み」が季語として取り上げられているのを発見して、少し不思議に感じました。踏み絵はキリシタン信者でないことの証や転宗を確かめるために、聖母マリアやキリストの絵像を跣で踏ませることです。また、この絵を踏み絵といいます。江戸時代、旧暦一月四日ごろから三月にかけて行われていました。天草の本渡にある切支丹館には、天草四郎陣中旗や十字架とともに踏み絵が陳列されています。
さて、わたし達の目の前によくあらわれる文字があります。しかし、それが完全な意味を発揮するのは難しい時がすくなくありません。それは「聖」です。読み方もさまざまで「ひじり、せい、しょう.・・・」などです。どんな宗教の中でも使われているし、特別にキリスト教では専門用語になっています。聖書には聖と言う字は8〇〇回以上記されています。聖書によると聖なるものはまず、神様です。神様がおられる場所、山、祭壇、聖堂。神様に関係するもの、神様とかかわる人間も、聖と言われます。たとえば、聖堂、聖書、聖人…などです。しかしこの文字の意味を聖書を通して分析すると、「命」と意味づけられます。さて、具体的にそれを確かめてみましょう。「聖」の反対語は汚れと俗です。旧約の時代、汚れた者は重い皮膚病を患っている人でした。イエス様の時代の初めにも、死んだ者として扱われていました。しかし、イエス様の奇跡的な力によって、清い者とされて生きるようになりました。命を与えるのは神様だけです。つまり神様から命をいただく者は神様の前で聖なる者になるのです。聖なる者はまず、生ける神です。命を与える神、永久に生きる神なのです。死に勝って、復活されたイエス様は、いと高き聖なるものです。イエス様の為に命を捧げた殉教者も聖なる者として永遠に生きるのです。イエス様と同じように生きた者、イエス様と一緒に死んで復活された者は聖人として、命を与える者になります。このように生き生きとした者の命が、神様を誉めたたえています。
マタイによる福音 5・17-37
イエス様は旧約聖書から受け継がれた大切なところを評価されて、それを乗り越えて、場合によって廃止する時もあります。イエス様だけが、旧約聖書の言葉を信仰の深みで理解することが出来ました。しかし「私が言う」という表現に、イエス様の新しい心のメッセージや教えの権威もすべて含まれています。イエス様はファリザイ派の人たちと違って、言葉の数に頼らず、自分自身の中に権威を定められたことを示しました。実際に皆がイエス様の権威のある教えに対して驚きました。なぜなら、旧約聖書で教えられたことを遥かに超えていたからです。当福音書では四つのテーマ(殺意,姦淫、離婚、誓い)について旧約聖書の細かい教えを述べながら、「しかし私が言う」とそれを乗り越えた新しく素晴らしいメッセージを述べています。イエス様は、預言と法律を完成する為にこの世に来られたことを宣言しました。「完成」の具体的な意味は、完全に守ること、完成すること、実現することだと示しています、しかしよく見てみれば完全に守ることは、おそらく、イエス様の思いに含まれていないことでした。実際に福音書では、イエス様が安息日の法を守らない時があったり、弟子たちと断食を守らないで、弟子たちにもそうするように教えたり、清めのしきたりをも守らないようにしました。だから旧約聖書を完成するには、イエス様にとって、言葉通り完全に守ることではなく、イエス様の心の教えの通り、その言葉を新たにみられるようにするのです。イエス様がこの世に来られたのは、預言者たちが希望したことを満たすためです。つまり、それは愛の法を教えながら、新しい法、石の上に書いたものではなく、神様につながる法であり、人間の心の中に置かれた法なのです。                    モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用


毎週の一言 A年 年間第五主日

2011年02月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「神の奉仕に身を捧げる人は何と幸いでしょう。
神の為に行う業は全て、この世においても、来世においても、十分に報いられます。」 
聖フランシスコ・サレジオ

水仙は地中海沿岸原産で、古くに中国経由で渡来したとされています。湯暖な海岸に育つことが多く、有明海や天草の沿岸、傾斜地では新春のころから一斉に花を吹かせ、冬の風景の彩りとなっています。鉢植えや庭植えでも楽しめる冬場を代表する花です。
さて、6日・日曜日のミサの中で、ルルドの聖母の出現150周年を思い起こし、マリア様にみんなで心から深い愛情を示しながら、マリア様への祈りを捧げたいと思います。そして、ひとりひとりが小さな一輪の花を持って来て、マリア様の祝日を祝いたいと思います。また当日は、「世界病者の日」にもあたっていますから、洗礼を受けられた皆さんに病者の秘蹟を授けたいと思います。心だけではなく、体の健康も願って、力強くイエス様に従うものになりたいと思います。イエス様がおっしゃっていることは「わたしに従いたいものは自分の十字架を背負って私に従いなさい」、このような丈夫な体、元気な心で、復活祭までイエス様を身近に感じながら従うようにしましょう。
マタイによる福音書 5・13-1
当福音書はイエス様の宣教や活動に巻き込まれていく弟子たちのあり様とその目標を語っています。イエス様はやさしく、理解しやすいイメージである塩と光を通して、弟子たちに自らの立場や役割も発揮させることにします。最後にイエス様は自分の話を完成するにあたり、弟子たちに向かって「あなた達はこの世のパン種」と宣言しています。つまりこの世を変える、照らす、味をつける力を持っていると述べています。塩、光、パン種と言うのは小さなものですが三つとも共通する特徴があります。それは自分より大きな現実と関わる能力をもっているということです。三つともイエス様が言いたいことを力強く例えています。わずかな塩のひとつまみで多量の料理に味をつけられます。わずかなともし火の光でも部屋中を照らします。ほんの少しのパン種が多量の粉を膨らせて、香りのある大きなパンを焼くことができます。このイメージの中に偉大なメッセージが含まれています。キリスト信者の信仰は、自分の得になったり利益を生むためではなく、むしろキリスト信者の生きた信仰はだれにでも影響を与え、喜びを与え、人を照らし、人を満足させ、欠かせない人生の彩りになります。この話をイエス様は、弟子たちだけではなく全世界の人に向けてしています。イエス様はこのような例えを通して、一つの教えを伝えたいのです。この例えによってイエス様がキリスト信者の信仰の重要さを強調しています。信仰はキリスト信者の人生をまきこんで、キリスト信者の心にしみ込んでいき、思いの基準となり、欠かせない人生の選択の基礎になっています。キリスト信者は自分の力によって、塩、光、パン種になれるのではなく、むしろイエス様の光や力でそうなるのです。弟子がイエス様に従うこと、一致することによってこの世の光になり、人生の意味深い味になっています。イエス様の光の下で歩む人だけがこの世の味になり、この世を照らすことができるのです。
                                    モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」 (熊本日日新聞社)より一部引用