カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第三十一主日

2010年10月29日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「黙想する恵みは、精神の努力によって得るよりも、柔和で愛情深い謙虚によって得られます。」
聖フランシスコ・サレシオ
一年中もっとも夜が長いのは冬至だが、夏の短夜の後だけに秋の夜はめっきり長くなったと感じます。この感覚は古来より日本人にあったようで、既に「万葉集」に秋の夜長を詠んだ歌があります。また江戸時代の書にも同様の記述がみられ、秋の季題として定着しました。この貴重で静かな時間を、人々は読書などで自己を磨いたり夜なべに精をだしたりします。「秋思」は秋のころ心に感じるもののことで、古来「もののあはれは秋こそまされ。」と言い、人生の寂しさ、人生の哀れさに触れることが多い。
さて、「期待する、待つこと」はキリスト信者の日常生活が置かれた状況です。待つ人は自分の平凡な人生の状況を認めて、より大きな喜び、助け、大きな愛情で包まれることを期待しています。キリスト信者は神に愛された方との出会いを待っています。その出会いを憧れて、望んで、そのために心の準備をします。それだけではなく、自分の人生全体を整えて準備します。皆を大切にされた方はイエス様であり、再び迎えに来られる、その到来を待っています。キリスト信者にとって、現在生きる世界は仮に神様から任せられている居場所ですが、喜びの中でずっと、神様と共に生きる時期をも持っています。
ルカによる福音書19・1-10
神様は命を愛し、好まれ、それを欲されたので、この宇宙万物を創造されました。当福音書のエピソードは、生きておられる愛で満ち溢れたイエス様の心を示しています。罪人は神様から愛されて、神様の命によって喜びの中で生きるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3・16.
ザアカイのエピソードは、素朴でありながら、生き生きとした感動的で素晴らしい背景を描いています。従順な人から歓迎される人に、歓迎される人から救われた人に変わります。登場する人物はザアカイで、徴税人であるだけではなく、その役目の頭の任務もしていた者です。最初にザアカイがイエス様を見ようとする目的は、なんとか利益が得られるかもしれないと期待したのです。確かに友情が目的ではなかったのです。しかしザアカイとイエス様が間近になった時に、イエス様がザアカイの方に目を注がれています。その時だけではなく、イエス様がいつも最初に愛する者に目を向けています。弟子になりたかった若者の時も同じだったのですが、その若者が金持だったのでイエス様の誘いを受け入れられなかったのです。反対にザアカイはイエス様の視線に打たれて、イエス様の愛で満ちた誘いの言葉を受け入れています。ザアカイの心はイエス様の温かい眼差しによって変身しています。ザアカイは放蕩息子のたとえ話に出てくる父親と同じように、大きな喜びでイエス様を受け入れています。欠かせない感動的なところは愛で満ちた出会いでした。ザアカイの場合、回心の火(しん)はイエス様との出会いでした。その後、ザアカイは自分の新しい人生の計画を宣べます。(人に…返します)自分の財産を人に施すようになります。イエス様と出会える道は沢山あります。いつもどんな時でも、イエス様がわたし達を探し求めています。わたし達の方も、謙虚に心を開いてイエス様を受け入れることにすれば、イエス様の力でわたし達の人生を素晴らしい出来ごとや大きな喜びで満たすことができるのです。
                                    モヨリ神父

※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社 2007~)より引用



毎週の一言 C年 年間第三十主日

2010年10月21日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「もし自分の望みを神の思いにあわせたくないならば、どのようにして神の子であると誇ることができましょうか。」                            聖フランシスコ・サレシオ
「霜降」旧暦の24節季による10月23日頃、秋が深まり、ところによって霜をみるようになり、冬の気配が感じられます。楓や紅葉が色付始める季節です。さて、厳寒期を除けば蝶はいつでも見られますが、春は優しい紋白蝶、紋黄蝶、夏は華麗な揚羽蝶などが主役で、秋になると小さくて地味なしじみ蝶やせせり蝶などが目につくようになります。因みに蝶は世界各地に分布し約1万5千種、日本では260種ほどです。
さて、自分について話すとき自分ができたことについて自慢する人は、だれにも好まれないと思いますが、そのような態度を持つ人は聖書の中でも神様でさえ好まれないのです。人間が上手く色々できても自分の力でできたことではなく、不思議な神様の支えでできたことですから、それに対して自慢するのは愚かではないでしょうか。だからイエス様は時によって隠れたところで祈るように、断食するように、施しをするように勧めています。隠れたところでなんでも見ておられる神様は、それを評価して報いてくださいます。神様は表面的なことよりも、心の中にある思いや行いを見ておられて、それを特別に好まれます。キリスト信者は自分の人生の中で、数知れない良い行いも成し遂げますが、そのために自慢せず、神様から頂いた恵みに対して努力し、神様に恩返しをしながら生きています。キリスト信者は自分の弱さを認め、神様の赦しを絶えず願い、自分が成し得た僅かなことに対して自慢せず、神様を誉めたたえます。
ルカによる福音書18・9-14
当福音書ではイエス様が相手を裁かない、戒めない(特にルカ6―42)と伝えながら他の話につないで、兄弟の欠点を強調しないように注意しています。イエス様は言葉じりを捉えるのではなく、いつも自分の聞き手に向かって、はっきり明言した話し方をしていました。また、イエス様の言葉の中には、秘められた悲しみも含まれています。さて、福音書が語っているエピソードで、イエス様がファリザイ派の人との根本的に違った考え方を示しています。すでに旧約聖書でも、神様の前で自分の正義を自慢し、間違っている他人を見下して批判したファリザイ派の人たちが忘れていた注意でした。いくつかのところで(ヨブ記、詩編などで)自分を自慢しないように勧めながら、人間は神様に対して自慢できるものはなく、欠点をこそ持っているものだと教えられています。同時に旧約聖書では、隣人を軽蔑しないように強く注意します。そのような心を持った人は神様から離れ去り、愚かな考えをもち、罪を犯しています。イエス様が語られたエピソードの中に登場するファリザイ派の人は、イエス様の言葉から離れて、大きな自己満足と間違ったプライドをもっているので、それに気付きません。反対にファリザイ派の人と一緒に祈る為に神殿に上がった罪人は、神様に対して自分が欠点だらけのものだと認識しています。自分の具体的な有り様を実感しないと、自分のことを自慢して人を見下してしまいます。反対に罪人は自分のことを神様にゆだねています。罪人は深く自分の罪を認識して、神様の心に届く祈りを祈っています。旧約聖書の中の、ダビデ王と同じ祈りです。だからイエス様が語られたたとえ話は、キリスト信者にとって、具体的な日常の公教要理になっています。初代キリスト信者の共同体から近代に至るまで、わたしたちキリスト信者は、このようなイエス様のたとえ話を参考にして、お互いに赦し合い慈しみの中で支え合っているのです。
                               モヨリ神父

※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社 2007~)よ

毎週の一言 C年 年間第二十九主日

2010年10月14日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「偉大で強大な計画を立てる人よりも、苦しみを平静に耐える人を尊敬します。」
                              聖フランシスコ・サレシオ
深まりゆく秋の山道を歩いていると、褐色の毬栗(いがぐり)と出くわすことがあります。風でおちたのか、山の日の重みに耐えかねたのか。毬の裂け目から黒褐色に光る実をのぞかせています。栗は焼いたり蒸したりして食べます。和菓子や洋菓子にもよく用いられています。また、稲田は稲を植えてある田のことだが、季語では稲が実り、黄金色に輝く田のことです。「稲」も成長期の青い稲ではなく,穂や葉が黄金色になり、収穫できるように実ったものを指します。山里の美しい稲田は、米を主食とする日本人の原風景となって心の奥深くに住みついています。
さて、本来ひとにしつこくものを頼むのは失礼なことなのですが、しかし時によって一生懸命に願うことはその必要性、その欠かせない希望、願うことに対する愛着を示しています。このような思いの中でキリスト信者の祈り方を考えたいと思います。イエス様に従うもの達は、いつも祈るようにイエス様に勧められています。祈りの内容とその方法もイエス様に指導されています。しつこく頼めば神様が叶えてくださることよりも、まずイエス様はお父さんのようにわたし達を愛してくださる神様の姿を見せてくださいます。わたし達には必要なこと、良いことを何でも知っておられる神様が、いつもそれを願う前に与えてくださいます。「主の祈り」はわたし達に祈りの完全な内容を教えてくださいます。イエス様は子供として神様のものですから、いつでも神様に向かって絶えず祈るように勧めてくださいます。確かに神様はその祈りを聞いてくださり、いつもそれを叶えてくださいます。わたし達の思い通りではなく、いつもわたし達のための良い方を叶えて、むしろわたし達の心や思いに欠かせない指導をされる聖霊を与えてくださいます。
ルカによる福音書18・1-8
当福音書で注目すべきところは二つあります。まず不正な裁判官と父である神様のやり方の比較です。次にイエス様に従うもの達の絶えず一所懸命に祈る方法とその目的です。日曜日に福音書を読む時に、いつも必要なのは二つの観点です。イエス様が生きておられた時のエピソードとその出来事が、初代キリスト信者の共同体にどのように受けとめられて解釈されたのかです。昔のイスラエルの社会の中で一番身分の低いものは未亡人、孤児と異邦人でした。旧約聖書では神様がこのようなもの達を特別に大切にします。そして良いイスラエル人もこのようなもの達を大切にし、収穫の時にも田圃に収穫の一部をこの弱いもの達の為に残していました。そして貧しい人に対して、未亡人に対しても法律によるよりも特別な扱い方が勧められています。しかし福音書の中に登場する裁判官はこのような心を持たず、未亡人からしつこく願われています。キリス信者は不正な裁判官ではなく、いつも皆に心を掛けてくださる父である神様に向かって、絶えず一所懸命に祈るようにします。絶えず願うことによって、不正な裁判官でさえ、応えることが出来ました。それよりも、一人一人を大切にしてくださる慈しみ深く憐れみ深い神様が、心から願えば必ず応えてくださいます。一所懸命に願う人に神様が特別に救いを与えてくださいます。絶えず願い続けなければなりません。イエス様も最後までそれを頼み願う人がいるかどうか大きな希望を表しています。キリスト信者もあらゆる願い事のために祈っています。しかし、一番大切なのは自分の最終的な救いです、または人生に一番欠かせない事の為に願うことです。それを人は忘れてしまうことがあります。
                            モヨリ神父
※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社 2007~)より一部引用


毎週の一言 C年 年間第二十八主日

2010年10月08日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「いつも親切と愛情をもって隣人と付き合うようにしなさい。」聖フランシスコ・サレシオ

10月8日は「寒露」、秋の山野に宿る露の意味で朝夕に寒気を感じ始めます。五穀の収穫もたけなわで、雁が渡り、菊が咲きます。また薄(すすき)は山野に自生するイネ科の多年草で、秋の七草の一つです。古い名はカヤで、この葉や茎が茅葺き屋根の材料となっています。秋、茎先に花穂を出すがこれを尾花といいます、それが光りなびく様は荘観です。
さてキリスト信者はいつも欠かせない大きな感謝の心を味わいながら過ごしています。神様に対して、また神様の姿を示す周囲にいる人に対してもいつも大きな感謝をもっています。それを表す方法は様々で、感謝の心はいくつもの理由から発生します。まず神様からいただいた命、この心と体、そして大きな喜びのため、それは神秘的に洗礼の儀式に認められた信仰を下さったことのためです。このような贈り物によってキリスト信者の人生は豊になって大きな感謝の心を持っています。それに従って、その感謝の心は大きな喜び、心の平和で明確にされています。神様にどのような恩返しをすればよいかキリスト信者が考えるよりもまず、大きな贈り物を与えてくださった方に賛美を、そしてその贈り物を受け入れながら大切にし、自分の身を小さくして深く頭を下れるしかありません。そしてキリスト信者は自分の毎日の務め、良い行いを重ねることによっても神様に普遍的な感謝の心を表します。
ルカによる福音書17・11-19
人間にとって神様に感謝の心を表すのは大変限られた経験です。たとえば聖書の詩編の中でも、嘆きの詩編、願いの詩編は感謝を表す詩編より多いのです。だから当日曜日の典礼が強調しているのは神様が今の命と普遍的な命の泉であり、わたし達のありのままの与え主であるということです。当福音書では癒された皮膚病を患って癒していただいた十人の中で、一人だけが感謝を表しに戻ってきましたが、他の九人は定められた法律によって癒されたと思い、イエス様に感謝の心を表しませんでした。当福音書の物語の形を良く見てみると、まず大きな背景から=サマリアとガリラヤを出発し、その後、ある村の中で、次に皮膚病を患っている十人、最後にその中の一人が感謝を表したサマリア人です=だから当福音書は決意をもって自分の使命を果たそうとエルサレムに進んでいるイエス様が、このような感謝を表すサマリア人を伴っています。ギリシャ語では(救い)も(癒し)も同じ単語で表現されています。だからイエス様が人類の救いにエルサレムへ向かおうとしているのも具体的にそのためで、癒されたサマリア人がその救いの為に感謝を表していす。イエス様の勧めを通して祭司たちの所に行った他の九人の病人も癒されました。実は苦痛や病気も人を平等にします。しかし、その中でイエス様の時代にサマリア人は明らかに差別を受けた者で、皮膚病によって汚れた者、死に定められた者でした。イエス様がその病人を祭司のところに行かせて癒すことによって命を与え蘇らせています。そのサマリア人の中の一人だけがイエス様の元の救いであり、イエス様の言葉と働きによって癒されて信じた一人だけが、イエス様の力、その心を信じた一人だけが、大きな喜びの中で感謝し、その喜びを表しました。
                                 モヨリ神父

※『新 熊本歳時記 編集委員会編』(熊本日日新聞社 2007~)より一部引用


毎週の一言 C年 年間第二十七主日

2010年10月01日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「神を心から愛しているあなたなら、心の中でたびたび神様に語りかけていることがあるでしょう。」
聖フランシスコ・サレシオ

旧暦八月十五夜の中秋の満月を特に名月と言うのは、この時期の大気が澄明で月光がひときわ冴えるからです。明月、望月、良夜、十五夜などと、また曇って月が出ないと無月、雨の場合は雨月などと言って昔から俳句などにうたわれてきました。芋名月とも言いますが、これはこの日が初穂祭に当たることに由来しており、農耕や信仰と深く関係していることを物語っています。
さて、キリスト信者も自分の人生の間に良いことをするように努めていますが、それによって救いが得られるわけではありません。良いことをし、一所懸命に生き、立派な行ないをしながら、輝いている自分の役割を果たす目標は、まず神様に感謝するためです。神様からいただい命、恵み、喜びは数知れないほどありますから、それに感謝の心をもって、いろんな方法で恩を返すように生きています。そして神様の僕(しもべ)として、神様から任せられた役目を積極的に果たすように努めています。キリスト信者はその目標を果たす為に一所懸命に生きるのです。それでキリスト信者は良いことを沢山したからと言って、神様から特別な、評価、報い、名誉などが得られるのではなく、忠実な僕として自分に任せられた義務を果たさなければならないと思い、神様に人生の一瞬々をささげているのです。そしてその後に、イエス様が勧められたように「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うのです。
ルカによる福音書 17・5-10
当福音書は人の信仰に注目しています。イエス様は自分の言葉を実行するために信仰を持って生きるように勧めます。ほんの少しの信仰さえあれば、根の生えた木さえ海に行かせることができるとイエス様が強調します。それに従ってイエス様がこのように行いよりも信仰に注目されます。イエス様から語られた例えは比較的な話で、聞き手は自分の心の中で結論をひきだすように勧められています。僕らしく生きてきた僕は、自分がしなければならないことをしたのですから、特別な賞を得られるはずはありません。むしろ自分らしく生きてきたといって満足するべきだとイエス様がおっしゃいます。僕にとってまず自分の主人を信じて、それに忠実にするのは一番ですが、次にその役目の通りに生きるのは当たり前なのだと考えています。キリスト信者は神様に対して同じような心をもっています。良い、忠実な僕のように感謝の心で、神様に昼も夜も使えています。その後「取るに足りない僕だ」という表現は、上記のような心を示しています。信仰を持った人は神様を主人のように愛し忠実に生き、しなければならないことを果たして、謙虚に努めています。自分の行いの善さを通して神様の報いを得るのではなく、神様に対する愛や忠実な生き方で、神様の報いが得られます。神様ご自身がわたし達のことを思い、大きな愛情で包んでくださり、願ったこと以上に報いてくださいます。良い僕は給料を得るためではなく、主人を喜ばせるために努めています。キリスト信者は同じように神様の心を信じて神様の思い通りに、神様に心をあわせて忠実に生きています。
                                   モヨリ神父

※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社、2007~)より一部引用。