カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

「今週の公教要理の錠剤」6

2011年12月30日 | メッセージ(その他)
B年 神の母の主日        

「イエス様と教会」

イエス様が人類の間に生まれられて、行い、奇跡、言葉を通して神様の姿、その普遍的な愛を語ってくださいました。その時、その宝、その光を受け継ぐ者たちも捜して選びました。神様が当時のいろんな民族からイスラエルの12部族を選ばれたように、イエス様が普通の労働者から12人を選んで使徒として自分に従うように、自分の教え、そして神様の愛を世界に広める為に誘いました。選ばれた弟子たちは、たびたびイエス様とまったく同じように行い、話すように、命じられ、その通りに生きていきました。後に処刑された時も、弟子たちはイエス様と同じように命を捧げて「福音」の証となりました。その素朴な普通の人たち、弟子になった人たちから教会が生まれました。そして少しずつ世界中に広がりながら、教会の構成が始まって、全世界に広がる形になりました。教会の中心はイエス様ご自身であり、イエス様が任命された者たちから始まってイエス様に従う者たちまで、又イエス様の言葉を受け入れた人々によって造られています。教会の形はイエス様ご自身が具体的に紹介してくださいました。「二人、三人が私の名前で集まれば、私はそこにいる。」さて、教会はイエス様の名による人々の集まりであり、その目的はイエス様が話されたたこと、行われたことを大切にして、時代を通して世界中に神様の心を述べ伝えていくのです。それだけではなく、イエス様ご自身から特別に与えられた権利によって、教会はイエス様ご自身の体であり、イエス様が再び来られるまで、死と復活を記念します。教会はイエス様に従った者たちの交わりと祈りの中に生き続けて、全世界に神様の大きな光をいろんな人々の上に照らしています。教会の心はイエス様の言葉と行いと共に、迫害にも耐えてきた使徒たちの伝承です。つまりイエス様の元で育まれた弟子たちの教えと導きです。イエス様の弟子たちもイエス様と同じように生き、教会の心を守りながら自分の命を捧げて、イエス様の証となりました。
                              モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」5

2011年12月23日 | メッセージ(その他)
B年 降誕祭の主日

「救いの歴史」
救いの歴史と言っても、すぐに理解しやすいことではありません。頭にいくつかの疑問が浮かんできます。それはいつ始まったのか、いつ終わるのかなどを考えても簡単には答えにくいと思います。しかし、このような言葉について良い事を教えてあげたいと思います。まず救いの歴史とは、神様の救いの計画の思いに深く結びついています。神様による人間のための救いの歴史が始まったのは、人間が創造された時からです。その時に神様は、人間を自由に動き考えられるように創造され、いつもご自分の愛を見せながらずっと歴史を渡っていろんな方法で人間を追いかけて来られました。さて私達の身近な経験を考えてみれば、生まれた時から神様が私たちを大きな愛で包んでくださっていました。私たちの事を誰かに(親に)認められて生きてほしいと思われたので、私たちは親を通して命の贈り物を頂いて神様の愛の中で生きるようになりました。それで自由に生まれてきた私たちに、救いの歴史が始まり、私たちの人生が神様の思いの計画の中で流れるようになりました。私たちに親を通して尊い命を与えてくださった神様は、私たちのより素晴らしい喜びと幸せを求められました。しかし自由に生まれた私たちは、勝手な考えによって神様から離れたり、つまらない喜びや安易な幸せのところまで走ったり、孤独や悲しみに陥りました。(つまり:罪を犯しました)神様はご自分の愛の計画の中で、ずっとひとり一人の救いを求めながら、聖書のみ言葉を通して、また愛情に満ちた周囲に居る者たちの言葉を通して、人間の心に呼びかけてひとり一人の救いをいつも求めておられました。イエス様自身、その神様の思いを十字架に死ぬほどに明らかにされ、復活によってこのような愛で満ちた神様の心の計画を打ち明けられました。このように神様が人類の救いの計画を立てて、皆の救いの歴史を作られたのです。
                                 モヨリ神父



「今週の公教要理の錠剤」4

2011年12月15日 | メッセージ(その他)
B年 待降節第四主日      2011・12・18

「神の啓示」
神様は時代を通して、時によってご自分の姿を人類に現してくださいました。そのようにされた神様の働きは旧約聖書に書かれています。人間にとってご自分の姿を現そうとされている、まったく知らない神様とその心と思いを理解して受け入れるのは簡単ではなく、一回で出来ることではありません。それで人間は少しずつ、徐々に時代と出来ごとを通して時間をかけて受け入れたのです。人類に神様の姿とその心を紹介したのは、主に昔の預言者たちでした。けれどもそれだけではなく、身近に神様を経験したアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなども神様の正体を少しずつ人類に知らせるようにしました。複数の神々の姿から、本当の神様が唯一であることを理解した者たちに、神様はご自分の救いの計画を明らかにされました。さて、歴史を通して神様がご自分の姿、ご自分の思い、人類の救いの計画を明らかにされた手段を、神様の啓示と言います。つまり、神様が不思議な方法で自分自身のことを人類に打ち明けられたのです。歴史を通して度々示された神様の姿は、確かに啓示でありながら、人類に明らかにされていなかったことも多かったのです。それで人類は素直に自分の心と愛を示す神様を、素直に、快く受け入れられず理解しなかった時期も永かったのです。それでイエス様ご自身が来られた時に、神の子としてこの世に派遣されて、真実で、唯一である神様を完全に啓示してくださいました。 また馬小屋でお生まれになることによって、イエス様が小さい者や弱い者を好む神様の姿を教えてくださいました。病人を癒して、罪人を赦して、慈しみのある神様の心を見せてくださいました。そしてイエス様が十字架に付けられて死んでくださったことで、神様はそれ以上ない、普遍的な愛である神様を語ってくださいました。その上、イエス様が復活されたことによって、イエス様が話してくださった神様、そしてその述べられたみ言葉は、本当の神様の真実であるみ言葉であることを明らかにされました。
                                モヨリ神父


「今週の公教要理の錠剤」3

2011年12月08日 | メッセージ(その他)
B年 待降節第三主日
「神」
「神」というのは何と不思議な言葉でしょう。「神」と言ってもはっきりしないと思います。実際にどのような事実を示しているのかは皆にとってピンと来ないと思います。確かに「神」と言う言葉は使う人によって違う意味になり、神様の姿がそれぞれの人の文化、国との違いによって変わってくると思います。それはどうしてかと言えば、いくつかの理由があり、神様を探し求める人間が、いつでもその出会いを果たすという事ではないと思います。ほとんどの人は「神」と言うと確かに神秘的な存在を思いながら、身近に感じる世界や自然に隠されてある不思議な力だと思っています。無神論者や神様の姿がどういうものであるか知らない人でも「神」と言う言葉を使うと、自分の心の中に神様のイメージを作って「神」と言う言葉を発言します。彼らにとっても欠かせない存在であり、神様の世界は深く人間には届くことができないものだということは明らかです。場合によって神様は遠くて、人間の敵、怖いものとしても受け取られています。しかし、イエス様を信じて従う者たちは見事に神様の姿、神様の心を知るようになりました。まず私たちに神様の姿、神様の心を現したのはイエス様ご自身です。言葉、行い、奇跡を通して話してくださいましたが、特別にイエス様は十字架にかけられて死んで、私たちに神様の愛の最高の印を示してくださいました。人間はイエス様の死に方によって、神様は愛であることを覚えました。イエス様は神の子として人類の間に、馬小屋の中でお生まれになり、私達と同じように生活し私達に神様の愛、神様の心、その慈しみと憐れみを教えてくださいました。キリスト信者にとって「神」と言う不思議な言葉を使う時には、唯一の意味だけを思っています。イエス様が教えられた神様の姿です。その神様を父と子と聖霊と呼ぶ私達と共にいつまでもおられます。お父さんのように愛して、子供のように小さいものとして私達の人生を分かち合って、良いことのある所に宿られています.
                                モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」2

2011年12月01日 | メッセージ(その他)
B年 待降節第二主日        

「宗教心」
どんな人間にも、意識するしないにかかわらず神様か神秘的な世界につながる思いがあると思います。意識しなくても人間はこの世の美しさに感動し、出来事や自然現象に驚き、苦しい時に自分の心の中に「どうして・・・」と深く問いかけています。その時に神様が私達の心のドアをたたきます。そしてそのドアを開けるように願い、より深い私達との出会いを求めています。より大きな喜びや幸福を探し求める人間は、神様に心のドアを開けば希望した幸福を得られます。しかし人間の心の希望に応えるには、確かにいろんな宗教があります。どれが一番よいのか、現在の人間にとって大きな課題です。さまざまな宗教があります。そのどれもが幸福を望む人間に上手に応えるようにしようと思いますが、そうならない時もあります。実際に人間には、何が必要なのでしょうか。本当の神を知ること、それを信じること、それを愛すること。文化や伝統、教育の違いによって、普通は自分が選んでいない宗教の中で育ってきて、教えられたことに対して信仰を持つことにすれば、幸福を得る道をたどることが出来ますか。キリスト信者は聖書の中に記されたイエス様の言葉を信じて、神様の姿を知るようになりました。むしろイエス様を信じることによって、神様自身がご自分の心や思いも人間に明らかにし、知らせることにしました。キリスト信者にとって神様を知ること、神様を信じることは神様を愛することです。十字架に付けられて死ぬほどに愛されたキリスト信者は、神様に自分の人生を全て捧げます。神様の思いの中で生き、生活を送っています。そしてイエス様の姿を見せてくださる、むしろイエス様自身である隣人を特別に心から自分のように愛しています。イエス様に出会った者は自分の宗教心のドアをたたいた神様にその心を開いて、自分の人生の中に神様を受け入れて、生まれたときから希望していた幸福を大きな喜びの中で得ることになります。
                          モヨリ神父