カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 年間第4主日

2017年01月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
 
 人間の心を良く知っておられたイエス様は、人間が自分の人生の間に、幸せになることだけを捜し求めていることを受け止められました。イエス様は山上からその道を、新しい指導者としてモーセのようにお話しになり、わたし達にも幸せになる方法を教えてくださいました。幸せになるために一所懸命頑張るという行動ではなく、目が覚めて、つまり気付いて、イエス様の言葉を信じることによって、わたし達はほんとうはすでにもう幸せであることに気付くのです。貧しい時、泣く時、平和を求める時、そして皆に疎外される時に、寂しい時にも、わたし達はその時々に幸せです。その時こそ、神様が慰めてくださるからです。その時に特別に神様をみることができます。その時に神様が大きな報いを準備してくださいます。イエス様が述べ伝えてくださる幸せは、辛い時に自分の心の中に湧き上がり、それを自分の人生の中に見出すことができれば、幸せであることを実感することが出来ます。山上からイエス様は弟子達に、幸せになる道を力強く教え、弱っている大勢の群集に救いの道を述べ伝えました。幸せになりたくてたまらないわたし達にとって、このようなイエス様の話は、人生の参考に、いえむしろ人生の土台になるのではないでしょうか。
「マタイによる福音書 5・1-12」
旧約聖書では、幸せな人は神様によって解放された者です。奴隷から開放された者だけではなく、神様の掟を守ることによっても悪から解放されています。知恵によって暗闇から解放された者も示されています。 新約聖書では、永遠の命を希望するキリスト信者は幸いな者だと定められています。実は、本当の幸せな人はイエス様と一致した者です。なぜならイエス様自身が貧しい人、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人だからです。生きている間に、キリスト信者が苦しい状況の中に置かれていたとしても、同時に、神様から未来を約束され、永遠の喜びを味わうことができます。このようなイエス様の幸いの話を理解するために、み言葉を鏡に写すように見てみれば、その深さを発見することが出来ます。最初4行の文章は次の4行の文章を反映しています。又、第1の2行は第5の2行と相対し、第2は第6に相対してその後も同じように続きます、このようにして、大いに深い意味も浮かび上がって来ます。山上の話を通してイエス様が、新しい福音を告げ知らせています。イエス様が教えられる救いは、積極的に信仰を守るところから始まります。心の貧しい人と慈しみのある人とのつながりは深いのです。むしろ、貧しい人は慈しみの心をもっています。同じように人生の中で苦しんだ人は清い心の人になり、自分の人生の中で神様を見ることができます。確かに平和を求める人は柔和な心をもっています。正義のために苦しんだ人だけがそれを強く求めています。イエス様が山上の話の時に、人を自分に従うだけではなく、自分のように生きるように、自分といつでも同じ様になるように勧めています。だからキリスト信者はイエス様のように、貧しく、イエス様のように苦しみ、イエス様のように清い心で、柔和で、正義を探し求めています。それに、イエス様のようにイエス様の名によって迫害されることもあります。                      モヨリ神父


A年 年間第3主日

2017年01月19日 | 神父様からメッセージ(A年)

        
 今週は教会の伝統により、キリスト教一致祈祷週間にあたり、全世界のキリスト信者の宗派が一つになるように祈ります。イエス様は一つの教会を望んでおられたのに、現在でもイエス様に従うものの中で分裂があったり、いくつもの宗派に分かれています。できるだけこの一週間は大きな夢を持ってイエス様が希望された唯一の教会のために祈りたいと思います。確かに歴史の中のいろんな面や出来事によって、教会の罪、教会の欠点があり、キリスト信者の間の分裂のもとになりました。けれども憐れみの心をもったイエス様を見習って、神様に赦されたように赦し合いながら、キリスト信者はいつでもイエス様が望まれた教会を創るように努めましょう。

「マタイによる福音書4章12-23」
 ミサを立てる時、一年中いつもイエス様の神秘をお祝いし、記念することになっています。典礼には、これからイエス様の公生活が始まる物語が朗読されています。実際に降誕祭の時に宣言された出来事が「暗闇の中で大きな光が現れた」と実現しています。イエス様が始められる公活動は、都であったエルサレムからではなく、そこからはずれで貧しいところであるガリラヤからです。預言者が告げた通りに、イエス様はこのような素朴なところから自分の活動を始められます。そのような暗いところにイエス様が光として来られ、暗闇の中におかれていた庶民が照らされています。イエス様が最初に洗礼者ヨハネと同じように、人生の心構えとして人々に回心するように呼びかけています。その回心の内容は、少しつつ自分の中にイエス様の姿、イエス様の心と思いをしみ込ませることです。その後、弟子たちの呼びかけは歴史的な出来事でありながら、象徴的な召し出しをも示しています。イエス様がご自分の弟子たちのように皆、どんな人にも自分に従うように呼びかけています。普通の日常生活から呼び出されて、いつも日常生活の歩みの中でイエス様に従うように勧められています。イエス様の人への呼びかけの目的は、自分と一緒に協力者として、人類の救いの為にいつも、どこでも努める者となることです。最後に、イエス様が苦しんでいる人類を癒しています。この時こそ、イエス様は弟子の手本になります。イエス様の弟子の目的は先生の希望を完成するまで勤めることです。イエス様の希望は人間一人一人の、心身の悪からの解放、根本的な救いです。
                               モヨリ神父

A年 年間第2主日

2017年01月09日 | 神父様からメッセージ(A年)

        
 この頃カトリック典礼の色は緑になり、年間の時季にもどります。この季節は、より大切な他の典礼的な季節の準備になります。「準備中」と言いかえればおかしくないと思います。だから、この時季をも大切にしながら、キリスト信者は大きな希望の中で、より重要な時の準備として過ごすべきだと思います。

「ヨハネによる福音書 1・29-34」
 当主日の福音書は、再び洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けることについて語っています。短い個所の中に「見る」と言う単語が5回ほど登場します。中心的なところは、洗礼者ヨハネがこの世で降待祭の時に生まれてきた、メシアであるイエス様を紹介することです。
 実はイエス様の真の姿をヨハネに知らされるのは聖霊です。洗礼者ヨハネは、二回ほどイエス様のことを知らないと言います、なぜなら、イエス様を知らせるのは聖霊の独特な贈り物だからです。神様であるイエス様が僕として神様の栄光を表すもので、洗礼者ヨハネにとって初めて知りえたことです。洗礼者ヨハネが受け入れた光、イエス様を知ることも洗礼を授けることも、神様から命じられたこと、与えられた賜物です。イエス様を知ることは洗礼者ヨハネにとって人間同士の経験だけではなく、イエス様が神様であることも知ることによって、人間が神様の世界に属するものであることも知らされたのです。洗礼者ヨハネのイエス様の紹介の方法によって、洗礼者ヨハネがどのようにイエス様のことを知るようになったかが明らかにされています。神様でありながら、人間としてこの世に来られたイエス様を紹介する表現は次の通りです。「神の羊」「世の罪を取り除く」「私の後から一人の人が来られる」「その方がわたしにまさる」「わたしより先におられた方」「聖霊がこの方の上に留まる」「聖霊によって聖霊を授ける」「神の子」です。このような言葉でイエス様が洗礼者ヨハネに初めて紹介されています。だからイエス様は皆の魅力ある神の羊であり、この世の人類の救い主です。イエス様を通して、神様はこの世の罪を無償で全て赦します。イエス様は人間でありながら神様であり、神様に全て結びついて、この世の根本的な弱さをとりのぞく方なのです 
                               モヨリ神父                                     
           

A年 主の公現の主日

2017年01月02日 | 神父様からメッセージ(A年)

                   
 初詣とは、年の初めに産土神(うぶすなかみ・氏神)や恵方(えほう)に当たる神社仏閣に参詣することで、寺社によっては除夜詣での人が除夜の鐘の鳴り終わるのを境内で待ち、そのままで初詣を済ませているのをみることがあります。
 キリスト信者も神様のみ顔の光に照らされて、世界の平和を願って新年の歩みが始まります。特別にこの時、欠かせない真実を思い起こすべきだと思います。それはみ摂理です。このような言葉は神様の心を現わし、人類のための神様の慈しみを示しています。さてこの年の始まりに、私たちの夢、計画、望みなどを神様のみ摂理にゆだねるようにしましょう。空の鳥を養う神様、田畑の作物を豊かに実らせる神様が、今年も私たちの心の喜びや幸せを求めて導いてくださいます。今日、主の公現の主日を迎えます。イエス様は、全世界の人々に又、神様から遠くいる人々に救いの光として自分が生まれたことを示します。
「使徒パウロのエフェソの教会への手紙3・2-6」
 エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロのまとまった教えを幅広く紹介しながらイエス様と教会との関係について語っています。教会は建物ですが、イエス様の体、イエス様の花嫁とも言われる象徴ですから、キリスト信者になって教会に属す者たちは、それにふさわしい生活を送らなければなりません。当個所で使徒パウロは、自分の使命を強調してエフェソの信徒たちに神様のみ恵みの働きについて語っています。神様の心に秘められた計画が啓示によって明らかにされました。そしてその計画、つまり人類を救う方法はイエス様を通して聖霊の働きで知られました。イスラエル人であれ異邦人であれ、聖霊の力で神様の愛で満ちた計画を知るようになり、その救いの計画の対象になりました。つまり、イエス様によって神様のご計画を知るようになった人は皆一体となり、神様が約束された報いの対象になっています。
「マタイによる福音 2・1-12」
 マタイ福音記者がイエス様の誕生の物語を語りつづけています。どのような心構えで、あるいはどの観点からそれを受け取れば良いのかが大切なポイントだと思います。誕生の物語にはヘロデ王が登場し、そしてその関連の出来事もイエス様の誕生とそれに対する反応が歴史的なところですが、それだけではなく、メシアとしてのイエス様の誕生がどのように預言を満たしていたかが明らかにされています。そして最後にそれを聞く人の心がいつも問われる福音書は、自分の人生と心を巻き込んだ答えを求めています。幼子誕生の物語の心は、イエス様が預言者の言葉によって、この世の小さな町に生まれられ、救いを待ち望んだ人類の希望が全て満たされたとされたことです。そして福音書の中に出てくる星や東方からやってきた占星術の学者たちの贈り物も象徴的です。その中に全人類の希望が含まれています。もちろん私たちの個人的な希望も、それぞれを全て満たされるのは、イエス様の誕生を通してこの世に現れた神様の愛にほかなりません。
                                   モヨリ神父