カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 待降節第1主日

2016年11月22日 | 神父様からメッセージ(A年)



 今日から典礼により新しい一年間が始まります。待降節に入って、わたし達の心はイエス様がお生まれになることを期待して準備に入ります。待降節の意味はまず、ふさわしい心で待つことです。つまり、目を覚まして、注意して周囲に起こるしるしを読み取り、現実を見分けるのです。待降節の典礼に勧められているように、神様に近寄りながら、神様の思いに溶け込むことです。神様が一人一人に近づかれることを実感しながら、ふさわしい心でその言葉を受け入れるのです。待降節の間、イエス様とはどのような方であるかを典礼の朗読を通して知らされます。降誕祭は誕生されたイエス様の到来だけではなく、終末の時のイエス様の到来をも象徴しています。さてその時には、イエス様がおっしゃるように、目を覚まして祈りながら待たなければなりません。イエス様が来られることと、その出会いは私達にとって永遠の命の始まりなのです。
「マタイによる福音書 24・37-44」
 この待降節の第一主日からA年が始まり、主にマタイの福音書を読むことになります。おそらくマタイはアンテオケにおいてセミ語で、西暦110年頃初めて福音書を書いたようで、その後ギリシャ語で翻訳されました。教会はこの中から、イエス様の再臨の個所を選んで特別にその期待、目覚めてイエス様との再会のための準備をすることを強調しています。この箇所は三つの部分に分けることもできます。第一部はノアの時代の終末の時、再びイエス様の到来に比べられています。第二部はたとえ話を通して、一人一人それぞれが不思議な運命へ向かっていることです。第三部は目を覚ましていて、この時をわきまえることによってイエス様の到来を期待するように強く勧められています。終末の時にイエス様は神の子として審判としてわたし達を呼ばれます。イエス様の裁きは人を滅ぼす裁きではなく、皆の心と人生の中に沢山良いことを認める審判であり、皆を評価して大切にしながら救う審判です。ノアの時には、いきなり誰も知らないうちに洪水が起こりましたが、ノアだけは神様にこの事を知らされました。終末の時も同じようにだれにも知らされずに起こりますが、イエス様に従った者達だけが知らされます。そしてその時イエス様に従った者達は、イエス様と一緒に永遠の命の喜びに入り、イエス様を拒んだ者達は残されます。イエス様と一緒に永遠の命に入るために、目を覚ましていて準備し、その時を期待しなければなりません。キリスト信者は大切な信仰を失わない為に、究極的な誘惑に落ちない為に、目を覚ましてずっと祈りながら準備し、イエス様との出会いを待ち望んでいます。
                             モヨリ神父

 王であるキリストの祝日

2016年11月14日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 七五三、勤労の感謝の月に、王であるキリストの祝日を迎えます。つまり、イエス様自身、王であると宣言します。実はそれをされたのはピラトの前でした。ちょうど大きな苦しみを迎えた時です。十字架の上部に書いてある通り「INRI」ラテン語で「IESUS・NAZARENUM・REX.・IUDEORUM」(訳):「イエス様はユダヤ人の王です」。謙虚なイエス様が「私は王です」と言っていますが、それを聞いてわたし達は驚きます。けれどそのイエス様の言葉を少し深く考えてみると、真実の愛の素晴らしさを示してくださいます。この世の王様達のことを考えてみましょう。王様とは自国の民の人生の中心であり、すべてを自分から出し、全てが自分に戻ってきます。王様は王国の中心であり、愛の勝利を示しています。国民を愛して一人一人の為に命をささげて、皆を見守っているものです。同時に国民達は王様の姿を見つめながら、その思いの下に生きています。そのように王であるイエス様と神の国の一員である私達も、普遍的で欠かせない大きな愛に結びついています。
「ルカによる福音書 23・35-43」
 使徒パウロによると「王であるキリスト」の意味は、神様の子であるキリストを通して、わたし達は皆、罪を赦されて救われているということです。さて、当福音書は三つの部分に分けることが出来ます。第一、イエス様に対する民衆の侮辱、第二、イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人との対話、第三、イエス様と犯罪人一人との対話です。何人かの者たちが人類を愛する為に十字架に付けられたイエス様を侮辱しながら、イエス様がメシアと王様であることを認めず拒否しています。イエス様が神様とその愛について話した時に、よく神の国、あるいは天の国という表現を使っていました。その表現の中に含まれたメッセージは、イエス様は神の国の始まり、その国の中心であり、神の国の目標でもあるということです。キリスト信者にとって、イエス様は教会の頭であり、最後に復活されるものたちの欠かせない命ですから、皆の王様なのです。王であるイエス様によって、全人類が救われています。イエス様が人類の救いを望まれる神様の心を果たす為に、自分の人生を十字架上で全うされたから皆の王様であるのです。最後に反省した犯罪人の一人は、イエス様の心に呼びかけながら、イエス様を包む真実を強調します。イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人は正義による死刑を受けるのですが、イエス様は悪いことを一つもせず十字架に掛けられています。犯罪人の一人は、イエス様が本当に王であることを信じ、人々の救い主であると認めています。それでイエス様に向かって自分の救いも求めて願っています。宇宙万物の王であるイエス様は「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と約束されました。
                              モヨリ神父

C年 第32主日

2016年11月03日 | 神父様からメッセージ(C年)

「だれでも死を考えるとその後に何があるのだろうかと思います。つまりどんな人間にとっても、どんな時代でも、人間が「死の後」について悩み、あちらこちらとその悩みの答えを探し求めました。無神論者の答えは、イエス様の時代のサドカイ派と同じように、死んだら全てが終わり、何もないと思っていました。しかしどんな宗教でも、信仰をもつ者にとっても、死の後は神秘的な世界に入り、永遠に生きることを理解し認めています。キリスト信者にとっても、死の後は神秘的な方法で永遠に生きることです。生きるだけではなく、イエス様の約束によって、イエス様が皆の為に天国で準備してくださり、皆を待ち、受け入れようとしています。ご自分のふところの中に皆が集まるように、一人も滅びないように希望しながら、永遠に大きな喜びを供えてくださいます
「ルカによる福音書 20・27-38」
 使徒パウロは、死後についてこう話しています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために天国で住む場所を準備された」コリント(1)2―9。ヨハネ3―2も同じようなことを強調しています。使徒たちが強調するのは、人間が死後に素晴らしい真実を迎えるということです。その時にイエス様に従った者たちは、イエス様のいとしい者になるのです。当時のサドカイ派は、社会的に優秀な者で、司祭の一部も属していました。彼らの考えでは、人間の復活を否定していました。それでイエス様に、7人の夫を亡くした女性は死後だれの妻になれるのかと、イエス様を驚かし試す意図で尋ねました。その無防備な質問に対して、イエス様は優しく死後のあり様を、心から理解するように指導します。死後のこと、未来も、頭で理解するのではなく信仰の世界に属しているので、直感で感じる現実となります。イエス様は上記のように具体的な出来事から、聞き手を考えさせて、死後のあり様が現在のあり様と根本的に違っているとわからせようとします。イエス様はお父さんが子供に話すように死後のことを説明するよりも、ヒントを通して分からせようとします。キリストに従った者たちは、死ぬ時に素晴らしい天使のようになり、イエス様と一緒に復活して神の子のように永久に生きることになります。イエス様はサドカイ派の人が分かりやすいポイントを、もう一つ上げています。死は汚れの世界に属していますが神様は清いもので、聖人達から証されました。神様は死によって汚れるものではありません。神様は命の神であり、永遠に生きています。だから生きておられる神様のところに行く者、そして生きておられる神様に属する者は、神様と共に永遠に生きています。このようにイエス様に従う者は死後、未来に向かい何も恐れることなく、大きな希望と喜びに抱かれることになるのです。                                     
                                    モヨリ神父