カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 諸聖人の祝日

2009年10月31日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様を愛する皆様へ、

一年中で最も夜が長いのは冬至ですが、夏の短夜の後だけに秋の夜はめっきり長くなったと感じられます。この感覚は古来より日本人にあったようで、すでに「万葉集」に秋の夜長を詠んだ歌があります。「秋思い」とは、秋のころ心に感じるもの思いのことで、「もののあはれは秋こそまされ」といいます。秋は人間の寂しさ、人間の心身の衰えに触れる思いが多いのです。山は美しい色に染まってきます、普通に紅葉と言えば楓ですが、その他の木もいいます。落葉樹が晩秋の寒冷にあうと紅葉(黄葉)して山を彩ります。11月に向かうとキリスト信者にとって大きな祝日に出会います。それは諸聖人の祝日です、そして次の日に亡くなられた全ての方の日に向かいます。この時、キリスト信者にとって天国に目を上げる機会になり、私たちの本来の故郷、つまり神様の懐を考えることになります。天国の故郷を思いながら、どのようにすればそちらに行けるかを思うとふさわしい生き方、人生をどのように送るべきかを教えられることになっています。初代キリスト信者の間では、殉教者だけが確かに天国に行くことができるのであり聖人として名づけられていました。しかし殉教の時代は終わって新しい聖性が生まれました。イエス様に従ってすべてにおいてイエス様に倣うことが聖人になる方法だと考えられました。当時、使徒パウロの言葉を思い起こして聖人はイエス様に従う人のことだと考えられていました。
マタイによる福音書 5・1-12
当福音書は重大なイエス様の山上の話を語り、イエス様の言葉で幸いになるように誰にもどんな人にも呼び掛けています。それは俗世的文学的な文章であり、しかも宗教的な世界の文学の最高の作品になっています。だれもが驚く言葉であり、確かに深く私たちの心を問われる言葉です。山上の話を通してキリスト信者のイエス様の本来の姿を理解することが出来ます。実はイエス様の山上の話は心を縛る法律のような言葉ではありませんむしろ、赦されて救われたキリスト信者がイエス様に従う方法の道標のような良き知らせです。確かにこのイエス様の話は人間にとって幸せになる福の音であり、心身を縛られる命令ではありません。イエス様が山上の話で自分の心を語ってくださり、その魅力によって従う弟子たちも引きつけられています。山上の話のメッセージを深く理解するために分析をしてみたいと思います。イエス様の八つの発言は二つに四つずつ分けられています。鏡のように向き合わせてみると、第四(6節)と第八(10節)の文章は同じテーマを巡って義を求める人のことを強調しています。このように進めていくと心の貧しい人は、憐れみ深い人と向き合っています。悲しむ人は心の清い人と、柔和な人は平和を実現する人と対しています。義に飢え渇く人は義のために迫害される人に対しています。それに八つの発言は複数の人物に向っていますが、最後に二つの発言はイエス様の聞き手にストレートに向かっています。この場面から、美しいメッセージが浮かんできます。憐みをもった心の貧しい人は幸いです。柔和な心を持った人だけが平和を実現します。悲しむことによって人間が清い心を得られることになっています。このような発言はすべてイエス様に当てはまることに気づけば、イエス様の素晴らしい姿が浮かんできて、どのようにしてイエス様が心の貧しさ、悲しさ、柔和な心、義を求めた心を生かしてきたかがはっきりと顕れてきます。さて、イエス様に従うひとにとって山上の話は真剣に生きるための参考になると思います。
                          モヨリ神父
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毎週の一言 B年 年間第三十主日

2009年10月23日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

夕暮れ時の薄暗くなる時間帯を表すのに「黄昏」(たそがれ)があります。昔薄暗くて人の姿がよく見えない時に言った「誰(だ)そ、彼は」、つまり「あの人は誰?」という言葉が語源だといいます。人の姿が見えづらくなる「黄昏」の時は確かに事故や見間違いがしやすくなります。しかし「たそがれ」という単語の意味をよく考えてみれば、信仰の中で歩むキリスト信者にとって、イエス様に当てはめて思慮するところがいくつかあるのではないでしょうか。そして今日の福音書にもつながりがあります。
10月25日は天草の殉教祭です。殉教祭はすでに天草の地域の中で伝統行事のようになりました。毎年行われる殉教祭と、殉教者と現在の共同体のつながりを思い起こせば、キリスト信者にとってあらたな勇気、証しとなる力がわいてきます。現在の熊本の教会が当時の殉教者から生れてきたと思うと、皆の心の中に響く感動的な素晴らしいお祝いになっているのではないでしょうか。
さて、ツルの越冬地鹿児島県の出水平野に、今季第一陣のナベヅル2羽が飛来しました。先週後半から大陸で高気圧が強まり、そこから吹き出す北風に乗って九州に寒気が南下し流れ込み朝晩の冷え込みが強まっています。シベリアなどから飛来するツルたちもこの北風に乗って遠い旅をしてきたのでしょう。冬の使者のようなツル達の飛来が続いています。 
マルコによる福音書 10・46-52
信仰というのは先生であるイエス様に従う者たちの歩みです。この歩みの方向は御父である神様のところです。イエス様に従うために必要とされるのは、イエス様と出会いイエス様の心を見出すことです。バルティマイの経験は信仰を求める者たちの先駆者として、信仰の決定的な歩みを示しながらイエス様の光で照らされている主役者となっています。道端に座っていた盲人は「ダビデの子」とイエス様のことを呼んでいます。その叫びは信仰の告白であり、イエス様は天からの贈り物で、光として世を照らすメシアであることを実感します。バルティマイが当時の祈りである詩篇を使ってイエス様に自分のことを憐れまれるようにと願っています。注目すべきところはイエス様の周囲の群衆がまず盲人を、以前「弟子たちと子供たちにしたように」「追い払い」「黙らせようとした」ことです。しかし、絶え間なく願っている声に耳を傾けられたイエス様は群衆を通して、盲人を自分のところに呼び寄せられます。次の三つの動詞はイエス様に近づく段階を示し、キリスト信者の洗礼を受ける心構えも示しています。「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ。」そして、見えるようになりたかった盲人は上着を脱ぎ捨て、つまり新しい人生を求めて、古い物乞いをしている生き方を捨ててイエス様のところに近寄りました。最後にイエス様と盲人の対話にも注目しましょう。「何をしてほしいのか」「先生、目が見えるようになりたいのです。」「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」よく考えてみれば、洗礼によってよく見えるようになった私たちは、人生の中をバルテイマイと同じようにイエス様に近づき、先生であるイエス様の言葉を信じて癒されただけではなく、心と体の救いの喜びを受けたことを見出すのです。

                            モヨリ神父
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毎週の一言 B年 年間第二十九主日 (世界宣教の日)

2009年10月15日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

秋の実りの中で熊本県の特産としては柿と生姜があります。柿は山地に自生しますが、古くから栽培もされていました。初夏に花が咲き、秋に赤黄色の実を結びます。叉、生姜(しょうが)の生産高は全国二位といいます。これから出荷期を迎えて、農家は多忙ななかにも喜びの時になります。五穀の収穫もたけなわで、雁が渡り、菊の花が咲き始めます。
さて、この29主日は世界宣教の日で全世界の教会が各共同体の本質を現わしながら、その誕生の時からのそれぞれの目標を祝っています。それはイエス様の言葉から発生しています。「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい・・・」イエス様は約束されたようにいろんなところで、人の心の中で私たちのことを待っていてくださいます。キリスト信者は派遣された全世界の地で救い主であるイエス様と再会し、もうすでに人々が救われたことを、人々の目を開かせて気づかせることになっています。フランシスコ・ザビエルが日本に来られた時に地獄に落ちる大勢の人を救いたかったのです。言いかえれば、救い主であるイエス様のことを気付かなかった、あるいは知らなかった人に、そこにすでにおられるイエス様の喜びを告げ知らせたかったのです。フランシスコ・ザビエルにとって福の音を知らなかった人は、暗い世界に、地獄に落ちたような人だと見えたのです。だから、それらの人々に絶え間なくイエス様の存在、言葉、行いやその方を知る喜びを告げ知らせたかったのです。
マルコ10・35-45
当福音書のテーマは「奉仕する」ということです。これは独特なキリスト教の課題ですが、現代の社会でもボランティア活動が豊かに見られます。しかし、キリスト教の奉仕の精神に近い活動でありながら、イエス様がおっしゃる奉仕から微妙に外れています。イエス様に従う者が奉仕することは、イエス様がなさったように小さいものや隣人に優しく対し、そして神様から頂いた恵みを分かち合うことです。自分が出来たことよりも、相手が望むことに注意深く心をかけながら行います。それに神様を崇敬する気持ちで自分の身を捧げて働き、イエス様の言葉を宣べ伝え、それを証します。当個所では弟子たちの間でもだれが一番になれるかの競争が発生していました。しかし、イエス様はこの弟子たちの願いを咎めず、より素晴らしい方向に向かわせています。まず、イエス様がゼベダイの子らの心を探ってどこまで自分の運命に従うことを望むのかを確かめます。確かにヤコブとヨハネの希望はイエス様と共に運命を全うするまで従う決心を示しています。それを受けたイエス様が自分に従う者の心を明確に語っています。世間の考え方と違って神様に従う者たちは、偉くなるよりも人に仕えることを望んでいます。イエス様に従う者は共同体の中で奉仕して、共同体の弱い者たちに仕えます。そしてみ言葉に仕える者としてそれを読み上げて解説したり、それを知らせながら、み言葉が世界に広がるように宣べ伝えています。最後にイエス様は、キリスト信者はどのようにしてこの奉仕を成し遂げるべきかを語られます。それは心を尽くし身を捧げながら人生を全うすることです。

                            モヨリ神父 

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毎週の一言 B年 年間第二十八主日

2009年10月10日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

赤トンボが青空を舞うようになると、至るところで咲き乱れるコスモスの花を見ることができます。日本の風景に溶け込んで、古来の花と思われがちですが、生れ故郷はメキシコの高原です。明治時代に渡来し、繁殖力の強さもあって日本の秋にはかかせない花となっています。色とりどりの花を咲かせ、群生して咲く様子が桜の花に似ているので「秋桜」と言われています。
さて十月はロザリオの月で、皆さんがマリア様に結ばれて天国の喜びの方に引きつけられることになっています。ロザリオは観想の祈りで、それを通してイエス様の生涯を黙想します。それにお祈りでありながらマリア様への深いつながりをつくり、マリア様からたくさんの恵みをいただくことができます。日常生活で悩む時にロザリオを手に祈り唱えれば心が支えられ平穏な安らぎを得ます。また十月がもたらした贈り物の籠の中に「世界の宣教の日」もあります。その時教会の目標が明らかになります。それは全世界にイエス様の愛、イエス様の言葉、復活されたイエス様の命が広がるお祝いなのです。キリスト信者はイエス様と同じように全世界を愛して全人類の救いを望んでいます。このような神様からいただいた使命をどのように果たすべきかとキリスト信者は日々模索しながら努力しています。これは押し付けられたような義務ではなく、神様に対する感謝を現わすためにイエス様の使命を自分の使命として、全世界に神様の愛を告げ知らせる努力なのです。
マルコによる福音書 10・17-30
イエス様に従う人の信仰は何度もいろんな時に試されています。人間には思い通り自由な心で動くことを赦さない、心を縛る力があります。それは「富」のことです。聖書でのこの言葉には実際的な富の力、または人間の心を富への愛着で縛り悩ませること等全て含まれています。だから当福音書はキリスト信者が自分の人生の中で正しく、自由な心で一番いい選択をすることを勧めています。現在ある世界と霊性の世界との調和をもとめるイエス様が勧めることは、現在ある世界を廃止するのではなく、むしろそれに係わりながら、自由な心またはより良いことを神様の光栄のために自分の人生に神様の贈り物として取り入れることです。人間にとって、そのような冷静な選択は簡単なことではありませんが、神様が送られた聖霊の光によって実行することが出来ます。イエス様の言葉、イエス様がなさった全ての出来事もいつも「死と復活」過ぎ越しの神秘、という枠の中に見られます。今回も富の力は人間の心を滅ぼすのですが、洗礼の時に問われたように、それをより素晴らしい生き方のために拒否できれば神様との出会いの喜びを味わうことが出来ます。神様と同じく「善い」であるイエス様のところに来る人は確かに熱心な者で、掟を全て守る人です、しかし気づいていなかったことがありました。イエス様が見つめる目です。その目は神様の愛を語っています。私たちが神様の方へ進む前にその目が私たちを引き寄せてくださいます。そして、旧約の神様の愛の約束を実現されたイエス様が、出会った人に一つのことを勧めています。神様の愛に自分の人生で応えることです。
                     
                          モヨリ神父
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毎週の一言 B年 年間第二十七主日

2009年10月02日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「ただいま」このような綺麗な言葉で日本に戻ることができて、再び元気で皆さんに会えて大きな喜びです。「ただいま」という言葉は、この「たった今」の大切な瞬間を語ってくれます。私たちの人生の各瞬間はとても大切で大きな喜び、命の力、神様の思いで満たされています。イタリアを離れて日本に戻ることで環境や風景、言葉などの変化を通し、心の底で大きな喜びと神様がくださった平和を味わっています。神様が下さった色々な命の瞬間はいつも美しい宝石で飾られています。それを見抜く人は幸いです。よく見てみるとヨーロパの季節も日本とよく似ていると気付き、人間の心や神様の姿も同じだと深く悟りました。人間の望み、人間の喜びもこの地球ではどこでも全く同じです。それに飛行機の窓から外界を見ながらはっきりと感じたのは、自分はこの地球でほんのわずかな部分であり、非常に小さいものだということです。小さいものを特別に愛される神様は自分にとって全てである事をいきなり気づき理解したことでした。ザベリオ会の創立者であるコンフォルチ司教様のモットーは使徒パウロの言葉を借りると次のようなことでした、「in omnibus Crhistus」つまりラテン語から翻訳すれば、「すべてにおいてキリストだけです。」この世の持主、この世の光、この世の愛の魂は神様です。このような思いが心に浮かんでくると、いつも神様の恵みによって誰の心も満たされ、大きな喜びを味わう事ができます。さて、10月4日はアッシジの聖フランシスコの祝日です。日本人が特別に愛している聖人であり、山鹿教会の保護聖人です。アッシジの聖フランシスコの人生の中で、素晴らしい特徴はいくつもあります。ぜひ皆さんも自分で探してみてください、感動的なメッセージを発見され、自分の人生の中で踏み倣うべき聖人の足跡を見出すことになるでしょう。
1・故郷は甘いと感じた人は弱い。
2・この世は全部、自分の故郷であると感じた人は強い。
3・全世界は海外のような所だと感じた人は完全な者です。
1番目の人はこの世を愛しています。
2番目の人はこの世の中に愛を広げています。
3番目の人はこの世の中で自分の愛を全て捧げ尽くした者です。{伊―諺}
マルコによる福音10・2-16
当福音書によるとイエス様が結婚生活のルール、規定、法律を説明して守らせるよりも、私たちにも参考になる神様の心を語ってくださいます。まず、神様は花婿のように花嫁である人類を愛して迎えています。この愛の特徴は忠実で、何にも捕らわれない愛です。神様は人類と一体となって、人間は神様のように聖なるものであり、神様は人間の姿を受け取って、小さいもの、弱いものの姿をしています。神様の希望、神様の愛は人類と一つになることです。このような神様の心は人間にとって、今でも私たちにとって欠かせない心の参考になっています。結婚生活でも、共同体のあり方、教会の生活の中でも、キリスト信者にとって神様の心は手本になっています。この福音書のメッセージは、洗礼によって神様と一体となった私たちも人生の中で愛し合う方法は重要な課題であるということです。
                               モヨリ神父
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