カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 1 - 29 (A 年 - 年間第三十主日)

2008年10月25日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

普通、紅葉と言えば楓「かえで」科の樹木を言いますが、その他の木にも言います。落葉樹が晩秋の寒冷に合うと、紅葉(黄葉)して山を彩ります。このように私たちの周りを飾られる神様の御技に改めて感動し感謝の心が湧き上がります。実は目につくのはいろんな不思議な現象ですが、それを現され私たちの喜びを求めるのは神様だけです。先週全世界の宣教の日を祝った私たちが、どれほど皆にこのような神様の愛を告げ知らせることができるか、大きな課題です。そして再び主の日を迎えることができました。イエス様が色々な活動で疲れてきた弟子たちに休むように静かな所に誘われました。今日は主の日、同じように色々なことで疲れてきた私たちも、イエス様の所で御言葉に支えられて休むように誘われています。
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・5―10 
聖パウロはイエス様の福音を宣べ伝えるために新しい共同体を作り、ときによっては選ばれた召使と手紙を通して少しずつその共同体の中にイエス様の姿を刻み深めるようにしていました。この時まず、聖パウロはテサロニケの教会のために自分の働きについて話しながら、積極的に苦しみの中で御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちを誉めています。聖パウロは神様の言葉を宣べながら、その言葉の活発な働きと成果に気づき喜んでいます。その満足感もテサロニケの信徒たちに伝えています。様々な偶像崇拝から離れて、神様だけに仕え、聖霊に導かれて働くようになり、イエス様が最後に来ることに期待するテサロニケの信徒たちを、聖パウロは再び誉めています。聖パウロが強調するのは自分の中でも皆の心の中でも、復活されたイエス様こそ全人類の救い主であるということです。
マタイによる福音書 22・34―40 
法律だけが人間を救うものではありませんが、イスラエル人の考えではどんな法律も神様の愛による人間への答えでした。だからすでに旧約聖書の時代にも神様に対する、また弱い人に対する愛は勧められていました。今日の福音書では、すでにイエス様に永遠の命について叱られたサドカイ派の人々の事を聞いて、ファリサイ派の人々が再び一番重要な掟についてイエス様に答を求めます。ファリザイ派にとってどんな掟でも(600以上)同じ価値を持ち、違う答えは不通の教えに反する発言になりやすいので、イエス様の答えは皆に注目されました。試されたイエス様はイスラエル人の宗教的な派閥を超えて、愛の掟は一番重要な掟であると宣言し、愛の根は神様への祈りの中にあると、旧約聖書の個所を示して教えています。「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」実は神様に対して、隣人の愛の泉は最後の晩餐の時にイエス様ご自身の言葉に明らかにされています。「私が愛したように愛し合いなさい」とイエス様が自分の心の愛を皆に模範として勧めています。
                           モヨリ神父

*【注目】毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。


毎週の一言 1 - 28 (A年 - 年間第二十九主日)

2008年10月18日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
序文
寛永十四年 (西暦1637)の「天草(島原)の乱」は百姓一揆、籠城、宗教一揆となり翌年に攻落されました。天草にある「千人塚」は当時の殉教者を供養したものです。十月第四の日曜日に天草の殉教公園で「殉教祭」が行われます。キャンドルを灯した白いベールの列が坂を下り、激戦の場となった紙園橋へと至り美しい聖歌の響く夕闇の中、祈り集う人々の敬虔な姿を誰でも見ることができます。このような出来事を振り返ることは日本の教会の心が大きく燃え上がる機会になり、一人一人の信仰もまた燃えてきて支えられます。殉教者たちは私たちの信仰の種であり、大きな人生の理想になっています。そして今日、私たちは世界の宣教の日を迎えています、教皇様はご自分のメッセージの中に次の言葉を述べられています「教会はまさに福音を宣べ伝えるために存在しています」
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・1–5
今日の第二朗読では私たちの手紙の書き出しに比べて、羨ましくなるほど素晴らしい最初の挨拶がテサロニケの信者のために記されています。このような聖パウロの手紙の挨拶は、キリスト信者のための手本になっています。この挨拶は大いに聖パウロの心を現わしながら、同時に聖パウロのテサロニケの信者への深い思い、やむにやまれないメッセージを含んでいます。キリストに結ばれた者は神様の恵み、心の平和の中で生きています。信者である私たちも、人に何かを差し出そうとした場合、上記のような神様の贈り物が一番素晴らしいものです。聖パウロはテサロニケの信者たちに心をかけながら、キリストの信仰によって自分の兄弟として思い、信仰のために働き、愛のために労働していることを誉めます。テサロニケの信者たちは、信仰と愛の中で生きることによって父である神の心の中に留められて、神様に特に愛されているのです。聖パウロは私たちのためにも参考になることをもう一言伝えています。それは福音を宣べ伝える時に、言葉だけではそれが人の心に残らないことがあります、ですから聖パウロがやったように私たちも力や聖霊の光によって、福音的な生き方によって、キリストの心を伝えるならテサロニケの信者と同じように、誰でも神様の心を見出すことができます。
マタイによる福音書 22・15-21
イエス様の言葉を信じることになった私たちは、その言葉によって気づくことが沢山ありました。今日はイエス様が普段気づかない真実に眼が覚めるように仕向けてくださいます。宗教の世界、社会の世界は私たちにとってどのように見えているのでしょうか、対立し区別されているのでしょうか、宗教と社会、信仰と政治、心の中身と物理的な世界の区別と判断を、イエス様の言葉に基づいて考えてみましょう。まず、イエス様がおっしゃる通り、税金を皇帝に返すことを考えましょう。イエス様がおっしゃる通りだれにとっても社会的な義務、役割、責任があります、それは果たすべきです。それによって、社会の平和と調和を求められます。宗教的な世界は社会的な世界に対立してはいませんが、むしろ神様の光で照らされた人間はどこでも、どんな時でも一番いい方法を探し求め、それは暮らしの原動力になっています。神様は私たち一人一人を心から愛されて私たちを神様の似姿に造られていますから、私たち自身、そしてこの世界も美しく神様が作られたままに返さなければなりません。イエス様と一致することによって、神様に私たちの素晴らしい人生を返すことが出来、神様の栄光となるのです。
                                    
モヨリ神父

*【注目】毎月の第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります!

毎週の一言 1 - 27 (A 年 - 年間第二十八主日) 

2008年10月11日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

稲田は稲を植えてある田のことですが、季語では稲が実り、黄金色に輝く田のことです。「稲」も成長期の青い稲ではなく、稲穂や葉が黄金色になり、収穫できるように実ったものを指します。山里の美しい稲田は米を主食とする日本人の原風景となって心の奥深くに住みついています。平野部の一面に広がる稲田、特に山間地の稲田の風景は自然と人力の織りなす美の典型です。この時こそイエス様の言葉が私たちの心に響きます。「収穫は多いが働き手が少ない」イエス様から蒔かれた言葉は豊かに実りましたがそれを受け入れる人、それを愛する人、それを実行する人はまだ少ない。しかし人手が増えるような理想的な目標は、私たちの心の中にずっと永久に希望となって宿ります。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・12–20
聖パウロは当個所で何にも囚らわれていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことが出来、共に苦しみを背負うことになったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様自身でした。どこでもどんな出来事でも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父として、この世のどこででもご自分の栄光を現わされます、私たちがそのことに気づくことが出来れば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳する事が出来ない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えてくださいます。
マタイによる福音書 22・1―14
聖書ではこの世の出来事や私たちの経験を超える世界、または神様の心について話すとき独特な方法を使っています。新約聖書でも旧約聖書でも、催された婚宴のイメージが良く使われています。イエス様は罪人と一緒に食事をし、晩餐の中でご自分の体を愛のしるしとして食べ物の形で弟子たちに残しました。また、イエス様は弟子たちと一緒に食事を取りながら聖霊について話しました。このように聖書の言葉使いでは婚宴は食卓に招かれた全人類を象徴し、普遍的な命を示し、神様の知恵、神様の恵みの食卓に誘われた全人類のことを現わします。当マタイ福音書のたとえ話では再び神様の招きが強調されています。神様はいつでもどんなときでも、いろんな方法で、いろんな人(召使)を通してご自分の心に人類を誘っています。神様の心は喜びと安らぎのあるところで人間の心を満たすところです。イエス様のたとえ話は、聞き手を驚かせながら新しい真実を告げ知らせています。人間の喜びを求めるのは神様です。自己中心的な考え方で神様の誘いを断るのは人間です。しかし神様の誘いに積極的に応えるには、参加の為の礼服が必要です。その礼服は私たちが洗礼式の時に着せられた白い服かあるいはベールのようなものですが、それは大きな喜びを示していて、実は神様の命、神様の恵み、私たちの心の完全な改心を通して神様の愛を受け入れられた心を示しています。  
モヨリ神父
*【注目】毎月の第1と第2の木曜日、午前10時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。

毎週の一言 1 - 26 (A 年 - 年間第二十七主日)

2008年10月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

赤トンボが青空を舞うようになると、至る所でコスモスの花が咲きみだれます。日本の風景に溶け込んで、わが国古来の花と思われがちですがメキシコ原産で明治時代に渡来し、繁殖力が強く、日本の秋には欠かせない花となりました。色とりどりの花を咲かせ群生して咲く様子が桜の花に似ているので[秋桜]ともいわれています。神様に生かされた私たちの短い寿命は色んな方法で飾られています。秋に咲くコスモスの花は秋の喜びの一つですが、毎週の日曜日に大きな喜びをもたらすのは、神様の宴会の食卓に誘われていることです。その時に神様の言葉、イエス様の体によって満たされた私たちが大きな喜びを味わうことができ、人生もとても深い意味で、楽しい時になっています。それに私たちのあっというまの人生のために日曜日の神様との出会いは素晴らし出来事であり、欠かせない喜びの機会になっています。

使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9
物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
 
マタイによる福音書 21・33-43
いつもたとえ話を語るイエス様が私たちの心の反応を求めています。この場合、まず知らせてくださるのは、神様は私たちにすべてを備えられているということです。たとえ話の中のぶどう園のことです。私たちの場合、人生のこと、信仰のこと、周囲にいる者たちのことで、それはすべて神様が私たちのために供えられたもので、大きな信頼の中でまかせられています。さて、ぶどう園のたとえ話のように、神様の賜物を預けられた私たちはどのようにそれを受け入れて大切にしたか、また神様の望みや導きを表現されている愛にどのように応えたか、それが私たちの心の反応を期待しているイエス様のたとえ話の目的になっています。まず私たちのために神様が供えてくださったことを検討してみると、この世の素晴らしさだけではなく、人類の運命、そしてもっとも大切なのは神の国です。それは神様が準備してくださったもので、私たちの弱い手に預けられています。私たちは神様が送ってくださったいろんな良い知らせ、生きた言葉、励ましの言葉、赦しの言葉をどのように受け入れたでしょうか、それが今日の朗読の重大なテーマになっています。その神様の愛を現わす言葉は、実はイエス様自身です。その言葉を受け入れて、大切にしたものだけが自分の人生、自分の住まいを親石の上に建てることにし、神様の大きな愛の計画を受け入れます。    
モヨリ神父

*【注目】 毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。