カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 1- 25 (A 年ー 年間第二十六主日) 

2008年09月27日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

新米は、今年収穫したばかりの米のことです。日本では主食とするのですから味の良い米が要求されます。新米は一粒ひとつぶ光沢があり美しく味もよいのです。農家では神棚に供え、神社にはお初穂が奉じられます。各地の秋祭りは新収穫の祝いなのです。イエス様も普通の農民の文化にそって、自分のことを麦の初穂であることを示し、皆のために主食になりました。私たちも一粒の麦として集められた時に聖別のパンになり、イエス様の体になります。日曜日にイエス様の体をいただく時に私たちはイエス様の死を思い、復活を讃えるのです。このような祝いは、秋の祭りだけではなく、永遠の命の神聖な祭りになっています。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・1–11 
エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
マタイによる福音書 21・28-32
今日はイエス様が語られるたとえ話を通して、私たちの信仰の質を確かめるように勧められています。私たちの信仰が言葉の音にすぎないのなら、私たちも父親に「はい、はい」とだけ答えた兄に似ています。実は「はい」と言っても父親の心を行わなかった兄は、父親の愛に対して感謝の心をあらわしませんでした。私たちの人生を振り返って、どのように神様の愛に応えているのか確かめてみましょう。当時のイエス様の聞き手であった偉い者たちはイエス様の言葉を聞いて、イエス様の言うことを誉めたり、評価したりしましたがそれは自分の生き方まで及んでいなかったのです。日本の表現を借りれば、彼らの反応は建て前にすぎなかったのです。イエス様の言葉を聞いても、心が改心せず、自分の思い通り、利己心で生き続けました。つまりこの、子にかけられた言葉は愛に充ちた父親の心から、あふれ出た言葉であったことに気付かず、自分の人生の中で具体的にその愛に対して応えと感謝がされなかったのです。しかしイエス様のたとえ話では、父親の愛に気付いた弟は言葉の音ではなく、行動で父の心に応えるようにしました。どうして罪人、悩む人、貧しい人は神様の目に幸いでしょうか。今日イエス様のたとえ話の中に再びその答えがありました。寛大な心で愛されて、赦された者、慈しまれた者だけが、その限りない愛に気付き、自分の人生で感謝を現わし、自分の人生で応えることができるのです。
                            モヨリ神父

*【注目】毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。


毎週の一言 1 - 24 (A 年 - 年間第二五主日)

2008年09月20日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「まんじゅしゃげ」は彼岸花、死人花(しびと)、天涯花(てんがい)、捨子花(すてご)など、の異名を持ち、かっては飢饉の際の食用としました。畑の畔(あせ)道や墓地など人里に、あれよあれよという間にさわやかな赤を走らせます。この神様に捧げられた毒さえをもった不思議な花の登場はお彼岸を迎えたことを教えてくれます。お彼岸というのは春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。お彼岸は仏事でありながら、イエス様の信者である私たちにも亡くなった方を思い、この人生のみじめさを思い、いつか太陽のように神様の姿を見出すことを思い起こさせてくれます。日曜日、主の日は体と心を休ませる日ですから、この時こそ本当の安らぎを求めて神様への思いだけで心をみたしましょう。
 
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 1・20 –27 
誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって、どちらもあこがれで、両方とも望まし目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒に生き死ぬならばイエス様の姿をみせることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるからそれも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導いています、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。もちろん、このような思いはキリスト信者にとって参考になっています。
 
マタイによる福音書 20・1-16 
今日もイエス様が驚くべきたとえ話を通して私たちとの出会いを求めています。イエス様が語られたたとえ話の中で不正な役割を通して、神様の考え、神様の儀を教えてくださいます。まず神様の心、神様の思いは計算高い人間の思いのようではありません。人間はいつも自分の働きや行いの利益をもとめています。人間と違ってイエス様は、不正な主任の考えを通して、自分の愛、自分の限りない慈しみを見せながら、自分の心の計算を超えた儀を示してくださいます。人間は自分の行いの結果において救われるものではなく、神様のいつくしみと愛に満たされた儀によって救われています。この福音書の箇所は、ペトロがイエス様に報いを求める対話の前に執筆されています。だからこのたとえ話をその神様の報いの背景の中に読むことにすれば、神様はいつも、どんな時でも人間に呼びかけて誘っていると、約束されたことを守っておられることがわかります。それに、頼りない私たちに対して自分の慈しみと愛によって、自分の心の儀を見せて私たちの救いを求めています。確かにこのたとえ話を通してもイエス様が私たちの心に出会って、神様がいつも求めるのは人間の欠かせない喜びであることを再び教えてくださいます。

*【注目】毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。

毎週の一言 1- 23 (十字架称賛)祝日

2008年09月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「重陽の節句」、中国では奇数は陽の数とよばれ、縁起のよいものとされました。その中でも最大の9が二つ並ぶ9月9日は非常に縁起がよく、陽の数が重なることから「重陽の節句」となったのです。勿論キリスト信者にとって「縁起」のいいと言うことに偶然はないので、すべて神様の祝福に当てはまっています。
旧暦の「重陽の節句」は「菊の季節」ともよばれます。江戸時代の頃までは菊の花を愛でながら、長寿を祈る宴などが盛大に催されています。この頃、私たちは「敬老の日」を迎えることになります。しかし、年長者の方々の間に、何歳からこの祝いを当てはめるかが笑い話のようで微妙な問題となり、自分の長寿を感謝し祝うことが忘れられてしまう気がしないでもありません。この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・6-11
イエス様の十字架を思い起こす祝日にあたって、聖パウロはフィリピの教会の共同体に手紙を書き、十字架の意味を感動的に語ってくださいます。イエス様が命を全うされた十字架上の死について、聖パウロがどのような思いを持っているかを知るのに日本の思想にも助けられます。たとえば日本の書道を知ろうとした時に、練習すればするほど、自分の身を削るほどに努力するうちに、字に顕れる自分の個性が消えてしまい、私たちの思いは先生の思いと一体になり、自分の作品は原本と同化していきます。さて、イエス様は神の子でありながら自分の思いと御父の思いと一体になって、自分を無にして人間と同じになりました。むしろ死ぬほど自分をへりくだって、人間の一人となり人類の救いを求めるために御父のみ旨に完全に従いました。それでイエス様が私たちに神様の姿を現わしながら、すべてのものの上に立って私たちの主となり、死と苦しみを通して救いの道を教えてくださいました。
ヨハネによる福音書 3・13-17
イエス様が二コデモととても暖かい会話の中で、天幕のような窓を開きながら神秘的な世界を開いてくださいます。天から降ってこられたイエス様が、神様の心を語ってくださいます。神様の心は一人一人を大きな愛で包み、皆の救いを望んでおられます。だれでもイエス様を(見る)信じれば永遠の命を得られます。なぜならイエス様は十字架上のとてもむごい死に方を通して、私たちに最高の愛の行為を示してくださいます。「友のために自分の命を捨てること、それ以上大きな愛はありません・・・」とイエス様が教えてくださいます。イエス様が十字架上で亡くなった時に、その死と苦しみを通して神様の心、神様の愛、命と愛を得ることを教えてくださいました。だから死は人間が与えられた罰ではなく、むしろ愛の最高のしるしになっています。それを通して復活の喜びを得られます。
                          モヨリ神父

米【注目}毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡について」の勉強会があり

毎週の一言 1 - 22 (年間第二十三主日)

2008年09月06日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様を愛する皆様へ
序文
今年の立秋は8月7日でした。しかし歴の上での秋の始まりは、まだ暑さの最も厳しい頃で、9月の中旬になってようやく涼気を覚えるようになりました。そこで立秋から彼岸頃までの暑さを「残暑」とよんでいます。四方を山で囲まれた菊池は、盆地特有の猛暑が続き身にこたえます。しかし夏休みが終わって、普段の日常生活を取りもどすようになりました。学校に通う子供たちの姿がまた見られるようになり、教会の活動も進み、自分の教会の欠かせない大切さ、また自分の教会に対する奉仕生活はキリスト信者の課題になり続けています。日曜日に教会に集まるキリスト信者にとって新たな婚宴のような祝いになります。大きな喜びは花嫁のように私たちが集まる所に登場し、私たちの共同体を神秘的な香りで包んでくれています。その風景の中に、私たちは感謝の祭儀を祝い、神様から頂いた恵みに、それぞれの自分の生き方によって恩返しをすることになります。
使徒パウロのローマの教会への手紙 13・8-10
聖パウロは、欠点の多い私たちに向って、お互いを自分のように愛するように呼びかけています。聖パウロはイエス様+の言葉を私たちの心に力強く吹きこむようにします。そして掟を超える聖パウロの思いは、私たちに愛の目標を教えてくださいます。愛はすべての掟を含んでいます。愛は、相手の喜びと幸せを求めるだけです。愛は、自分の心の中にある良いものを相手の心の中に置くように願えば伝わっていくものです。このような思いを通して、聖パウロは私たちに神様の愛、またはその篤さと深さを私たちの心の中に伝えてくださいます。
マタイによる福音書 18・15-20
今日のマタイの福音書は、共同体の憲法のような個所だと言ってもいいと思います。イエス様が自分に従った者たちに、家族のように共同体として生きる、思う、行動するように教えてくださいます。神様は私たちに係わるのが個人的にだけではなく、周囲にいる兄弟たちを通して私たちに係わり、ご自分の心を伝えてくださり、ご自分の愛を示してくださいます。マタイの福音書で共同体が生きる方法三つを検討してみましょう。まず、失敗する兄弟に忠告することです。勿論そうする時に、つまり兄弟の目からおがくずを取り除く時に、愛を持って親切に、注意深くするのですが、同時に自分の目からも残された丸太を取り除かなければなりません。その時、兄弟に対する私たちの注意は神様の心が叶う指導となります。次にイエス様に従う人たちの共同体は、神様の思いに基づいて考え、皆でイエス様が望むような共同生活の方法を作るように努められています。そのような共同生活は天国の始まり、天国のような場になっています。最後にイエス様の共同体では、皆で一緒に祈ります。なぜなら二人三人がイエス様の名前で集まる時に、生きておられるイエス様はその真ん中に立っておられるからです。そして何人かが一つの心で願ったならば、必ず神様が耳を傾けて叶えてくださいます。さて、このような力のある言葉を聞いて、自分が属する共同体には見直すところがないでしょうか。
                         モヨリ神父

*【注目】毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、
聖書による「イエス様のたとえ話と奇跡についての勉強会」があります。