カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 B年 復活節第三主日

2009年04月25日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、


雲や風、生き物などの様子をみて、天気を予想することを「観天望気」と言います。この季節、代表的なのは「つばめが低く飛ぶと雨」と言うのです。雨が近づき温度が高くなると小さな虫の羽が湿り低く飛びます。するとそれを捕まえるため、つばめも低いところを飛ぶと説明されています。天気予報がなかった時代、なんとか天気を知ろうとした先人たちの知恵が詰まっています。この頃咲くチューリップは、気温にあわせて花びらの開き方を大きくしたり小さくしたりする性質があります。気温が10度から上がるにつれて花びらが開いていき、20度程度より高くなると、花びらは大きく開いた状態になります。確かに人間にとって大自然も神様の声になり、生きるための参考になっています。イエス様もユダヤ人に話すとき全く同じ譬えを用いて、各々の人生の神様の存在と働きを見抜くように注意されています。
さて、4月25日は聖マルコ福音記者の祝日でした。聖マルコはとても貴重な贈り物を残してくれました。福音記者の中で最初にイエス様について語られた出来事、またイエス様自身が話された言葉、行われたしるしを集めて小さい書物の中に残しました。師の姿を描きながら忠実な弟子の姿を教えてくれます。マルコはまだ若い頃イエス様がオリブ山で捕らわれた時に、そこに寝泊まりしておりました。弟子たちと使徒パウロの宣教活動に参加して彼らの証言を記録し、私たちに貴重な贈り物として残したのです。ミサに参加する私たちは、福音記者が記録した神様の言葉の朗読を聞いて、それに対して大きな感謝の心をもつべきだと思います。聞いた言葉は私たちの心に入り込んで、思いや心を変えて私たちの人生までも豊かにします。このように、残された貴重な言葉を大切にしながら特別にミサの時、また奥まった自分の部屋の中でも、何度も耳を傾ければ支えられる命、真理、道になっていきます。
ルカ24・35-4は
復活されたイエス様は、弟子たちに何度も色んな方法で現れました。イエス様との出会いは聖霊の光と平和に照らされ包まれて、暖かい食事の分かち合いの中で行われています。復活されたイエス様は何度も弟子たちに恐れないように願っています、自分のことは幽霊のようなものではなく肉と骨を持っているものだと強調しています。つまり、復活されたイエス様が、隣人のように私たちの身近にいて一緒に歩いておられます。神様の言葉は、イエス様が復活された神秘を明らかにします。共同体の中で、神様の言葉を通して過去の出来事を思い出すと(記念する)新たな光で見ることになるので、これまでのことが神様から導かれてきた出来事だとよくわかります。ルカの福音書がもう少しイエス様のご復活の意味を深めてくれます。復活されたイエス様から頂いた平和は心安らぐ平和だけではありません、心を燃え立たせる平和、愛で人を温める平和です。イエス様にとって弟子たちと共に食べることは、とても嬉しい出来事でした。一緒に食べて、食べ物を分かち合うことは復活祭のしるしであり、キリスト信者にとっても欠かせない信仰の証です。最後にイエス様が皆のために復活されて、皆の罪を赦し、皆といつでも一緒におられる神様の姿を示し、皆と一緒に歩くと約束されました。                      モヨリ神父

《お知らせ》
毎月の第1と第2の木曜日午前10時から信徒会館で、
聖書による勉強会「使徒言行録の朗読と解説」があります。ご参加をお待ちしています。
 尚、中止の時は神父様からお知らせがあります。

毎週の一言 B年 復活節第二主日

2009年04月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、


  牡丹は「百花の王、百花の神」と称されるほど重量感と気品にみちた花です。咲き開いたときの存在感は言うまでもなく、芳香を伴った大輪を目のあたりにすると日輪よりも大きく感じるほどです。散ってゆくときもまるで大地の音を響かせるようで、大人の生死を見る思いです。日本の詩人は自分のことを蜂のようなものだと例え、牡丹は大自然に例えています。蜂が牡丹に入り込むと素晴らしい世界、香りと色の世界に入り込み、大きな喜びを味わい自分の人生の目標を果たすようなものだと考えたのです。それは神様の世界に入り込むキリスト信者と同じです。
復活節の第2主日に向かいます。まだ復活祭です。聖霊降臨まで、まだまだ復活祭の喜びを味わう時です。復活されたイエス様の姿は私たちの目の前です。「私だ、恐れることはない。」「いつもあなたと共にいる。」「あなたがたに平和があるように」と心からおっしゃっています。
「トマスはイエスが来られた時、かれらと一緒にいなかった。」
12人の使徒の一人、イエス様の弟子であるトマスは、イエス様が来られた時にどこにいたでしょうか。私たちも、重要な時に居るべき所にいない場合があります。この生きている貴重な瞬間を逃して、過去の中に止まったり、昔の悩みを掘り起こしたり、昔の悩みの原因となった人のことを赦せなかったりしています。私たちも復活され、たった今生きているイエス様の所にいないのです。空想の翼に乗って、未来に入り込んで夢をみたり、存在していない世界を憧れたり、自分のことだけを大切に考えて、世の中の主役になることだけを望んでいます。この時、聖トマスと同じように私たちは、生きておられるイエス様の所、私たちを訪れてくださったイエス様の所に、そして弟子たちがいた所にいなかったと思います。復活されたイエス様がおられる所に居れば、あるいは、この生きている大切な瞬間に復活されたイエス様を迎えられたら、次のようなイエス様の言葉が理解できると思います。
「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪を赦される。誰の罪でもあなた方が赦さなければ、赦されないままに残る。」
一瞬々、幸せを探し求める私たちは、まず復活されたイエス様が心の平和であることを味わうのです。それは人を赦すことによって得られるのです。過去のことを振り返っても人に反感を持たなければ、イエス様の平和に止まることができます。イエス様の傷に触れて、肉と骨を持つ復活されたイエス様に出会うことができます。聖霊の力によって、イエス様に従った私たち自身が人を赦さなければだれも赦すことが出来ないのです。生きている瞬間にいつも赦す心をもっていれば、大きな喜びや幸せを味わうことができます。
「私を見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである。」
イエス様は幽霊のようなものではありません。雲に包まれている夢でもなく、骨と肉のある方ですから、私たちのすぐそばで、手を伸ばして助けてあげられる人の姿をもっています。イエス様が復活された時に、婦人たちも弟子たちも、すぐには復活されたイエス様だとわかりませんでしたが、神様の言葉の光によって目が覚めた瞬間、イエス様を見ました。復活されたイエス様が、いつも私たちのすぐそばに一緒におられるのです。

                             モヨリ神父

毎週の一言 B年 復活祭

2009年04月11日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

ご復活、おめでとうございます!!

熊本の諸学校の入学式はまさに桜の季節で、今年は復活祭の直前です。真新しい制服に身を包み、友達の笑顔に向かって一心に走り出す様子を大人たちも微笑んで見守っています。桜花の熟が皆の頬にあります。入学式、担任の先生に自分の名を呼ばれて、全身で答える新入生もみられます。夢と希望と好奇心にあふれた眼差しは、担任の先生を離れません。このような心もち、このような表現は復活祭を迎えるキリスト信者にもあてはまります。入学式のような喜びと微笑みは、聖霊の存在によって心からあふれ出る復活祭の大きな喜びです。私たちの新しい服はイエス様です。洗礼の時に着せかけられた白い布は私たちの新しい服であり、キリストのことを示しています。そして、私たちを拡げた腕で迎えてくださる担任の先生は、御父である神様です。さて、このように熱く燃える心で復活祭を迎えたキリスト信者は、より大きな深い喜びを味わっています。この時、目を覚ましていれば、イエス様の死と復活による神様の偉大な働きを見ることができます。罪の中から、神様の赦しと憐みを見ました。病気の中に、神様の丁寧な指導と人生の意味の教えがありました。悲しみの中から、神様に支えられる喜びを発見しました。死の中に普遍的な神様の命が輝くようになりました。
さて今日の祝いは言葉にできないほど大きな栄光のある祝いです。祈りの時、心の中で、静かな場所で、自分たちのことを一旦忘れて、神様の偉大な素晴らしさだけを見つめましょう。そうすることによって、私たちが変わる、私たちの人生も変わる、私たちの心も変わる、私たちの周囲にいる者たちも変わる、私たちの目も変わります。イエス様がご復活された真実を大いに味わいましょう。「わたしの主が生きておられる、わたしの主に会いました!! わたしの主を見ました!! 」  Alleluya, Alleluya, Alleluya !!


皆さんに感謝の心を込めて、ご復活おめでとうございます!!
喜びましょう、大いに喜びましょう!!
                         モヨリ神父

山鹿教会の心の物語

2009年04月06日 | メッセージ(その他)
ブラジルのクリスマス!

その日、司祭は信者でいっぱいの彼の教会に入りながら、すべてに満足してつぶやいた。「信仰は人々の心の中に生きている!」
教会に集まった人々は、クリスマスのミサを祝うためにリオデジャネイロの貧しい地区からやってきた労務者たちである。司祭は信者でいっぱいの聖堂に幸せを感じながら聖なるミサを始めた。しかし、どこからともなく「A B C D…」と繰り返す小さな声が聞こえてきて、集会のじゃまをした。
司祭は、やめるように注意したが、その小さな声は続いた。司祭は声のしている方へ行き、小さな男の子にたずねた。「何をブツブツと言っているのか? 我々の祈りのじゃまをしているのがわからないのか?」 
男の子は恥ずかしさで赤くなり、涙があふれて頬を流れ落ちた。
「お前のお母ちゃんはどこだ?」 司祭は続けた。「ミサでは静かにしているようにと、お前に教えなかったのか?」
男の子は下をむいたまま答えた。
「神父様、ごめんなさい! 誰もぼくにお祈りを教えてくれなかったの。ぼくは、お父さんもお母さんもいなくて、町の道端で育ったの。今日はクリスマス! ぼくは神様と話がしたい! でも、神様の言葉がわからないの。
だから、アルフアベットの文字を全部言えば、神様は、ぼくのアルフアベットを全部聞いて、ぼくの心の中にある神様への言葉を組立ててくれると思ったの。」 
それから、男の子は立ち上がった。「ぼくは、もう行きます。神様と話すことのできる人達のじゃまはしません。」
司祭は言った。「私と一緒に来なさい。」 
男の子の手をとり、祭壇の方へ導いた。そして、信者の方を向くとこう言った。
「今晩、ミサの前に特別な祈りを唱えましょう。アルフアベットの文字だけの祈りを! 私たちが心から神に言いたいと願っている言葉を書きとめてくれるのは神です。神だけが我らの祈りを書くことができるのです。」
司祭は目を閉じて、アルフアベットを唱え始めた。 
彼と一緒に教会全体がくり返した。「A B C D…」
(牧山 文再構成)


毎週の一言 B年 主のご受難の主日 (枝の主日)

2009年04月04日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

桜は日本を代表する花です。「花」と言えば桜花のことです。日本人はこの花に、独特な感性を育ててきました。人に待たれる初花、散りゆく落花と、花の間は心穏やかではありません。日本人は花の盛衰に人生や歴史を重ね合わせるのが常です。また春になると、東や南から暖かくやわらかい風が吹いてきます。天気の良い日に川の土手などを歩いていてこの風に逢うと、しみじみと春を実感します。
さて、ミサはキリスト信者にとって感謝の祭儀であり、イエス様の最後の晩餐の死と復活の記念になっています。ミサの時に記念唱のところに、皆で「主の死を思い・・・」と唱えます。その時にイエス様の死の思いの中で、一番大きな愛のしるしを見出します。「友のために命を捧げるより大きな愛はない・・」イエス様は裂かれたパンのように、私たちに十字架からご自分の体、ご自分の心をくださいます。それをいただき、それで生きている私たちは、イエス様の死を思う時に、どのような気持ちでそれを感謝の祭儀の中で記念するのか、イエス様に従った者たちにとって、人生の中で欠かせない課題だと思います。
マルコによる福音書〈主イエスキリストの受難〉 15・1-39
「枝の主日」を迎えることになりました。今年は典礼暦によるB年の中で、神様の心を語ってくださるイエス様の神秘的な救いの歩みを辿りながら、受難の主日でマルコ福音記者の記したイエス様のご受難を朗読することになりました。この少ない解説の言葉の中で、マルコ福音記者が収録した、十字架につけられたイエス様が言われた言葉を深めたいと思います。その言葉は苦しみを背負いきれない私たちのために、私たちの日常生活における十字架を、どのように栄光と希望に変えることが出来るのかを教えてくださる言葉です。
「父よ 彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」悩み苦しむ私たちは、痛みの原因を探し求めていろんな人、出来事に理由があると考えがちなのですが、イエス様の赦しの言葉は、私たちの心に大きな平和を取り戻すと思います。人間が知らないことは数知れないほどありますが、すべて知っておられる神様は、イエス様の死に含まれた私たちの死と苦しみも、神様の限りのない慈しみと愛の中にある計画に包まれています。神様は十字架につけられたイエス様の言葉によって、何も分からない弱い人間の私たちを、いつもどんな時でもどんなことでも赦しています。いつも神様が皆の心の平和と救いを求めています。
「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃるイエス様が、ご自分の十字架の隣につけられた受刑者に、大きな喜びをもたらしました。この犯罪人が自分の弱さを認めて、イエス様に自分の希望を述べて、イエス様から素晴らしい喜びを得られました。このようなところは私たちにぴったりで、参考にならないでしょうか。
「父よ、私の霊を御手にゆだねます」神様の御旨だけを成し遂げるためにこの世にこられたイエス様が、最後にご自分の思い、心、御体を神様の手にゆだねました。私たちもそうすることが出来れば、私たちでも神様が素晴らしい計画を作ってくださるでしょう。神様にすべてをゆだねる私たちを通しても、神様は大きな愛によって、人々の間にいつも大きな喜びを蒔きつづけられるのです。
                          モヨリ神父