カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第十四主日

2011年06月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「霊的な戦いによって、勝つのはどれほど大きな喜びが得られることでしょう。
確実な勝利のためには絶え間ない戦いの覚悟は必要です。」聖フランシスコ・サレジオ

いつも大きな希望と願いごとで満たされた人々は、昔から7月7日、七夕を祝います。牽牛(けんぎゅう)星と織女(しょくじょ)星が一年に一度会うという古代中国の星合いの伝説があり、女子が手芸に巧みになることを祈る行事として伝来し、これと日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説が習合したのです。この日に詩や歌、願いごとを短冊に書き、七夕竹に吊るし、手習いの上達を祈ることが今も続いています。
さて、主の日に向かっているキリスト信者の心は希望と大きな喜びで満たされています。主の日、光の日、お日様の日は私たちに復活されたイエス様の姿を示しながら、大きな喜びをもたらしています。今日の第2朗読で聖パウロはローマの共同体に手紙を書いています。、このような共同体はパオロの時代の前に、イエス様のことを述べ伝えてきた無名の者たちによって作られた共同体でした。ペトロとパウロの訪問に育てられて少しつつ大きな共同体になり,現代キリスト教会の礎となっています。このように成長してきた共同体にパウロは手紙の中に貴重な話を取り上げています。パイウロの書簡を理解する為に、少しずつ、パウロの専門用語に親しみをもちたいと思います。それは「霊と肉」、また「命と死」。使徒パウロのローマの教会への手紙の9章11節から13節まで、霊という4回も出てくる単語に注目しましょう。まずパウロにとって神様の霊は命と力であることを示し、私たちの内に宿っています。むしろ私たちの心を肉のくびきである死から自由にされる命です。パウロは最後に私たちに一つの義務だけしか勧めておりません、それは神様の霊によって永久に生きることです。
マタイによる福音書 11・25-30
当福音書ではイエス様が自分自身を柔和なもの、謙遜なものとして紹介してくださいます。イエス様は積極的に弱い人の側を選んで、権力を振るう人を拒んでいます。これからイエス様は御父である神様に向かって祈ります。同時に、神様のことを深く理解して自分のように祈れる小さい者たち、つまり子供やそして子供のように純粋な心を持った人を高めて誉めています。聖書によると小さい者たちは、天から賜物として知恵を受けて、神様に祈ります。反対に子供のような心を持たない人は神様のことを理解せず、素直に信じられないものです。今日の福音書の個所は三つの部分に分けられます。一番目はイエス様の祝福の言葉と神様との暖かい対話。二番目はイエス様が自己紹介です。三番目は弟子たちに自分に従うようにとの呼びかけです。イエス様が法律のことで詳しい人に対比して子供の素朴な心をもった人を特別に好んでいます。法律に縛られた者、生活の中でその重さを運んできて生きる者はイエス様の言葉から解放されます。自己紹介の中でイエス様が神様のことを深く知るのは自分自身だとおっしゃいます。だから神様についてイエス様の話は確かであり真実なのです。イエス様だけが神様の心を知り、人間に告げ知らせる唯一の方なのです。この素晴らしいお告が対象になるのは、どんな人間でも一人ものこらず、イエス様の愛の目標なのです。イエス様は神様の心を私たちに理解させるために、たとえ話を通して話してくださいます。その話を受け入れて分かるのは子供たちや子供のような心を持った人だけです。この世の知恵をもった者たちはイエス様の言葉、神様の心も理解できません。イエス様に従うように呼ばれた者だけが、このイエス様の素晴らしい世界を知り身近に味わうことが出来ます。        モヨリ神父
※「くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用


毎週の一言 A年 キリストの聖体の主日

2011年06月23日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「何も要求せず、何も拒まないという金言をあなたの心の中に刻み、生きてください」
聖フランシスコ・サレジオ

梅雨の時期に長い雨が降り続き、河川が氾濫して田畑、人家などに被害を及ぼしたりすることを「出水」と言います。秋の台風の時期などに起こる出水は「秋出水」と言って区別します。
夏至は二四節季の一つで北半球では太陽がもっとも高く輝き、一年中で一番昼間の長い時です。しかしこの時期は梅雨もまっただ中である為晴天に恵まれることは少ない。この日北欧などでは白夜が見られます。日本でも北海道の北端部にそれに近い明るさが見られます。
さて、現在人間は豊かな食べ物に恵まれていますが、その中で食べることが問題になってきています。場合によって食べ過ぎることで、又一方で心身の不健康により食べ物を拒否したりすることでそれは起きています。しかし、イエス様が私たちの信仰を支えながら、「これは私の体、これは私の血」と言って「私を食べる者は永遠に生きる」とおっしゃっています。
ヨハネによる福音書6・51-58
キリストの聖体の祝日を迎えることになりました。この時、若い頃を振り返りその頃を思い出すようにすると、この祝日の意味を深められると思います。では、当時の麦秋の場面を思い浮かべて下さい。それぞれの故郷の習慣によって、キリストの聖体の祝日の時に、信者たちは教会から出て大きな行列を作って、実り豊かになってきた麦畑を通って歩いていました。「恵みのパン…いつくしみと愛に…」を歌いながら、とても身近に神様のいつくしみと愛を感じていました。麦畑をみつめながら畑の間を歩いたキリスト信者の心に、何が語りかけられていたのでしょうか。まず私たちはイエス様のたとえ話によって、一粒の麦のようなものとされています。その麦をつぶして粉にすることによって、私たちは皆で一つのパンになれます。そのパンはイエス様の体、復活されたイエス様自身です。そのパンは教会の心を現わしながら、イエス様から教えられた愛を語ってくれています。焼きたてのパンをオーブンから取り出すと家中に香りがただよってきます、それを割いて皆で一緒に食べると、私たちは一つの家族、一つの心、一つの教会、共同体であることを明らかにされます。そのパンはイエス様の言葉によって天から降ってきたパンです。つまり物理的なパンであるだけではない、心や人生も全て満たすパンです。そのパンはイエス様の肉です。イエス様は私たちに、これほどご自分を身近な存在に現わして語ってくださいます。そうして、私たちに限りのないイエス様の無償の愛の意味を示してくださいました。人間は親の愛によって生まれ、生きています。そのお母さんから受けた愛は命であり、生きる肉と血になっています。洗礼によってイエス様から限りなく愛されて、その愛は身近にパンの形で示されています。このようにイエス様が私たちの命でありながら私たちの肉と血になって、私たちと完全に結びついて下さいます。このように、キリスト信者は生きて居るものです。キリストの祝日にあたり、このような思いで心を満たすことにすれば、イエス様の言葉の「私を食べるものも私によって生きる」という真実が実現します。
                                    モヨリ神父

※「くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用

毎週の一言 A年 三位一体の主日

2011年06月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

イエス様のことを愛される皆様へ、
「その時の気分次第で掟を守れば、どんな掟も守れなくなります」 聖フランシスコ・サレジオ

豊かな緑溢れる自然の中に暮らす私たちは、緑の雲の上に浮かんでいるような気がします。しかし、毎年六月十日頃にもなれば、北海道を除いて日本列島はうっとうしい梅雨に入ります。海上の冷たい高気圧と、南方洋上の暖かい高気圧が張り合い、梅雨前線が居座って長い雨となります。この二つの高気圧の強弱により、梅雨前線が動き南下すると西日本などが集中豪雨にさらされます。
さて、神様はどこで私たちを見つけられるのでしょうか。栄光の中か、大自然の絶景の中か、神殿の中か、あるいは小さい子供の心の中か、小さい花の色にか、沈黙の中か、どこででも、あなたが神様に出会ったと思ったら、そこに神様がおられてあなたのことを期待しておられます。
ヨハネによる福音書 3・16-18
今週は三位一体の主日にあたっています。神様について、皆さんに暖かい心で話したくてたまりませんが、しかし、語ろうとするとなんと難しいことだろうと深く感じています。三位一体とは神様の自己紹介ですがちょっと哲学的、神学的な表現であり説明しにくく、神様のイメージはすぐにピンとこないと思います。神様はだれも見たことがありませんが、イエス様が身近にその心、その姿を語ってくださいます。神様に向って、祈りかたさえ知らなかった弟子達にイエス様が次ぎのことを教えました。「天におられる父よ」神様は私たちのお父さんであり、私たちといつもおられます。皆を大きな愛情で守り、慰め、支えています。このようにイエス様が神様の紹介をし続けます。「み名が聖とされますように」神様は私たちのお父さんであり、素晴らしい唯一の方です。私たちの心も大きな喜びで満たしています。そして、全てのものよりも偉大であり、全てのものよりも大切なものとなっています。このように神様の名前は高められています。「み国がきますように」神様の国は小さい者、弱い者の国でありながら、愛の国です。そしてその「国」はイエス様自身です。神の国はもうすでにあなた達の間にあるとイエス様がおっしゃっています。その時にイエス様が神の国は自分自身であることを示しています。この国はどんなことよりも価値があって、小さくても宝物のようなものです。大きな力を持ちながら、どんな人をも含んでいて大きな木のように成長し、遠くまで心の枝を伸ばしています。次に「み心が天に行われる通り地にも行われますように」神様の神秘的な心は聖霊です。つまり聖霊は御父とイエス様の心を結びながら、神様が愛で燃える心を示していますが、その愛の中に私たちのことも巻き込まれています。聖霊は私たちと一緒に歩みながら、私たちを見守り導き、私達の人生の計画を組み合わせています。私たちの過ちをいつも赦してくださいます。
では最後に、今日の福音書も聖霊の力で神様の姿が分かるように手伝ってくださいます。イエス様が御父の愛を示す為にこの世に来られて、私たちの仲間、兄弟になりながら、私たちと一緒に歩むようにしてくださいました。イエス様に担われたり、引っ張られたりする時がありましたが、愛する愛される道だけを教えてくださいました、その愛は無償で普遍的で、神様だけが出来る愛です。神様は誰も滅びてしまわないようにと望まれるので、どうぞ大きな希望を持って前向きに、皆で歩くようにしましょう、神様は私達が必ず皆で大きな喜びのあるところに狙って行ってくださり、開いた腕で私たち全ての一人一人を待っておられます
                                       モヨリ神父
※「くまもと 歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用

毎週の一言 A年 聖霊降臨の主日

2011年06月09日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「私たちは、十字架に付けられたイエス・キリストを身につけるために、
自分自身を捨て去らなければなりません」聖フランシスコ・サレシオ

花の季節を楽しんで過ごすうちに、神様の美しさを身近に感じるようになります。美しさそのものが人間の心に喜びと優しさを教えてくれています。ある有名な隠遁者の修道士は「世界を救うのは美しさである」という本を書きました。人間が美しさを見つめていくと自然に人の心に出会い、人の心のつながりも速やかに作れるようになります。近年の自然環境の悪化に伴い、各地で消えつつあった蛍も、個人や愛好家グループの地道な活動によって「蛍のいる風景」が復活し、今も保護、再生の取り組みが進められています。古来より、夏の風物詩として親しまれてきた蛍の光は、人の心を奥深い所で揺り動かす神秘的な力を持ちます。又この頃は田植えの時期でもありますが、家族皆で作業をした頃を思えば機械の音に始まり、束の間に終わる味気ないものとなっています。
さて、普通には人間が一所懸命に神様を探し求めますが、キリスト信者はそう思っていません。神様であるイエス様ご自身が私たち一人一人探し求めてくださり、ご自分の所に引き寄せて大きな愛情で包んでくださいます。そして復活されたイエス様は、自分に従って信じた者たちに聖霊をおくり、神様の愛を理解させ、数えきれない神様の働きを思い出させてくださいます。
ヨハネによる福音書 20・19-23
今年も聖霊降臨の主日を迎えるようになりました。教会の祝いの中でも、とても意味深く大切な祭日になっています。まず、教会の誕生日の祭日です。聖霊降臨と言うのは日本語の表現ですけれども、当時行われ、今も行われる聖霊の働きによって、神秘的な出来事を示していますが、ラテン語では「ペンテコステ」と言います。ラテン語の言葉は旧約聖書のイスラエル人の祝いを示しています。当時、ペンテコステの時に、イスラエル人は神様とのつながりの約束を更新し、神様の掟を受け入れることを誓っていました。イエス様が復活されて初代キリスト信者にとって、ペンテコステと言うのはまず、イエス様が復活されてから五十日後を示して、その時にイエス様がご自分の息を弟子達の上に吹きかけ、その中にいくつかの贈り物を弟子達の心の中に置くようにしました。 そのイエス様の息に含まれた賜物を検討してみましょう。イエス様の息に含まれているのはまず、イエス様の命と心です。そしてイエス様が勇気、智恵、平和、神様に対する心構えを、ご自分の息吹きと共に弟子達の心の中に置かれました。そのような贈物を大きな喜びで受け取って味わった弟子たちは、大きな情熱をもって教会の心を作ることにしました。弟子達が皆で一つの心になって、全世界にイエス様の心と言葉を広めるようにしました。イエス様の息が吹きかけられた結果により、全世界の教会が生まれました。天地創造の時に、神様が息を土の上に吹きかけたことによって人間が生まれました、同じようにイエス様が弟子達の上に息を吹きかけて、復活したイエス様の姿を示す教会が生まれました。イエス様の初代教会は、火が燃え盛るように、地震のような振動を起して、いろんな言葉によって、全世界にイエス様の心が広がりました。
聖霊降臨(ペンテコステ)は二千年前に起こった出来事だけではありません、たった今、現在の出来事でもあります。私たちの教会でも、いつでも起きる出来事です。いつも忙しい私たち、この聖霊が起こした地震の振動の中で、信仰している聖霊の働きを無視することが出来るでしょうか。喜びと情熱をもって、期待して生きていきましょう。                                   モヨリ神父

※「くまもと 歳時記編集委員会編」(くまもと日日新聞)より一部引用


毎週の一言 A年 主の昇天の主日

2011年06月03日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「なぜあせって事を運ぼうとするのですか。ゆっくり落ち着いて、物事を一つずつかたつけなさい。
その時、大いに進歩するでしょう。」聖フランシスコ・サレシオ

「万緑」とは草木のみどりが大地にみなぎる夏の景色です。中村草田男の俳句「万緑の中や吾子の歯生え初むる」により俳壇に認知、阿蘇の自然にぴったりの季語です。飛行機の窓から阿蘇を見ると、マグマに舐め清められた山肌が目に飛び込む、そのはるか手前に広がる草千里も緑の絨毯である。
私たちはより大きな幸福を求めながら、ずっと動いたり走りまわったりしていますが、イエス様が準備してくださった場所は、神様の腕の中です。神様の愛、神様の暖かい存在に包まれた人が心の平和、大きな喜び、自分のやすらぐ場所を見出すことになります。、
マタイによる福音書 28・16-20
6月5日主の昇天の祭日にあたり、私たちの目はイエス様の弟子たちの目と同じように上に向い、天国に上げられるイエス様の姿を見つめています。このようにイエス様の弟子たちが、寂しい目で自分の人生から消えてしまうイエス様の姿を見ていました。実は、いつも弟子達のためにより大きな喜びを求めてきたイエス様は、このような行動によって、弟子達のために、より深いメッセジを残してあげたかったのです。弟子達の目の前で、自分の姿が消えようとしているイエス様は、弟子達に思わぬ大きな喜びを備えていました。まず、再び会う約束をしました。山の上、またイエス様が歩いておられたガリラヤの町で、同じように、又この世の歩みを完成する時に、いろんなところで確実に再び会えることになると約束しました。それだけではなく、弟子たちと自分に従った人に、支えとしてずっと一緒にいるように予言されました。その時イエス様が約束として、一所懸命に自分を信じる人にまた同時に疑っている弟子達にも結び会う絆として、全ての人は神の子であること、また皆が父と子と聖霊によって、つまり神様に大切に愛されていることを告げ知らせました。だからイエス様の昇天はこの世から、あるいは復活してから、弟子達の目が見たように消えてしまうイエス様ではなく、むしろ神秘的な方法でイエス様がご自分を信じるものたちと、別の方法でずっと共にいるように約束の時でした。そして同時に、ずっと私たちと一緒にいてくださるイエス様の姿と、どこで会うかを教え残しました。実はイエス様を信じた者たちは、イエス様とどこででもどんな時にもどんな人の心にもずっと一生一緒にいてくださり、いつでも再びお会いすることが出来るのです。天に上げられるイエス様が、人類も高めて天に上げられています。その時に人々は神様のものになり、神様とひとつになっています。復活されたイエス様が昇天によって、人類の間に違った形、神秘的な方法で自分の存在を示されています。イエス様の存在を信じる人には認められ、疑う人にも見られています。イエス様に出会った、信じた人は、イエス様から全世界に派遣されてイエス様の言葉を告げ知らせています。欠かせないことは、イエス様が派遣された人々と共にいつもおられて、いつまでも一緒にいて働いておられるということです。(インマヌエ―ル)
モヨリ神父。

※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊日新聞)より一部引用