カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 主の公現の主日ー2010元旦ー神の聖母

2009年12月31日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

迎春 新年おめでとうございます!!
かつて正月用意として餅搗きは、一家総出の行事で、そのにぎやかな掛け声や杵の音を聞くと、一足早くそこに正月が来ているようで嬉しかったものです。一年の節目である大晦日の夜が「除夜」です。「大年」「年の晩」「除夕」ともいわれるが除夜が一般的です。正月の準備も整い、各家庭ではテレビの前でくつろぐ。やがて除夜の鐘を聞き一年の善、悪をみな取り除いて、めでたく新しい年を迎えるのです。以前この夜、子供たちの枕もとに下駄、独楽、羽子坂などが置かれ、楽しい夢を育んだ思い出があります。冬の厳しい寒さの中、水仙の小さくかわいらしい花が咲きます。水仙は雪が降る中でも咲くので「雪中花」の別名ももっています。水仙は地中海沿岸が原産で、その昔、シルクロードから中国を通って、はるか日本まで伝わってきたといいます。24節季の小寒と大寒を迎えても場合によって、晴れて暖かい日があって、お日様は青空の中から地球を暖かく照らします。小春日和といいます。これと同じように秋から初冬の暖かな日を表す言葉が海外にもあります。アメリカでは「インデイアンサマー」と言います。ドイツでは「老婦人の夏」、ロシアでは「女の夏」など、海外では夏と表現しているところが多いようです。中国では「小陽春」で、日本でも同じく春と表現されています。このような豊かな思いの中でキリスト信者も新しい一年に向かって、神の聖母を祝いながら、心と世界の平和を祈り求めて、全世界に救い主が生まれてきたことを告げ知らせることを望んでいます。それが今度の主の公現の主日の意味です。
ヨハネ福音書 1・1-18
イエス様を信じた者の共同体は神の子、神の国の一部であり光としてイエス様を受け入れ、大きな喜びの中で全てを神様からいただいていることを感じています。神様の光は人類に与えたられた知恵であり、それによって人は神様の思い、イエス様を通して示された愛を理解します。当福音書の主なテーマは「光」と「命」です。言葉であるイエス様は「本当の光」です。「言」とは道「どう」とも読めるのでイエス様がおっしゃったようにご自分が「道」「真理」「命」であることを示しています。み言葉は(イエス様)肉となって人類にとって光―命となりました。それを得るために人はみ言葉であるイエス様を人間と神様として自分の心、自分の思い、自分の人生に取り込んで受け入れています。み言葉としてイエス様を受け入れる人はイエス様に従って同じように行うのです。つまりイエス様の使命をキリスト信者はこの世で自分の人生の中で行いつづけています。神様の知恵は神様の口から宣べられた言葉になって、イエス様と同じように人類に贈られました。知恵は人類の間に宿るようになって、知恵を通して、知恵と共に人類は神様に礼拝します。むしろみ言葉の知恵を通して神様が人類とのつながりになって、人類を神様の方に向かわせながら、神様が人類にご自分の顔を見せています。人類の根本的な使命は神様の秘められた普遍的な宝を知ることです。このような思いの中でイエス様が人類の間に生まれて太陽のように私たちの目の前に昇ってきました、このような暖かい光に照らされて、東から来られた三人の博士と同じように、太陽の中で秘められた神秘的な世界をずっと仰ぎみるようにしましょう。      
モヨリ神父

毎週の一言 C年 聖家族の主日

2009年12月24日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

初雪はその冬、初めて降る雪をいいます。たいていの雨は夏でも上空では雪や氷片であり落下中にとければ雨、とけなければ雪となります。それは気温に関係し、地上の気温が零度以下なら雪、七度以上なら雨、その間では雪のこともあり雨のこともあります。山も冠雪をいただき大自然もクリスマスの準備に入りました。この頃周囲に目を向けてみると色々なところでクリスマスの飾りが目立ちます。確かに2000年前からイエス様の誕生を祝うキリスト者たちが社会、文化、貿易にも大きな影響を与えましたが、人の心にも素晴らしいメッセージを伝えられたと思います。イエス様の誕生を知らない方でも、クリスマスのメッセージ、その優しさと喜びを素直に受けてお祝いします。賑やかな飾りはクリスマスの喜びを表現します。その喜びは神様と人類の接点から始まります。神様はご自分の胸元に人間一人一人を抱き寄せながら、ご自分の欠かせない愛情を示しました。人類の歴史、神様の歴史も一つになり、両者一緒に歩き始めました。神様がご自分のことを弱い少女の腕にゆだねながら、人間の救いの計画を望まれる神様の思いの心を明らかにされました。そのように神様と人類が神秘的に結ばれています。キリスト信者にとってクリスマスの核は大きな喜びです。それは神様ご自身が人類のための贈り物になって、人類が神様の懐の素晴らしさを見出すことが出来たのです。
クリスマスは子供用の優しい物語だけではなく、過去に起こった出来事の記念だけでもありません。私たちの心の中で、生きておられる神様の普遍的な愛を祝う時です。プレゼントを見る子供の目が輝くように、キリスト信者は神様から頂いた贈り物のように馬小屋でお生まれになった幼いイエス様を見つめて、目も心も輝いています。
ルカの福音書2・41-52
降誕祭の時に神様が人類に与えた命、愛情も皆の間に宿るようになりました。それを置かれたところは家庭です。降誕節の第一の主日が聖家族の主日でお祝いされるのは、人間の間、家族の間でそれは神様が置かれた愛情の暖かさを思い起こすためです。聖家族、つまりイエス様、マリア様、ヨゼフの家族は神秘的な私たちの家庭の模範と手本になっています。ヨセフとマリア様はエルサレムから帰る途中でイエス様の姿を見失って、慌てて心配しながら探していました。神殿で少年イエス様を探し当てた時にイエス様の答えは親に向かって「…わたしが自分の父の家にいるのはあたり前だということを知らなかったのですか。」というものでした。確かにヨゼフとマリア様にとって、分かりにくい言葉でした、しかしその言葉もヨゼフとマリア様が耳にした時、同時に私たちの心にも良い知らせ、福をもたらす音「言葉」になりました。イエス様がこの証言によって、ご自分が人間でありながら神の子であることを示し、又与えられた使命、神様の思いに従いながら神秘的な存在を伝えてくださいます。
イエス様の親との絆、神様とのつながりはキリス信者にとって参考になっています。洗礼を受けて神の子となったキリス信者は自分の家族の絆を大切にし、神の子として人生を送ります。同時に親である者たちも神様と一緒に、その父性とその母性を分かち合っていて神様と一緒に親になり、創造主である神様と一緒に愛の中で新しい命を創造します。親たちは自分の子供を見て神様と共に「君は私の子」と言えることになります。このようにご自分の両親に対する少し冷たいイエス様の答えは、実際に再び良き知らせとなったのです。               
                          モヨリ神父

心から クリスマス おめでとうございます!!

2009年12月21日 | メッセージ(その他)
ここまで菊池ー山鹿カトリック教会のブログを大きな勇気と忍耐をもってクリックされた皆様に心から、素晴らしいクリスマスを迎え、大喜びで満ちたクリスマスや幸せなクリスマスを願い、おめでとう申し上げます。一人ひとりがこの時だけでもすべてのご自分の人生の苦しみを忘れて、神様の神秘的な愛情だけを味わうようにお祈りいたします!!
カトリック菊池教会とカトリック山鹿教会の馬小屋をごらんになってください!!。

毎週の一言 C年 待降節第四主日

2009年12月18日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

稲刈りの終わったあと何も作らず、そのままにした田圃を冬田といいます。そして冬の間、霜や氷雪にあいながら、地方を回復させ春の耕作に備えます。冬に進み秋分を過ぎると日一日と昼間の時間が短くなり、冬至のころが最も短くなります。冬季は全体に短日ですが、特に北風が吹き街路樹が葉を落とし枯れ木一色の景色に年末の忙しさが加わると、人はよりこの頃の「短日」を実感します。
先週の朗読によって典礼から大きな喜びを味わうように勧められています。降誕祭の身近な準備の聖なる九日間に入りました。今年も羊飼いのように、三人の博士のようにイエス様がお生まれになった所に何を持っていけばいいでしょうか、羊飼いは自分の労働の実りを、三人の博士は人間の希望を満たす贈り物をイエス様の前に置きました。私たちの場合、洗礼者ヨハネの言葉に導かれて考えてみたいと思います。たとえばイエス様の飼い葉桶の前に置けるのは、人との心の分かち合い、自分の持っていることへの満足感と感謝の心、人を慈しみの目で大切にする心などです。洗礼者ヨハネだけではなく、マリア様の姿も、おいでになる神様をどのようにして迎えるべきかの模範になっています。確かに生き生きとした福音書は参考になります。
ルカによる福音 1・39-45
待降節の第四主日は降誕祭の目前です。マリア様の母の心を紹介しています、マリア様はどのようにしてイエス様の誕生を期待されたのか、私たちにとって模範になります。
天使ガブリエルから告げ知らせられた「しるし」によって、イエス様がマリア様の心に宿るようになったことは、マリア様にとって大きな喜びの中にも隠せない心配もありました。その後、マリア様は自分のいとこエリサベットのところにいって、その出会いと対話によって神様から頂いた「しるし」、それが神様の憐み深いやり方であることを確認されました。それだけではなく、神様の「しるし」に明確に目を開かれた時に、マリア様の心の中から素晴らしい歌がわき出て、私たちにとって大きな喜びの歌となりました。弱い立場に置かれたマリア様もエリサベットも、神様の恵みを受けて身ごもりました。二人とも神様の救いの計画の道具となってメシアの誕生を迎えています。マリア様はご自分の心の中で起こった素晴らしい出来事がエリサベットの心の中でも起こったことを知り、神様の神秘的な計画を確かめることになりました。これほど弱い者でありながら、これほど神様に恵まれた彼女らの喜びは素晴らしい歌にかわったのです。エリサベットから、やがてこの世にメシアが来られる準備をされる方が生まれようとしています。昔から旧約聖書において予言されたメシアの到来が実現しようとしています。このように人類にとって神様との新しい出会いが始まります。神様の姿である肉となったイエス様は新しい神様との礼拝の場になりました。同時にマリア様は神様のお母さんになりました。このような神秘的な計画の中で、聖霊の役割はとても大切で、目逃せない働きです。聖霊はすべての出来事の原動力であり、マリア様の心の中に神秘的な命を置かれました。マリア様は聖霊の力に満たされて、その存在によって、エリサベットの身ごもった出来事を理解され、神様の望まれる人類の救いの計画に自分自身をすべて委ねられました。 

                             モヨリ神父
          

毎週の一言 C年 待降節第三主日

2009年12月11日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

今年も12月7日頃からいよいよ本格的に寒さが厳しくなり、冬将軍の到来を予感させる季節です。山の峰は雪に覆われています。冬の気配が次第に濃くなり、木々の落葉が散り敷くころ強い北風の吹くことがあります。枝に残っていた木の葉もすっかり吹き払われ、木を枯らしてしまいそうなところから「木枯し」といいます。また「山眠る」とは葉が落ち尽くし枯れ色に静まった冬の山を擬人化したものです。
さて、12月の初めから馬小屋の方へと歩み来た友は何人いるでしょう、ご紹介したいと思います。12月3日フランシスコ・ザビエルの祝日でした。フランシスコ・ザビエルの情熱は自分のところに止まらないで世界に向かい、その希望と情熱は皆の心の中に確かに残ったと思います。12月6日に福音書の中で登場したのは洗礼者ヨハネでした。神様の方に行く道を示してくださり、積極的に神様のところに行ける道について案内してくださいました。12月8日無原罪の聖母の祭日でした、マリア様は神様を見る清い心を現わしてくださいます。神様との出会いを求めるキリスト信者は、フランシスコ・ザビエルの情熱、洗礼者ヨハネが勧められた回心と徹底的な準備、そしてマリア様の清い心に支えられて、この世に来られる神様を迎えます。イエス様は幼子の姿で神様として私たちのところにやって来られ、私たちの人生や心も大きな喜びで満たされます。この時こそ「待降節」の中の「降る」という字の意味が明確にされます。神様の恵みがマリア様を覆われたように、イエス様に従った私たちのことも包んでくださいます。この時にキリスト信者はマリア様のように恵まれた者として、また洗礼者ヨハネのように自分の人生を神様の計画にゆだねます。そして聖フランシスコ・ザビエルのように神様に派遣されて、全世界の全てのところに神様がこの世にもたらした愛を告げ知らせます。
ルカによる福音書3・10-18
当主日の朗読では、この世にイエス様がもうすぐ来られるという大きな喜びが中心的な話になっています。神様の人類の救いの計画は過去から徐々に実現されて、未来の完成の方に進んでいきます。洗礼を受けたキリスト信者は自分の救いを歴史の中で読みとっていて、ずっと神様との再会を求めています。「喜び」というのが第一と第二朗読の課題であり、その背景の中で福音書の意味も読みとるべきです。イエス様が「断食する時(回心)、油を塗り、顔を洗いなさい…あなたの父は報いてくださる!」と言われたではありませんか、だから、ふさわしくメシアを迎える為に洗礼者ヨハネが勧められた心の回心、犠牲なども必要な準備です。救い主が来られることは皆にとって、限りのない大きな喜びの時です。当個所は解説者によると、ルカの共同体において行われた洗礼志願者の準備を書かれているとのことです。求道者の心の中にある質問は、当個所の中心になっています。「私たちはどうすればいいのですか。」洗礼者ヨハネは回心を求める人に心を配ること、正義を行うこと、困っている隣人を愛することを勧めています。このように神様は小さいもの、この世が憎むものを愛しているのです。その中に罪人、社会に嫌われた兵士たち、法律を知らない者は皆、神様に愛されて神様に近づくことができます。誰も神様から追い払われていません。どんな弱い人間でも神様に探し求められているのですから、それは人間の喜びの理由であり、キリスト信者の終わらない喜びの泉です。                 
                         モヨリ神父

毎週の一言 C年 待降節第二主日

2009年12月03日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、
紅葉は山から里へ。九州でも高い山ではそろそろ紅葉は色あせ始め、見ごろは終わりつつあります。このところ朝の冷え込みが弱いことが気になりますが、来週に入ると冷気が流れ込みやすくなり、気温が下がってきます。朝の冷え込みも強まるため、菊池の紅葉も進みそうです。この頃夜間に遠くの音が聞こえることを「夜声八町」(よごえはっちょう)と言います。「八町」は約870メートルの距離です。一般に、気温は上空にいくほど低く夜間に放射冷気却が強まると、上空より地上付近の気温が低くなり、その時地上から発せられた音は空で屈折して、より遠くへ届くようになります。従って、「夜声八町」は冷え込みの強い夜に起こりやすいのです。                待降節第二主日を迎える私たちの心の中で、クリスマスに向けていくつかの思いが浮かびます。特別に「待つ」と言う事です、待つ心は期待することによって生き方の態度も変わってきます。たとえば家族が夜おそく帰ってくるお父さんを待つのは大きな心配を伴った思いの中で、どれほど帰ってくることを期待するでしょう、理解しやすい例えだと思います。詩篇で例えられる日の出を待っている番兵も、夜の怖さを乗り越え上ってくるお日様の光と共に自分の心の喜びも上がってきます。もうすぐ子供が生まれてくるお母さんの期待する心も、やがてイエス様の到来、雲の上からやってくる救い主の期待のために参考になります。み言葉によってイエス様の身内になった私たちがイエス様の帰りを心から期待しています。日の出の光よりも私たちの人生を照らすイエス様が来られることを待ち望んでいます。愛されて、愛するお父さんのように待つ救い主は私たちの人生や働き、思いも満たしてくださいます。私たちの家にやってくる赤ちゃんのように、新しい命は私たちにとってかかせない存在であり、私たちと一緒にずっと歩みつづける神様です。このような神様の訪問を期待するキリスト信者にとって待つ方法はクリスマスまで大きな課題になっていますから、それに答えるためにルカの福音書は素晴らしいヒントを通して手伝ってくださいます。
ルカによる福音書3・1-6
イエス様がやがて来られる準備のために、私たちと一緒に歩みつづけるのは洗礼者ヨハネです。教会の初期のころから、洗礼者ヨハネは旅の友として選ばれ、キリスト信者と一緒にやってくる救い主を待つ心の模範を示していました。当福音書は全部洗礼者ヨハネ中心にして、洗礼者ヨハネの預言者としてのその活動を語っています。神様が土から人間を作ったように、砂漠から洗礼ヨハネを呼び出して救いの計画を創造します。洗礼者ヨハネは自分の厳しい生き方によって、自分の言葉を通して、自分の人生の締めくくりによって、牢獄で救い主の証となっています。洗礼者ヨハネは私たちと信仰の道を歩みながら、神様の方へ導く道を教えてくださいます。実はこの道は私たちの心の中に働いて、神様の方へ心の回心を行います。「心の回心」とは一所懸命に洗礼者ヨハネに勧められた心の働きですが、実際に愛と慈しみに満ちた心でイエス様を知ること、弱い者を助けること、神様の正義を見せる行いです。待つのはキリスト信者にとって、道端でだれかが通るのを漠然と待つのではなく、洗礼者ヨハネと一緒に回心の道を歩みながら、情熱と愛で満ちた人生と働きによって、神様との出会いを心から待ち望むことです。
                            
 モヨリ神父