カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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先月のできごと(2014年3月)

2014年03月31日 | 先月のできごと



<3月2日 ミサの中で、ひな祭りの祝福>






<3月9日 洗礼志願式>



・・・菊池教会(3月のできごと)・・・


・3月 2日(日)

 3月3日「ひな祭り」を祝し、信者のお孫さんに健やかな成長を願い、神父様が祝福されました。


・3月 9日(日)

 四旬節第一主日のミサの中で、「洗礼志願式」が行われました。3名の方が、洗礼を受ける意志を皆さんの前で表明され、神父様が、復活祭に入信の秘跡を受ける人として選ばれたことを宣言されました。


・3月15日(土)

 教会敷地内の樹木の伐採作業を有志の皆さんで行いました。年明け後、3回目でしたが大きな木の枝を下ろし、すっきりした樹木から新たな息吹(新芽)が出そろい始めました。





A年 四旬節第四主日

2014年03月24日 | 神父様からメッセージ(A年)
わたし達の復活祭までの歩みは、四旬節の第四の日曜日になりました。中心になる課題は、洗礼の時に得られた信仰、その時注がれた聖水、そして油で塗られたことによって神の子として選ばれた喜びです。
ところで、よく人間は盲人のように生きていると言うような言い方をしますが、ヨーロッパでは、人間は自分の鼻の高さの距離までしか見えないということわざが有ります。
さてここに、人間が暗闇の中に生まれて生きることを語る小さな物語があります。
「一人の女が犯罪の現場で捕らえられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井に空いている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」さて、全ての人間もまったく同じ状況だと言えないでしょうか。
「ヨハネによる福音書」 9・1-41
 福音書の中のイエス様に出会った盲人と、現在の人間にとっても見えない状況の中で生きているのは同じです。けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださる、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいる者達に神様の存在を見えるようにしてくださいます。
上記のような課題で、わたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人と同じ経験をすることになります。それはどういう事かと言うと、実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのです。しかし神様からいただいた信仰によって、つまり心の目で、わたし達の日常生活の中に神様の存在とその働きを見ることができるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは、折々に周りからもたらされる小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印の中で、神様を信じることによって、神様から愛されたことを見出し、神様へも人へもその愛を返すことが出来ます。さて最後に、洗礼の時に受けた光を思い出して、その光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。                  
                                      モヨリ神父


A年 四旬節第三主日

2014年03月20日 | 神父様からメッセージ(A年)
第三の日曜日にあたり、主日の喜びは洗礼志願者の存在でも飾られています。洗礼の準備のために、四旬節は年間中もっともふさわしい時期ですが、毎週典礼から勧められた福音書も、洗礼式の神秘的な内容と価値を紹介してくれています。キリスト信者は四旬節の間精神を高め、人生を見直します。特別に共同体の中で赦し合うことと心くばりを大切にして、神様の慈しみを伝えることです。そして謙虚な心も欠かせないことです。私達の主はイエス様だけです。キリスト信者はイエス様の真似をしながら、何も自慢せずイエス様の姿を先にして世界に示しています。それだけではなく、いつも仕える者になるのです。
「ヨハネによる福音書 」4・5-42
 当日曜日の福音書は、イエス様がサマリアの井戸で出会った婦人との対話を語ってくれています。暑い日中のお昼ごろ、喉が渇いたイエス様がサマリアにあるシカーの井戸に近寄った時に、信仰へ導く話をある婦人に仕掛けました。その対話の結果、婦人はイエス様に対する信仰だけではなく、自らの人生を見つめてそれを見直すようになりました。実は心の中でイエス様に出会う人が、イエス様を信じることによって、自らの人生を見つめ、自分自身をさえ再発見することが出来ます。そこから自分の人生も見直すことが出来ます。サマリ人の女との出会いが語られる聖ヨハネの福音書が、とても象徴的な話しで細かく書かれているのは、洗礼を受ける人のための重要な手段であり、同時に一般のキリスト信者の為には信仰に達する道しるべです。まずイエス様はメシアであること、そして丁寧に自分のことを紹介して、救い主であることを公に明らかにします。サマリア人の女の信仰への歩みを語りながら、三つのテーマが強調されています、第一「水のシンボル(象徴)」、第二「どこで、、どのように神様を拝むか」、第三「メシアはどのようなものなのか」と。それに加えられたのはいろんな役割を果たしたサマリア人達のことと、イエス様の弟子たちの反応についての話しです。聖書によるとユダヤ人にとって、水は法の中に含まれた智恵を象徴していました、だからいつも法の中から智恵を汲むことが出来ました。イエス様にとって水は、聖霊の命を象徴しています。だからわたし達が汲むべき井戸は、智恵と霊で満たされているイエス様自身のことです。それからサマリア人の女も、わたし達にもその井戸の中から普遍的な「水」を汲むように勧められています。イエス様の井戸からわたし達が汲むのは、聖霊の力、人生を導く智恵です。だから聖霊と智恵に導かれているわたし達の行いは、法に縛られている行いではなく、愛の霊と智恵に満たされた自由な行いです。同じように、このような井戸に水を汲むことによって、神殿でだけではなく、どこででも自由に自分の日常生活の中で、自分のよい行いを通して、神様を拝むことが出来ます。わたし達の人生を満たされるのは、欠かすことの出来ない唯一のメシアであるイエス様です、それが分かったサマリア人の女、それに従ったサマリア人達、イエス様の弟子達も、救い主であるイエス様の福音を多くの人達に告げ知らる事になりました。        モヨリ神父


A年 四旬節第二主日

2014年03月12日 | 神父様からメッセージ(A年)
  四旬節の第二の日曜日にあたり、ますます復活祭への準備を進めながら心の大切さも深まり、信仰の主なテーマを皆さんも思い巡らししていると思います。四旬節は復活祭に洗礼を受ける者にとって、特別な準備の時になっています。その準備の進みの中で、教会では独特な言葉が使われています。まず「光」というのは神様の存在を示しています。それだけではなく、洗礼を受ける者にとって信仰の光は新しく人生を照らし、人生の色々な出来事の中に神様のみ旨を見出し、神様の働きを身近に感じるように導かれています。
 次に洗礼を受ける者が体験することは、心の自由です。自由に生きる経験は、喜びの中で生きることです。そして愛する人の為に生きる時に特別にわたし達の心は自由の中に生きることを経験します。四旬節の間に復活祭に洗礼を受ける者達はこのような経験をします。このように生きようとすれば、つまり光の中に、神様だけを愛しながら自由に、豊かに自分の人生の喜びを味わい、復活祭の時にイエス様と共に蘇えり、いつまでも神様の懐の中で生きることが出来ます。母である教会からキリスト信者に、この四旬節の間に特別な過ごし方を勧められています。それは少しでも節制することです。けれども、特別に神様が一番好む節制は、祈ること、そして神様の言葉を受け入れ深めながら、それを自分の人生の中に生かすことです。
「マタイによる福音書 」17・1-9
 四旬節の第二の日曜日の福音書のメッセージを、もう少し深めてみたいと思います。イエス様がご自分の神秘的な心を現す時、選ばれた弟子達の前でご自分の姿を変えました。そして同時にイエス様の傍にいた預言者エリアと立法を象徴するモーセの姿も一緒に現れました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの前でイエス様が、ご自分の姿を変えた時に弟子達が非常に喜びながら、驚き、神様を見、身近に神様との出会いの経験をしました。その時、弟子たちはイエス様が神の子であることを悟りながら、神様は美しいものであり、美しさそのものが神様であることを実感しました。このような神様の姿を見て、弟子たちは大いに喜びました。永久にあのような神様の姿だけを味わい見つめていたかったのです。ペトロは「こちらで三つのテントを建てましょう、ここに居ていただくのはわたし達にとって素晴らしいことです」と言い、当時の弟子達の気持ちを現しましたが、神様に出会うキリスト信者も同じようなことを感じています。よく考えてみれば、わたし達にとっても、日曜日に教会に行くと神様の姿がわたし達の目の前に現れて見えるのです。辛い現実も素晴らしい姿に変わります。それだけではなく、聖櫃におられるイエス様のパンやわたし達の周囲にいる共同体の者達も、一つにになって祈る時に、すばらしい神の子であるイエス様の変わられた姿を見つめることができます。だから、日曜日に皆で一緒に集まって祈るのは、本当に素晴らしいことです。ずっと永久に居たい所です。弟子達と同じようにずっとあのようにいいたいのです。けれども弟子達の前でイエス様の姿が消えたように、わたし達も同じように、日常生活に戻らなければなりません。戻る時に、平安を得た心に大きな喜びをもって、日常の役割を神様の思い通り果たすことが出来ます。
                                モヨリ神父


A年 四旬節第一主日

2014年03月04日 | 神父様からメッセージ(A年)
  岩の上に置かれたキリスト信者の人生は、毎年「灰の水曜日」で四旬節に入り、復活祭への準備が始まります。四旬節は心の準備の時季であり、初代教会のときから、教会の伝統によって、勧められた方法があります。まず、自分の心の中の人の目がない所で、神様との出会いを求め、神様の言葉に耳を傾けることです。次にしるしのような行動を三つ勧められています。断食、施し、そして祈りです。このような修業をすることによって救われる、神様の愛を得られるということではありませんが、このようなしるしによって神様の心を深く理解し、それを自分の人生の中で受けとめられるようになります。断食するのは感謝の心が育つ方法であり、より深い霊的な世界を見出すことが出来ます。施しをすることによって、神様の愛にたいして恩返しをすることになります。キリスト信者は自分が神様に愛されたように人を、特別に弱い者を心を込めて愛します。また祈りは神様の心とふれあう場となります。神様の言葉に耳を傾けながら、自分の人生を開いて神様の愛の計画を取り入れましょう。 
「マタイによる福音書」 4・1-11
 四旬節の第一日曜日の福音書の内容に注目しましょう。それはイエス様が砂漠で受けた誘惑の物語です。根本的に弱い人間は、人生の様々な時にこそ誘惑に襲いかかられるものです。その時人間は、悪の魅力に捕らわれ、簡単に様々な権力を獲得するように悪魔から勧められます。しかし、イエス様は神様のことだけを選択するように呼びかけられています。誘惑が襲いかかる時に、わたし達は神様の力に支えられて、神様のみ心の通りに行うようにイエス様から教えられています。イエス様はまず、苦しい状況(砂漠)の中でより簡単に自分の人生の行き先を求め、また自分の名誉だけを望むように悪魔からすすめられました。しかし神秘的な力によって、イエス様は神様のみ心だけにご自分の人生を捧げるように選択して、悪魔を追い払いました。普通誰でも、神様に祈る時に神様の意思を自分の意思に合わせるようにしがちです。しかしそれは、人の人生にとって陥り安い誘惑です。イエス様がそれを拒否するように教えながら、神様だけを選び、自分に従った者たちに大きな力を与えてくださいます。神様は人間が耐えられない誘惑は与えられないのです。誘惑にあった時に耐えられる人は神様に祝福されています。イエス様は砂漠で歩いていたイスラエル人が誘惑を受けたように試練を受けられました。神様に愛されたイスラエル人はその誘惑に負けて、神様から離れてしまいました、しかし神の子であるイエス様は、その同じ誘惑を退け、神様の心を誉め讃えながら、最後まで神様のみ旨に忠実に従われました。
                                    モヨリ神父

先月のできごと(2014年2月)

2014年03月01日 | 先月のできごと


・・・菊池教会(2月のできごと)・・・


・2月 9日(日)

 2月11日「ルルドの聖母の記念日」を祝し、教会内のマリア様像の前で、「あめのきさき」を皆さんで歌いお御堂まで歩きミサに臨みました。



・2月11日(火)

 菊池教会敷地内と旧聖母幼稚園内の大きくなった樹木の伐採等を有志で行いました。3月も実施予定です。