カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 46 「復活節第二主日」

2008年03月29日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ

菊池教会の桜も次々に開花して、空がピンクに染まっています。教会もピンクの雲の中に包まれているような姿で、雲の中で復活されたイエス様が立っておられる様を思わせます。 まだまだ沢山の蕾が時折の寒風に開くのをためらっていますが、満開になるのもそう遠い事ではないでしょう。
  さて、わたし達はまだ復活の八日間の間イエス様が復活されて現れた出来事の、復活されたイエス様の姿、弟子達が見た事、イエス様と弟子達との出会いなどを、まるで美味しいケーキの香りのように、花畑の美しさのように味わっています。
 復活を知らされ、恐れながらも大いに喜ぶ婦人達に、イエス様は「おはよう!」とおっしゃっています。つまり言い換えれば、私はいつでも早く来てどこででもあなた達のことを待っていると知らせたのです。その存在に気づいて泣いていた婦人達は近寄ってイエス様の足を抱き、その前にひれ伏し大きな喜びを味わいました。 一方、エマオの方に歩く使徒達も大いに悲しんでいました。けれども、道の途中見知らぬ人から、聖書の言葉によってイエス様が復活されたことを説明された時に、彼らの心が燃えていました。最後に、宿でイエス様の姿を見い出した時、彼らの心は喜びで溢れました。そして弟子たちに現れたイエス様は、自分が普通の人のように肉と骨をもっている人間だと、それだけではなく弟子達と一緒に食事も望まれると明らかにされました。つまり、復活されたイエス様は亡霊のようなものではなく、むしろ弟子達と一緒に生きておられるものだと明らかにされました。それを知った喜びは弟子達の人生に及んで、生き方まで変え、皆にその喜びを告げ知らせました。
  最後に復活節の第二主日の福音書の内容ですけれども、何でもすぐには信じがたいトマスと言う弟子はイエス様の復活、つまりイエス様が生きておられることを信じなかったのですが、イエス様が弟子達に現れた時、トマスにもご自分の体、ご自分の傷跡を見せ、触れるように勧められました。それによってトマスは信じました、けれどもイエス様がその時に強調したのは、復活されたイエス様の姿を見ないで信じた者は幸であると言うことです。同時に、わたし達は復活されたイエス様を信じる時に本当の幸せ、永久の幸せ、いつまでも大きな喜びを味わうものであると宣言されました。              モヨリ神父

《お知らせ》
† 毎月の第一と第二の木曜日、午前十時から信徒会館で、イエス様のたとえ話の勉強会 があります。信者でない方でも参加ができます。

毎週の一言 45

2008年03月22日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

ご復活おめでとうございます‼ 大自然と共にわたし達の心の命、わたし達の夢がイエス様と一緒に復活しています。大自然も春分の日とお彼岸を迎えた後、すっかり季節は春になり、新しい服に着替えたような気がします。春は花嫁のように綺麗で、さわやかな香りに包まれ、各家々の庭、野や畑、山に抱かれた森の中にも、春の入場を見る人の心を豊かな喜びで満たしています。
イエス様が復活しました。 イエス様は人類の罪、人類の弱さや苦しみを背負い、それを神様だけが持つ普遍的な力、愛の力によって死の闇を乗り越えわたし達に赦しの復活、喜びの復活、命の復活を教えてくださいました。言い換えれば体と心、心身で命の尊さを諭されました。今日、復活祭の喜びを味わいながら、この神秘的な出来事を深めるようにしましょう。聖書によると、週の初めの日、婦人達が朝まだ暗いうちにイエス様のお墓に着いた時、それは空っぽでした。そこに葬られたはずのイエス様の遺体はなかったのです。婦人達がイエス様の姿を見ようとしても見当たらなかったのです。あの時の婦人達が感じたことは誰でも理解し易いと思います。彼らはすでにイエス様のご受難によって、心を騒がせていました。その上お墓の石が転がされていて、イエス様の遺体は見当たりません。彼らの心は大きな痛みで抱かれました。しかしその時、体の目は心の不思議な光に照らされて、天使たちの声を通してイエス様が復活されたと悟りました。聖書に書いてある通り、イエス様は、お墓で蘇えられ輝いた姿を現わされました。それに気づいた婦人達の心は大きな喜びで満たされて、走って行きその素晴らしい出来事を告げ広めました。
わたし達の場合、神様の不思議な恵みによって洗礼を受けましたが、どのようにイエス様の復活の体験を日常的に言葉で語ることができるのでしょうか。まず、人間が自分の人生が暗い時、苦しい状況の中、死の恐怖の中で神秘的な方法でイエス様と出会うことが出来ます。わたし達が苦しんでいる時にこそ、イエス様は特別にわたし達のすぐそばにおられます。その時わたし達の力でその姿を見ることは出来ませんが、神様が送ってくださった心の光によって、イエス様の輝いている姿を見ることが出来ます。自分が苦しんでいる時に、失望した時に、その場でわたし達の苦しみを分ち合ってくださるイエス様のことを思い出すようにすれば、イエス様が約束された通りに、その出会いを実現することが出来ます。その新たな出会いによって、わたし達は大きな喜びを味わい、死から命の素晴らしさを見出すことができます。罪を赦されたわたし達が、愛する愛される自由を覚えた人間になれるのです。又、イエス様が十字架上で送り出だされた息吹によって、イエス様と一緒に復活し、永遠に生きることになります。「今日私と一緒に楽園にいる」復活とはキリスト信者にとって欠かすことのできない人生の経験です。それは自分自身を深く生きることによって、イエス様がもたらした救いの意味を身近に理解することが出来るのです。
   モヨリ神父

毎週の一言 44

2008年03月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
   2008・3・15(土)NO・47
イエス様のことを愛される皆様へ、

教会の庭の木蓮はもう美しい花を咲かせています。それはまるで、わたし達に春の到来を告げて揺れている旗のように、わたし達の心を大きな喜びで満たしています。
全世界のカトリック教会は枝の主日を迎えることになりました。当日曜日によって聖週間に入ることになり、この時、全世界のキリスト者はイエス様のエルサレムの入場と、イエス様が弟子達と共に行われた最後の晩餐、イエス様のむごいご受難と死、そしてイエス様のご復活を思い起こして記念します。
洗礼を受ける方々にとっては、自分の信仰の歩みの中で、最も重要な頂点である時を迎えることになりました。なぜならこの時に受洗者は、イエス様と共に死んで、つまりその折の神秘的な所作の意味は、水の中に入り込むことで示され、イエス様と共に復活すること、イエス様と一緒に水の中から浮き出てずっと生きるようになるのです。イエス様が死を迎えたことは偶然な出来事、突発的な事件ではありません。むしろイエス様がこの世に来られた目標を全うされた最後までの最高の選択でした。 イエス様がエルサレムに入るのは、律法学者達、ファリザイ派の人々、ローマ軍が集中した所だとよく解っていたのですが、そこで最後まで御父の御心を述べ伝えることと決まっていました。それだけではなく同時に、エルザレムは王様達の玉座であり、預言者達が神様の言葉を述べた所であり、天国の栄光を現す都として象徴的な場所でした。言い換えれば当時の世界の中心部とも扱われていました。さてイエス様は繋いであるロバと一緒にいた子ロバを引いて来させ、その子ロバにまたがって都に入場し、御父の御心を最後まで述べ伝えるために進んだのです。ロバにまたがって入場するのは、王様達のように都に入場することですが、同時にイエス様が人間の弱さを見せながら、神様の偉大な力を称える意味もありました。イエス様が印によって新しいエルサレム(人間の心)に入場されたと同時に、予言的な印を見せることにしたのです。つまり愛の弱さを通してだけ、全人類を救い得ることになります。エルサレム入場の時、群衆はイエス様を歓迎して祝いました、けれども同じ群衆が、その後イエス様を殺せと叫びイエス様の死刑を願いました。勿論その間、イエス様を本当に救い主であり、メシアであると受け入れていた人達もいました。
上記の出来事を思い起こしながら、枝の主日にマタイの福音書のご受難の物語を朗読することになっています。わたし達はまず、イエス様がわたし達のために背負われた苦しみを思い起こし、イエス様と一緒にその苦しみを分ち合い、イエス様が人間に大きな愛情を示されたことを黙想し、また人間の苦痛は愛だけを通してその癒しを得ることを知らされます。聖週間の間、イエス様が教えられた偉大なメッセージが少しずつ述べられます。イエス様のむごい苦しみによって、人間が愛のために生きる道を覚え、苦しみを受け入れることによって、イエス様のように復活までの救いの道を進むことが出来ます。
モヨリ神父