カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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A年 聖霊降臨の主日

2017年05月30日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 普通には人間が一所懸命に神様を探し求めますが、キリスト信者はそう思っていません。神様であるイエス様ご自身が私たち一人一人探し求めてくださり、ご自分の所に引き寄せて大きな愛情で包んでくださいます。そして復活されたイエス様は、自分に従って信じた者たちに聖霊をおくり、神様の愛を理解させ、数えきれない神様の働きを思い出させてくださいます。
「ヨハネによる福音書 20・19-23」
 今年も聖霊降臨の主日を迎えるようになりました。教会の祝いの中でも、とても意味深く大切な祭日になっています。まず、教会の誕生日の祭日です。聖霊降臨と言うのは日本語の表現ですけれども、当時行われ、今も行われる聖霊の働きによって、神秘的な出来事を示していますが、ラテン語では「ペンテコステ」と言います。ラテン語の言葉は旧約聖書のイスラエル人の祝いを示しています。当時、ペンテコステの時に、イスラエル人は神様とのつながりの約束を更新し、神様の掟を受け入れることを誓っていました。イエス様が復活されて初代キリスト信者にとって、ペンテコステと言うのはまず、イエス様が復活されてから五十日後を示して、その時にイエス様がご自分の息を弟子達の上に吹きかけ、その中にいくつかの贈り物を弟子達の心の中に置くようにしました。 そのイエス様の息に含まれた賜物を検討してみましょう。イエス様の息に含まれているのはまず、イエス様の命と心です。そしてイエス様が勇気、智恵、平和、神様に対する心構えを、ご自分の息吹きと共に弟子達の心の中に置かれました。そのような贈物を大きな喜びで受け取って味わった弟子たちは、大きな情熱をもって教会の心を作ることにしました。弟子達が皆で一つの心になって、全世界にイエス様の心と言葉を広めるようにしました。イエス様の息が吹きかけられた結果により、全世界の教会が生まれました。天地創造の時に、神様が息を土の上に吹きかけたことによって人間が生まれました、同じようにイエス様が弟子達の上に息を吹きかけて、復活したイエス様の姿を示す教会が生まれました。イエス様の初代教会は、火が燃え盛るように、地震のような振動を起して、いろんな言葉によって全世界にイエス様の心が広がりました。
 聖霊降臨(ペンテコステ)は二千年前に起こった出来事だけではありません、たった今、現在の出来事でもあります。私たちの教会でも、いつでも起きる出来事です。いつも忙しい私たち、この聖霊が起こした地震の振動の中で、信仰している聖霊の働きを無視することが出来るでしょうか。喜びと情熱をもって、期待して生きていきましょう。
                                 モヨリ神父  

A年 主の昇天の主日 

2017年05月22日 | 神父様からメッセージ(A年)
 

 私たちはより大きな幸福を求めながら、ずっと動いたり走りまわったりしていますが、イエス様が準備してくださった場所は、神様の腕の中です。神様の愛、神様の暖かい存在に包まれた人が心の平和、大きな喜び、自分のやすらぐ場所を見出すことになります。、
「マタイによる福音書 28・16-20」
 6月5日主の昇天の祭日にあたり、私たちの目はイエス様の弟子たちの目と同じように上に向い、天国に上げられるイエス様の姿を見つめています。このようにイエス様の弟子たちが、寂しい目で自分の人生から消えてしまうイエス様の姿を見ていました。実は、いつも弟子達のためにより大きな喜びを求めてきたイエス様は、このような行動によって、弟子達のために、より深いメッセジを残してあげたかったのです。弟子達の目の前で、自分の姿が消えようとしているイエス様は、弟子達に思わぬ大きな喜びを備えていました。まず、再び会う約束をしました。山の上、またイエス様が歩いておられたガリラヤの町で、同じように、又この世の歩みを完成する時に、いろんなところで確実に再び会えることになると約束しました。それだけではなく、弟子たちと自分に従った人に、支えとしてずっと一緒にいるように予言されました。その時イエス様が約束として、一所懸命に自分を信じる人にまた同時に疑っている弟子達にも結び合う絆として、全ての人は神の子であること、また皆が父と子と聖霊によって、つまり神様に大切に愛されていることを告げ知らせました。だからイエス様の昇天はこの世から、あるいは復活してから、弟子達の目が見たように消えてしまうイエス様ではなく、むしろ神秘的な方法でイエス様がご自分を信じるものたちと、別の方法でずっと共にいるようにという約束の時でした。そして同時に、ずっと私たちと一緒にいてくださるイエス様の姿と、どこで会うかを教え残しました。実はイエス様を信じた者たちは、イエス様とどこででもどんな時にもどんな人の心にもずっと一生一緒にいてくださり、いつでも再びお会いすることが出来るのです。天に上げられるイエス様が、人類も高めて天に上げられています。その時に人々は神様のものになり、神様とひとつになっています。復活されたイエス様が昇天によって、人類の間に違った形、神秘的な方法で自分の存在を示されています。イエス様の存在を信じる人には認められ、疑う人にも見られています。イエス様に出会った、信じた人は、イエス様から全世界に派遣されてイエス様の言葉を告げ知らせています。欠かせないことは、イエス様が派遣された人々と共にいつもおられて、いつまでも一緒にいて働いておられるということです。(インマヌエ―ル)
                                モヨリ神父

A年 復活節第5主日

2017年05月08日 | 神父様からメッセージ(A年)


 陰暦四月を卯の花月、または卯月というのは、このころに卯の花が咲くからで、その卯の花を腐らせるかのように、しとしと降る雨を「卯の花腐し」といいます。卯の花は白色から紅色へと花が変化するものや咲き分け種など種類が多いが、そんないろんな花が雨に打たれて山路を染めている様はとても風情があります。この時期、全体にしっとりと濡れそぼった暗さの中にも新緑の葉先がきらりと光を含んでいたりして、自然の趣が一段と深みを増します。
 キリスト信者には復活節の間、欠かせない目で見えるしるしの深さを勧められています。その一つはパンのこと、(私は命のパン)です。もう一つは良い牧者であるイエス様の世界のことです。この背景の中にイエス様が場合によって、いけにえとして捧げられた羊になったり、囲いの門になったり、良い牧者の姿にもなられます。この優しい例えによって、神様のこころを語り続けています。
「ヨハネによる福音書 14・1-12」
 復活節の第五主日のメッセージは、どこへ行くかを知らない私たちにとって、大きな慰めの言葉になっています。まずヨハネの福音記者の思いによりますと、イエス様が失望しないように励まされています。イエス様はこの発言をされた時に、ご自分の受難の直前でしたが、同時に弟子たちの心を見抜いて、自分との別れによって、心をさわがせたりしないように、悩まないで、悲しまないように慰めようとします。例えば私たちも、神様がありのままに弱い私たちを受け入れられるか、愛されているかどうか、信じたい希望をもっていても、それに不安や不満をもって悩んでいる時があります。特別に思い通りに良く行わない時に、または自分の生き方についてよいかどうか判断しにくい時、神様の憐れみに不安と不満を持っています。けれどもイエス様が「心を騒がせるな」と言ってご自分の限りない愛を示しながら、神様の約束された慰めの言葉に信頼をおくように勧められています。さてイエス様は私たち一人一人のために住める場所、永遠にいる場所を準備してくださるとおっしゃっています。その場所の特徴は、神様の家であり、皆が集まる場所です。そしてイエス様がおられるところと私たちが神様に誘われて、行くべきところもまったく同じです。イエス様自身がご自分の死によって準備してくださった場所で、そこで私たちと一緒に永遠に生きるために待っておられます。イエス様自身が私たちを迎えにきて、ご自分がおられるところに、つまり神様の懐で私たちのことを大切にしてくださいます。では神様の家、イエス様が準備されるところへ行くために、どうしたらいいでしょうか。まず、そこにつながる道はイエス様自身です。イエス様自身が「私は道である」とおっしゃってくださいます。イエス様に従うことにすれば、神様自身を見つめることが出来ます。イエス様のことは深く知ることにすれば、神様の心を知ることが出来ます。そのようにイエス様は私たちの「道」です。人間はどんな時代でも、自分の元の姿、自分の本来の姿を探し求めました。それは神様だけです。人間は自分自身を神様の姿に(神道の鏡の意味を参考にして)自分を写す事によって、自らの素晴らしさを知ることができます。それを人類に教えたのは自らの大きな愛によって人生を捧げたイエス様です。イエス様は人間でありながら神様の姿を写してくださいます。神様として普通の人間の姿、つまり貧しい人、小さい人、弱い者の心を通して自分の姿を見せてくださいます。そのように神様へ導く道であるイエス様は、私たちがあこがれている真理、私たちの日常生活の命です。
モヨリ神父

A年 復活節第4主日

2017年05月01日 | 神父様からメッセージ(A年)


「ヨハネによる福音書6・22-29」
 さて、何度読んでも感動させられるヨハネの福音書による、イエス様の中心的なたとえ話を見てみましょう。復活節の第四主日の福音書によると、イエス様は自分の姿を良い羊飼いに変身させて、自分の羊との関わりとつながりについて語ってくださいます。まず、羊飼いは羊に対して大きな慈しみと愛を示しています。一人一人の顔、気性を知っています。皆の声をわきまえています。一人一人を大きな愛情で包んでいます。同時に羊は自分を愛する、見守る羊飼いを知って愛して従っています。良い羊飼いは、いつも後ろから自分に属する羊を見守っています。それだけではなく、同時にイエス様はわたし達に羊飼いの姿を示しながら、ご自分の姿を羊の囲いの門にも変えています。このようなイエス様の姿もわたし達にとって欠かせない姿になっています。イエス様がわたし達を導いてくださる良い羊飼いと言うだけではなく、囲いの門であるイエス様が神様のありのままの姿を紹介し、神様の方に本当のつながりを開いてくださいます。だから私たちはイエス様の門を通して神様に出会い、神様を知ることが出来ます。そのような門が、もうひとつの門を例えてくださいます。それは教会の門です。だからイエス様が教会に入る唯一正しい門であり、正門です。教会に入ろうとしている私たちの目標はイエス様だけです。教会はイエス様の霊によって実現され、イエス様の門を通すとイエス様の姿である共同体に会うことが出来ます。羊の囲いである教会は皆がイエス様の霊によって生き、動き、お互いに支えあう場です。教会は一つの門だけをもっています。それは私たち一人一人を大切にする、愛し慈しんでくださるイエス様の心です。それを通さないで教会に入って関わると、イエス様の言葉に適わないことになり、心の悲しみにもつながることになってしまいます。                                                       
                              モヨリ神父