カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 復活祭第二主日

2011年04月28日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様を愛する皆様へ
「心の片すみにでも、神の為ではないものや、神によって動かされていない部分があれば、
ひきぬいて捨ててしまいなさい。」聖フランシコ・サレジオ
八十八夜のころから始まる茶摘みは球磨、矢部、菊鹿という霧の立ちやすい山間で盛んです。県下には千八百へクタールの茶畑があり、釜炒りは個人で作られ、現在では蒸し茶が主流となっています。昔は絣(かすり)の着物に赤いたすきをした茶摘み乙女の茶摘み唄が聞かれ、のどかな焼畑茶(こばちゃ)を摘む風景が見られたが、今では茶園もおおきくなり、かまぼこ型に茶の木を剪定し動力を使って茶摘みをします。
さて、わたし達は毎日の福音書の朗読から、復活されたイエス様の姿、弟子達や婦人達が見たことなど、イエス様と弟子達の出会いを、豊かな花の香りのように味わっています。復活されたイエス様が、迷っている、恐れている婦人達に「おはよう」とおっしゃっています。つまり、「私は早くから来ていて、あなた達のことをまっていた」と知らせたかったのです。
ヨハネの福音書 20・19-31
復活節第二主日の福音書の内容は、トマスがイエス様の復活、つまりイエス様が生きておられることを信じなかったので、イエス様が弟子達に現れた時、トマスにも自分の体、自分の傷跡を見せ、触れるように勧められました。それによってトマスは信じました、けれどもその時にイエス様が強調されたのは、自分が復活したことを見ないで信じた者は幸であると言う事でした、と同時に、わたし達が復活されたイエス様を信じる時に、本当に幸せ、永久に幸せ、いつまでも大きな喜びを味わっている者だと宣言され、ました。使徒たちの間に、イエス様が復活されてから、確かに不信感も広がった時がありました。使徒トマスのように仲間の使徒たちの言葉を信じないで、自分の経験によるイエス様との出会いを求めた人もいました。トマスはイエス様と出会った時に、自分の手を傷跡に当てさせていただいたことよりも、イエス様がもたらした平和にとらわれました。イエス様がもたらした「平和」はめでたき挨拶だけではなく、同時に希望と預言になり、実現された出来事でした。「平和があなた方にあるように」とは、あくまでもイエス様(神様)のみ言葉ですから、人間の為の贈り物であり、おっしゃることは実現されます。それを受け入れる人、その平和を受け入れる共同体は変わり、豊かになって、新しい理想の中で生きるようになります。イエス様の平和の中で生きるキリスト信者は、意味深い喜びで満ちた人生をおくります。当福音書の個所は三つの部分に分けられています。第一部はイエス様が聖霊を贈り物として与えます、第二部はイエス様と使徒トマスとの対話、第三部はヨハネ福音書のしめくくりです。
 第一部 イエス様の使命の中で、もっとも重要なところは人に聖霊を送ることです。その贈り物の中身、あるいはその心は罪の赦しです。それに従って、聖霊に支えられた使徒たちの使命は、罪の赦しを告げて、それによって神様の心を見せることです
 第二部 使徒トマスの不信仰は、当時の使徒たちの共同体の中で問題になってきた不信感を表しています。当時、ある人にとって、イエス様の復活を信じるために弟子たちの証言が足りなくなってきて、自分の経験によって信じる人も現れました。しかしその疑問について、イエス様自身がこたえるようになりました。弟子たちの証言によって(つまり、見ないで、自分の経験がなくても)信じる人は幸いです。
第三部 ヨハネ福音書のしめくくりは、福音書の目標を表しています。福音書はイエス様の人生を語る書物というだけではなく、イエス様は神の子であり、メシアであることを信じる為に、いくつかの「しるし」を集めてくださった書物です。だから福音書は歴史的な記録ではなく、記録を並べた資料でもなく、信じる為に、永遠の命を生きるために書かれた書物であり、皆の心が大きな喜びで満たされる良き知らせなのです。
                                            モヨリ神父 
 ※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」 (熊日日新聞)より一部引用             

毎週の一言 A年 復活祭

2011年04月22日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「悲しみや慰めも神様の深い愛の摂理からきます。拒みも望みもせず、
いつでも受け入れられよう、心の準備をしなさい!」聖フランシスコ・サレジオ

藤の花はマメ科の植物で、春も酣の四月ごろ咲き、甘酸っぱい香りを放ち、藤棚から乗れる花房の美しさと共に親しまれています。紫白、淡紅色などがある花の色の中でも、一番紫色が尊ばれます。山野に自生する藤は花房は短いが崖や渓流に懸かり目を楽しませてくれます。
ご復活おめでとうございます‼ 
大自然と共にわたし達の心の命、わたし達の夢がイエス様と一緒に復活しています。大自然も春分の日とお彼岸を迎えた後、季節はすっかり春になり、新しい服に着替えたような気がします。春は花嫁のように綺麗で、さわやかな香りに包まれ、各家々の庭、野や畑、山に抱かれた森の中にも、春の入場を見る人の心を豊かな喜びで満たします。
復活祭のヨハネの福音書 20・1-9
イエス様が復活されました。 イエス様は人類の罪、人類の弱さや苦しみを背負い、それを神様だけが持つ普遍的な力、愛の力によって死の闇を乗り越え、わたし達に赦しの復活、喜びの復活、命の復活を教えてくださいました。言い換えれば、体と心、心身で命の尊さを諭されました。今日、復活祭の喜びを味わいながら、この神秘的な出来事を深めましょう。聖書によると、週の初めの日、婦人達が朝まだ暗い内にイエス様のお墓に着いた時、それは空っぽでした。そこに葬られたはずのイエス様のご遺体はなかったのです。婦人達がイエス様の姿を見ようとしても見当たらなかったのです。あの時の婦人達が感じたことは、誰でも理解し易いと思います。彼らはすでにイエス様のご受難によって、心を騒がせていました。その上お墓の石が転がされていて、イエス様のご遺体は見当たりません。彼らの心は大きな痛みで抱かれました。しかしその時、体の目は心の不思議な光に照らされて、天使たちの声を通してイエス様が復活されたと悟りました。聖書に書いてある通り、イエス様は、お墓で蘇えられ輝いた姿を現わされました。それに気づいた婦人達の心は大きな喜びで満たされて、走って行きその素晴らしい出来事を告げ広めました。わたし達の場合、神様の不思議な恵みによって洗礼を受けましたが、どのようにイエス様の復活の体験を日常的に言葉で語ることができるのでしょうか。まず、人間が自分の人生が暗い時、苦しい状況の中、死の恐怖の中で、神秘的な方法でイエス様と出会うことが出来ます。わたし達が苦しんでいる時にこそ、イエス様は特別にわたし達のすぐそばにおられます。その時わたし達の力でその姿を見ることは出来ませんが、神様が送ってくださった心の光によって、イエス様の輝いている姿を見ることが出来ます。自分が苦しんでいる時に、失望した時に、その場でわたし達の苦しみを分ち合ってくださるイエス様のことを思い出すようにすれば、イエス様が約束された通りに、その出会いを実現することが出来ます。その新たな出会いによって、わたし達は大きな喜びを味わい、死から命の素晴らしさを見出すことができます。罪を赦されたわたし達が、愛する愛される自由を覚えた人間になれるのです。又、イエス様が十字架上で送り出だされた息吹によって、イエス様と一緒に復活し、永遠に生きることになります。「今日私と一緒に楽園にいる」復活とはキリスト信者にとって欠かすことのできない人生の経験です。それは自分自身を深く生きることによって、イエス様がもたらした救いの意味を身近に理解することが出来るのです。                 モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞)より一部引用

毎週の一言 A年 枝の主日

2011年04月14日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「希望、勇気、神様への愛を何よりも、絶対失わないように覚悟しましょう! 聖フランシスコ・サレシオ

春になると東や南から暖かく柔らかい風が吹いて来ます。天気の良い日に川の土手などを歩いていてこの風に会うと、しみじみと春を実感します。春はうぐいすを初めとして様々な鳥が歌い始めます。美しい声で雄を誘ったり、縄張りを宣言したり、繁殖期に向けて鳴く声が「さえずり」です。一種の恋歌であり、人が聞いても心地よく、わたし達の心をも大きな喜びで満たしてくれます。
さて、全世界のカトリック教会は、枝の主日を迎えることになりました。当日曜日によって、聖週間に入ることになりこの時、全世界のキリスト者はイエス様のエルサレムの入場と、イエス様が弟子達と共に行われた最後の晩餐、イエス様のむごいご受難と死、そしてイエス様のご復活を思い起こして記念します。
また洗礼を受ける方々にとっては、自分の信仰の歩みの中で、最も重要な頂点である時を迎えることになりました。なぜならこの時に受洗者は、イエス様と共に死んで、つまりその折の神秘的な所作の意味は、水の中に入り込むことで示され、イエス様と共に復活すること、イエス様と一緒に水の中から浮き出て、ずっと生きるようになるのです。イエス様が死を迎えたことは偶然な出来事、突発的な事件ではありません。むしろイエス様がこの世に来られた目標を全うされた最後までの、最高の選択でした。 イエス様がエルサレムに入るのは、律法学者達、ファリザイ派の人々、ローマ軍が集中した所だとよく解っていたのですが、そこで最後まで御父の御心にかない、それを述べ伝えることと決まっていました。それだけではなく同時に、エルザレムは王様達の玉座であり、預言者達が神様の言葉を述べた所であり、天国の栄光を現す都として象徴的な場所でした。言い換えれば、当時の世界の中心部とも扱われていました。イエス様はその場所で、上記のように自分の使努を全うし成し遂げられたかったのです。
マタイによる福音書 21・1-11
さてイエス様は繋いであった子ロバを引いて来させ、そのロバにまたがって都に入場し、御父の御心を最後までかなえられるために進んだのです。ロバにまたがって入場するのは、王様達のように都に入場することですが、同時にイエス様が人間の弱さを見せながら、神様の偉大な力を称える意味も示しました。イエス様が印によって新しいエルサレム(人間の心)に入場されたと同時に、予言的な印を見せることにしたのです。つまり愛の弱さを通してだけ、全人類を救い得ることになります。エルサレム入場の時、群衆はイエス様を歓迎して祝いました、けれども同じ群衆が、その後イエス様を「殺せ!」と叫びイエス様の死刑を願いました。勿論その間、イエス様を本当に救い主であり、メシアであると受け入れていた人達もいました。
上記の出来事を思い起こしながら、その後マタイの福音書のご受難の物語を朗読することになっています。わたし達はまず、イエス様がわたし達のために背負われた苦しみを思い起こし、イエス様と一緒にその苦しみを分ち合い、イエス様が人間に大きな愛情を示されたことを黙想し、また人間の苦痛は、愛だけを通してその癒しを得ることを知らされます。聖週間の間、イエス様が教えられた偉大なメッセージが、少しずつ述べられます。イエス様のむごい苦しみによって、人間が愛のために生きる道を覚え、苦しみを受け入れることによって、イエス様のように復活までの救いの道を進むことが出来るのです。
モヨリ神父

※「熊本 歳時記 編集医院会編」(熊本日日新聞社)より一部引用

毎週の一言 A年 四旬節第五主日

2011年04月07日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「自分の愛情の動きを警戒しなさい。ほとんどの人は自分の好みで愛し、理性と神様の望みに従ってはいないのです。何かの善業の機会があれば、すみやかに広い心で行うように努めなさい。」
聖フランシスコ・サレジオ

満開になった桜、忙しい小鳥達、春がとっても身近に感じられます。復活祭の命を讃える祭日も、もう手が届くくらい間近かになりました。しかし冬は完全には立ちち去っていません。阿蘇の方ではまだ、雪の中で牛や馬が草を探し、飼い主達が置いてやった餌を食べています。
今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人達の為に欠かせない課題に踏み入ることになりました。それはわたし達の命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いでえらばれることです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、わたし達にとって神様からの最高の賜物です。又人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びになっています。わたし達は神様の息吹で生きているではありませんか。だから人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかしわたし達の弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は人は大切なものに気付くこと、また宝物を手にもっていることはそれを失うと言う悲しい経験によって知ることが多いのです。
ヨハネによる福音11・1-45
イエス様は今日の福音書の中で命の尊さを教えてくださいます。ベタ二アのユダヤの町にイエス様の最も大事な友人がいました。それはマリアとマルタとラザロでした。 突然ラザロが亡くなって、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、泣くほど大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみに対して、人間の死に対しても心をかけておられ、深くその痛みを分ち合って自分の生涯全体で、自分の身に背負うようになさいました。 けれどもイエス様は神の子であり、神のいとしい命で生きるものでありながら、人間の苦しみ、人間の死、どんなに辛いことでも、神様と出会う場に変更されました。イエス様が使徒パウロの言葉を通して次ぎのことを教えてくださいました。「わたしと苦しんで死ぬ者はわたしと生きる、永遠に生きる」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様が、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人に、復活であり命であることを示されたのです。わたし達の生きた経験では、実際にどのようにイエス様が復活と命であることを理解できるのでしょうか。その答えは、キリスト者にとって信仰の核になっています。各々の苦しみの中で、わたし達はイエス様とひとつであることを信じて実感すれば、そして神様もわたし達と同じ苦しみを背負ってくださったのだと理解すれば、わたし達は決して寂しい一人ぼっちではないことを、神様がご自分の存在と命の尊さを通して教えてくださいます。イエス様がわたし達の希望と喜びの道であり、目標であると受け止め、わたし達は神様の愛に包まれて、神様と同じ命で生き、その中で永遠に生きることを知らされます。              モヨリ神父

※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用


毎週の一言 A年 四旬節第四主日

2011年04月01日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「生きている間に、善と悪は入り混じっていますが、完全な慰めは天国にのみあるでしょう」
聖フランシスコ・サレオ
今からが見ごろになる桜は、日本を代表する花です。「花」と言えば桜花のことです。日本人はこの花に、独特の感性を育てて来ました。人に待たれる初花、散りゆく落ち花と、花の間は人生や歴史をも重ね合わせて楽しみます。
さあ、わたし達の復活祭までの歩みは、四旬節の第四の日曜日になりました。中心になる課題は、洗礼の時に得られた信仰、その時注がれた聖水、そして油で塗られたことによって神の子として選ばれた喜びです。
ところで、よく人間は盲人のように生きていると言うような言い方をしますが、ヨーロッパでは、人間は自分の鼻の高さの距離までしか見えないということわざが有ります。
さてここに、人間が暗闇の中に生まれて生きることを語る小さな物語があります。
「一人の女が犯罪の現場で捕らえられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井に空いている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」さて、全ての人間もまったく同じ状況だと言えないでしょうか。
ヨハネによる福音書 9・1-41
福音書の中のイエス様に出会った盲人と、現在の人間にとっても見えない状況の中で生きているのは同じです。けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださる、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいる者達に神様の存在を見えるようにしてくださいます。
上記のような課題で、わたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人と同じ経験をすることになります。それはどういう事かと言うと、実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのです。しかし神様からいただいた信仰によって、つまり心の目で、わたし達の日常生活の中に神様の存在とその働きを見ることができるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは、折々に周りからもたらされる小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印の中で、神様を信じることによって、神様から愛されたことを見出し、神様へも人へもその愛を返すことが出来ます。さて最後に、洗礼の時に受けた光を思い出して、その光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。                  
                                      モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」 (熊本日日新聞)より一部引用