想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

自分の視点

2015年01月15日 | エッセイ

震災5年1月15日

人生、社会、世界を大きくどうとらえるか。自分なりの視点から述べてみる。

  1. 人生は邂逅の歴史である

    おぎゃあと、この世に生を受け、生涯色々な出会いを重ねる。その出会いとのつきあい方、関わり方で自分の人生が決まってくる。過去、どんな人とどこでどう関わってきたか。それにより、自分はどうかわったか。
  2. 人生は波動である

    ・いわゆるついているときは徹底的に突き進むべし、いくらがんばってもうまくいかないときもある。バイオリズムという波動がある。P身体は23日、S感情は28日、I知性は33日周期で正負のエネルギーが変化しているという。私も時々見るときがある。今日はどうも自動車を運転していて注意が散漫に感じるときがある。そんな時、バイオリズムを見てみると、身体曲線の注意日であることが多い。自分的には身体曲線に大きく依存しているようだ。生まれたときから人間には波動があるという。まんざら、いい加減な考えでもなさそうだ。人により、支配する要素(PSI)が違うようだ。

    ・万物は圧縮されれば爆発膨張し、その波動を宇宙に投げかける。圧縮膨張を繰り返すのは必然である。そこに波動が生まれる。その波にいかに上手に乗るかである。人間も万物の一員である。万物の霊長などどいえば、ばちがあたる。自然界の一員である。
  3. 人生は芸術である

    芸術は最高なものであると、思っている。論理や直感、感性など色々な要素を含んで成り立っている。人生も色々な芸で成り立っている。どう表現するかにかかっている。一人ひとりの一生は芸術作品である。自分で自分の舞台をどう演出していくかだ。
  4. 人生は選択決断の連続である。

    歩いていると、その都度、二つ三つの道があり、迷うことがある。前に進むならいずれどちらかの道を進まなければならぬ。そして、決断し前に進む。この連続がその人の人生になる。
  5. 人生は自然の摂理の中にある。

    人も皆、万物は自然の摂理のたなごころの中にある。孫悟空と同じで結局は仏様のたなごころの中で踊らされてるにすぎない。おごるなかれ人間である。原子力などという、人智で制御できないものにすがることはない。そのことより、自然の摂理とは何かということを深く考えた方がよい。人間も自然生態系の中に生きている。自然の摂理とは神の意志と同じだから。その神の意志により、我々がこの世に存在しているのだ。鉛筆はただ、字を書くという目的で誕生したように、自然の摂理が大いなる神の意志なら、その意志により生まれた自分は小なる意志を持って生まれた。だから、生きるとは小なる意志で神の意志を見つけることだ。神に意志があり、私が存在しているのだ。人は何人も何かの良さを持ってこの世に誕生した。神によって生かされている。その神の意志を見つけんが為のこの世である。一生見つからないかもしれない。でも、見つけようと努力することが生きる証となる。私の終活テーマは自然である。いかに何事も自然に生きるか。
  6. 人生は変化の連続である

    私は変わらないと、言い切れる人がいるだろうか、細胞は瞬時に変化しているのである。その連続が自分をつくっている。周りも瞬時に変化している。栄枯盛衰である。栄華を極めれば、それはやがて衰退してゆく。下がれば株もやがては上がる。温度は高い方から低い方に流れその平均となる。気圧も同じ。風も気圧差で動く、高い方から低い方に流れるのだ。いわゆるマルクスのいう正反合の理論だ。そして、その流れが止まれば、また、何らかの原因で気圧差ができ流れができる。すべてはそうして一時も同じ時はないのだ。時計の針も人目には止まっているようにみえるが、その針を長く伸ばせば、その先端はかすかに動いているのだ。地球も人の目には水平に見えるが宇宙の彼方から見れば球体なのだ。時間をスローにするか速くするかで,見方がかわってくるだけだ。垂直に立ている板も止まっているのでなく、左と右との押し合う力が均衡しているから動かないのだ。
  7. 人の営みは社会現象に出ている

    すべての事は社会現象に現れる。経済、政治、地域生活、家庭、スポーツ、芸能活動など、すべて社会現象としてとらえることができる。
  8. すべては物理現象で起こる

    人の行動も、津波も、太陽地球の自転も、月の公転も、塩の満ち干も、台風もすべては物理の現象で起こる。それを解明できれば多くの人は助かる。青色ダイオードが発光するのも,何らかの物質がある状態で関係すると青くひかるらしい。リンゴが落ちるのも心の動きも物理現象として説明ができる。

     

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絵本との出会いから想う

2015年01月14日 | エッセイ

震災5年1月14日

 

  私が絵本らしい絵本と出会ったのは今から40余年前の24才位の頃でした。当時、小学校教師の成り立てでした。

 初めての赴任地がなんと、埼玉県北葛飾郡大字鎌倉という所でした。赴任地を聞いたとき、どんな田舎だろうと思って、早速調べてみましたら、なんと、学校の東側には水元公園があり、そこはもう東京都葛飾区でした。

 当時私は埼玉県に仕事で住んでいましたので、たまたま埼玉の教員になりました。

 できたての新校舎で最初の職員室は他の学校と一緒でした。4月開校が遅れ9月開校になったからです。新卒教師が半分の若さあふれる学校でした。

 三郷市は東京のベッドタウンであり、人口も現在は14万弱になっています。当時はまだ、市制がひかれていなくて、三郷町でした。3年間そこにいましたので、その後急速に発展し転出する頃には6万人ぐらいになっていたと思います。

 さて、前置きはこのぐらいにして、絵本の読み聞かせの講習会にはよく行きました。最初は3年4年と進級しその後、2年1年と低学年に下がったと思います。

 その、低学年の時に子どもにどんな本を読ませようかと考え、どこで情報を仕入れたか、記憶にないのですが、色々絵本を探し回りました。

 当時印象に残っているのが、「大きなおいも」の本でした。当時は読み聞かせでは人気№1の絵本でした。絵本ができるいきさつを調べていくうちに、底辺には大きなストリーがあることが分かりました。

 子どもの頃、絵本など読んだ記憶がない私に取って大きなインパクトでした。毎日が、楽しくて楽しくて、絵本ばかりでなく色々なことをやった埼玉での3年間でした。そのころ、音楽もやってみたくてピアノ教室にも通いました。バイエル終了に3年間かかりました。また、言葉にも興味を持ち上野までアナウンス教室にも通いました。

 「絵本ってあんなに言葉が少ないのに、なぜ、値段が高いのだろう?」と不思議に思っていた時期がありました。その後、数年がたち、子どもも生まれ、絵本にも接し、絵本の価値に気づくようになりました。

 イメージの部分でふくらめてていける要素がたくさんあるんです。特に、「松谷みよ子著 いないいないばあ」と、いう本は0才の子に初めて与えました。ほとんど活字がないのに乳飲み子の心理にあうのか何度読んでも飽きない様子でした。読むときのテクニックにもあります。

 教師になって初めて、子どもは反復で出てくる言葉(音)に反応することが分かりました。ハンモックに乗って揺られている気分になるんですね。お母さんのおなかにいるときの気分かもしれませんね。

 このことも、香港に旅行して世界共通の幼児の心理だと確信しました。人間というのは言語が違っていても、根本ではお案じなのだなと深く自覚した事がありました。みんな、赤い血が流れているんです。世界には同じような反復繰り返すリズミカルの表現がたくさんあります。これが、万国共通に心地いいらしいです。

 私は読み聞かせをするときには、その言葉が話す優しい気持ちを大切にします。言葉以前の問題です。同じ言葉でも話すトーンが優しければ相手にすうっと入っていきます。言葉は言霊だというゆえんです。

 人は論理的な事を問題にしますが、絵本や語り聞かせは、そのときの話し手のトーンやイメージが大切です。いわゆる発する言葉以前の問題です。簡単な絵本が魔法のように幼児の心に響くといいうことはそういうことです。

 昔、私がまだ、小さい頃、姉のお話を寝床でよく聞いた事があります。あの心地良さはこの年になっても覚えています。私も、自分の子には桃太郎の話を何回も語り聞かせていました。教育はすべてを忘れた後にのこるものと入った方がありましたが、まさにそのことだろうと思います。

 何でもそうですが、いいものはいいです。いいものとの出会いがその後の人生を変えていきます。何でもいいものには価値があります。それを見抜く眼力を持ちたいです。人を動かすのは論理ではありません。論理を超えたもっと奥深いところにあるように思えてなりません。

 

 

※人は毎朝生まれ変わる。
※何事も、つかず離れず、さりげなくさらっと、繰り返し繰り返し愛情を持って!

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前に白鳥、後ろに富士!

2015年01月13日 | 野山散策

  おとといの晩、コハクチョウの群れが30羽ほど菊川で羽を休めていました。次の日の朝、写真と動画を撮ろうと出かけました。案の定、場所こそ、少し移動していましたたが、たくさんの白鳥が泳いでいました。

 早速、持ってきた30倍ズームのデジカメで撮ろうとしましたが、バッテリーがあがってしましい。ズームができず、この1枚だけが撮れました。

 急いで、うちに帰り充電に取りかかったのですが、3時間もかかり、再度撮りに行ったときには、すでに白鳥はどこかへ飛び立ってしまいました。残念な事をしました。

 あれば、もっとアップズームで大きく撮れたのに残念でした。来年も立ち寄ってくれるか期待したいとおもいます。この近辺の川で見られるのは私の過去の記憶にはありません。

 きっと、珍しい事だったでしょう。来年に期待します。

 川に沿って、富士山がきれいに見られます。白鳥がいたのは左側の川です。一応一級河川の菊川ですが、川の長さでは1級河川の中で一番短いと思います。白鳥の一時休憩に毎年、この時期、利用されるようになればいいですね。

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自分が変わるか、相手を変えるか!

2015年01月12日 | エッセイ

 震災5年1月12日

 人生人間関係(HR)がすべてだという人もあります。それにしてもこのHRは人生の多くを占めています。特に夫婦となると特別なものもあります。

 社会で生きてゆく為の知恵として、何かのトラブルに巻き込まれたとき、できるだけ、自分を変えるよう務めています。自分が変わるとは、自分の尊厳まで捨てるものではありません。

 この世は相対的なものです。美人もみんながそうだったらどうでしょう。美人だとは思わなくなります。ダイヤモンドも石ころのようにごろごろしていたらどうでしょう。誰も振り向きもしないでしょう。

 それが証拠に空気は普段は吸っていることに気がつかないものす。空気が汚れている所に行って初めてその存在に気づくのです。

 人間関係は重要だと言われています。自分が変わっても何ら本質的なもので問題がなければ、なるべく自分を変えることで相手への目線の位置を変えて対処することで解決を図ることがあります。

 液体はどんな形にも変身することができます。形が変わればそれに合わせて液体がしみこんでいくわけです。ですから、隙ができません。その形、目いっぱいに入ります。

 しかし自分が変わらなければ丸い形はいつまでも丸いままで、四角い形の人の中に入ろうとした場合隙間が出てしまい。うまくいきません。

 また、他の考え方もできます。自分が現在大人の身長だとします。そこの目線で相手を見た場合と、自分が蟻さんになって、その目線でものを見た場合は相手は同じでも、大きく違って見えます。

 たとえば相手がセイタカアワダチソウだったとします。大人の目線から見れば自分の下に生えている草です。しかし、蟻さんの目線になれば大きな大木の林にみえるでしょう。

 このように自分を大きくも小さくも自由時差に見せることができる結果、相手への距離感や威圧感が変わって来ます。そのことにより、相手も態度を変え関係がよくなることは経験上よくあることです。一歩譲って二歩前進です。

 ましてや自分がトンビにでも変身できたらどうでしょう。富士山の裾野からてっぺんまで俯瞰できます。

 昔から「木を見て森をみない」という、ことわざがあります。あれなど、自分の視点を変える芸当ができれば、相手への味方も自由自在に変えることができることを意味します。そうです。できるだけ、自分を液体に変えたり目線を変えることで相手への反応はどうにもかええることができるのです。

 がんこ、強情は人間関係の敵だと思います。また、こだわりもいい意味に考えれば、ねばり強く追求するという面もありますが、ほどほどにしておかないと体や人間関係を壊すことになりかねません。

 人生腹八分の言葉もあります。何事もとらわれ過ぎると失敗です。恋愛も盲目になった方が負けです。熱情はいずれ覚めるものですから。

 一時の感情と価値観どちらを大事にしますか。究極的には価値観ですが、生身の人間を動かすのもまた、感情です

 感情と価値観の位置づけが大切です。価値観の中の感情です。これも、感情だけ、価値観だけの偏りは禁物です。動物が動物たるゆえんは感情があるからです。でも、人間たるゆえんは、それに、価値観や情操が身に付いているからです。

 感情は洗練されれば情操へと進化します。情操豊かな人になりたいです。

※人は毎朝生まれ変わる。
※何事も、つかず離れず、さりげなくさらっと、繰り返し繰り返し愛情を持って!

 

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コハクチョウ飛来

2015年01月11日 | 野山散策

震災5年1月11日

 久しぶりに通ったウォーキングコースを歩いていて、いつものサギや鴨が遊んでいる干潟を覗いた所、びっくり、よくよく見ると白鳥が30数羽もいるではないか。いつもの白鷺や鴨とあきらかに違っていた。

 体も大きく、調べたところコハクチョウのようだ。何でまた、こんな所にと思った。この川では初めて見て、もうびっくりした。

 家を出るとき、念のため昨日折角買ったデジカメがあったので、持っていこうか迷ったあげく、あいにく家において出かけた。まさか、こんないい撮影チャンスがあるとも思わず、びっくり…。

 早速、自宅に戻り、ウォーキングもそっちのけでカメラを持ち帰り、ズームで撮影した。三脚をつかってないのと、夕方5時杉だったのでいい画像が撮れなく残念だった。動画や遠くを撮るときはやはり三脚に固定しないとよくないことをあらためて感じた。

 私たちの地域に白鳥が来たという話は聞いたことがない。実際は飛来はしているだろうが、実際に見たことがないか、話題に上らなかっただけだと思う。

 こんな素晴らしい鳥と遭遇し間近に見ることができてラッキーだった。「待てば海路の日和あり」とはこの事かなと思った。

 
https://www.youtube.com/watch?v=OR1Q4v4VcIQ動画

 

 

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