想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

初夢

2015年01月02日 | エッセイ

  2015年も始まりました。数え年でいえば、一つ年を取ったと言うことになったでしょう。私としてはそれは一つの通過点です。その流れは連綿として繋がっています。私たちの世代も次にいずれはバトンタッチしていかねばなりません。

 加齢という言葉がありますが、あれは私流には加齢ではなく華麗です。加齢臭などのコマーシャルはもっての他です。華麗は老化の始まりではなく日々刻々変化し華麗にいたる過程をいい、ある刹那をいいます。まさに仏教でいう諸行無常です。時としてとどまることを知りません。

 どう変化したかの鍵は自分が握っています。自分とは自らの分け前であり、天から与えられたものです。この分け前の意味をよく知りそのつとめを果たすのが私の役目です。自分とは何かを明らかにしようとするのが人生であり、今後を切り開いていくことになるのだと思います。

 誰にでも価値は備わっています。だから、このように生誕してきているのです。この価値に気づき見つけ社会に貢献していくことが人生の目的です。大きな石も小さな石もあり、城壁はできあがっています。歩のない将棋は負け将棋です。誰にも価値があるからこの世に存在しているのです。だから、その意味で人間皆平等です。差が付くのは、この方向にエネルギーを集約いけるかと言うところで差が付きます。

 時は人類にとって永遠のテーマです。生きていると言うことはすべてが時の流れの中にいるわけですので、間違えても時を制御しようなんて言う人が出ないことを願っています。神という自然の摂理ですら制御できないものだからです。その流れに乗るしかないのであります。そこに自分がのり人生を表現していくのです。時は誰にも平等に与えられている唯一絶対のものです。それが制御できるようになったら、世の中がなくなってしまいます。

 一日が何時間もあったらいいなと誰しもが思ったことがあるでしょう。一日は誰にも24時間与えられています。これも、地球上にいる限り変えることはできません。ただ、心理的な時間は変えることができます。自転や公転の速度が変わったりしたら変わることはあるでしょう。そのときはどうなっているのでしょう。最近は気象が少しずつ変化し、日本の四季も変わって来ています。四季が変化すれば日本の美意識も代わってくるでしょう。空気や水が汚れて来ているのも気になります。

 さて、インターネットの仕組みができてから、これからは益々変化していくだろうというITを中心とする社会の仕組みについて勉強していけたらと考えています。細胞が古くなっているのでわかいときの様にはいきませんが、学習ノウハウはたくさんの経験値を積んでいるはずです。それを足がかりにしていけたらと思っています。

 理系にはすぐ理解できてしまう俗にいう頭のよい人がいます。ITの世界ではその差が顕著に表れます。私にはうらやましい限りです。その中がどういう構造になっているか知るよしもありませんが、人間捨てたものではありません。それは比熱に似ています。水はすぐには温まりませんが、冷えるのも遅いです。覚えてしまえば忘れるのも遅いと言うことです。ただ、最近はだいぶ忘れるのも速くなりました。これも華麗かな。ぼちぼちやっていきます。寄り道しながら…。

 最近、ITの世界ではほぼ、世界は一つに繋がっているといってもいいのではと思います。さて、昔進化論という言葉がありましたが、それは進化でなく私流には変化です。ですから、変化論です。それは、仏教でも諸行無常と昔からいっています。

 昔から、何かを発見するとさわいでいますが、それは発見と言うより、もともと、実在していたものが、人の目に気づくようになったと言うことです。小学生が生活科でいう気づきと同じです。英語ではdiscoveryといって覆ってあるカバーをはがしている状態です。

 よく、発見者の名前が言われますが、名もない人がそのことに気づいていても世間に出なかっただけと言うことはたくさんあると想像できます。科学でもそうでしょう。論文として第三者に証明ができなければ、日の目はみませんが、その存在に論理では証明できないけれどもあるという事実があることは結構たくさんあります。

 青色ダイオードの発明は人類にとって大きなできごとでした。あれは彼らでなければできなかったでしょう。素晴らしいの一言です。しかも、日本人として誇り高いことです。おめでとうございます。今後、益々、省エネ、エコ化社会に向かい地球の負荷の軽減になって欲しいです。本来の地球の姿のだんだん戻っていて欲しいです。それにしても原子力のごみは困りますよね。変なものを人類は造ったものです。処理方法がないようですね。

 人が発見しなくとももともとあること(存在)と事実に気づくことと、それを証明し誰の目にも明らかになることは別問題なのです。

 よく、直感力の優れた人がいます。私はあれは教育ではできないと思います。それは持って生まれた能力でしょう。それと、論理力の両面が備わっていればすばらしいのでしょうが、なかなか神は二物を与えてくれません。それに他社をも思いやる感性が備わっていればもう申し分ないわけですが、そういう人はなかなかいません。知性があり感性がありそれに体力もあるなってもう想像すらできません。

 ただ、そういう方向にベクトルを向けていこうという意志力は誰でも少なからず持っていると思いたいです。私もその一員です。

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