想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

悪魔の証明とは?

2018年01月31日 | エッセイ
小さいサラダはぁと煎餅 40g×8袋セット
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株式会社菓房茶房

震災8年1月19日

 「世界に白いカラスがいないことを証明せよ」というとき、普通人はどう証明するのでしょうか。この考えは、いかに白いカラスがいないことを証明するのが難しいかを語っています。一旦検挙されてしまうと、それを覆すことがいかに難しいかをいっています。だから、悪魔の証明といいます。物騒な名前が付いています。

 私もこのことを先日テレビドラマを見ていて初めて知りました。ちまたには、冤罪が溢れているように思います。一旦権力により、逮捕されると大変です。かの袴田事件も冤罪で苦しんでいます。いつまでたっても冤罪が減らないのが、逮捕された後の、この証明が難しいからです。

 白いカラスがいることを証明するなら、白いカラスを1匹つかめてくれば事足りてしまいますが、いないという証明は、世界全土くまなく探さなければできません、人には不可能な証明となってしましまいます。いないと思ってもどこかにいるのかもしれません。見つけることができないだけかもしれませんが、いないという証拠を示すのが難しいのです。

 卑近な例を上げれば、痴漢で検挙されたとしましょう。それを、見た第三者の証人がいて、被害者の証言と第三者の証言があれば逮捕検挙されてしまいます。先日のテレビドラマの粗筋がそれでした。

 被害者がいて嘘をいい、それを見ていたと偽った証人がいて、無実の人が逮捕された内容でした。検察庁に送られてしまえば、冤罪となってしまいますが、それを覆す証明は大変難しくなってしまいます。ドラマではその時、第三者のアリバイが明らかになり、それが見ていないという証拠となりました。それが、解決の糸口でした。

 一旦冤罪をかけられ逮捕されればそれを覆す証明は困難を極めます。ドラマではアリバイが決めてになりましたが、困ったことに、冤罪をかけられた人はたくさんいるはずです。速く、結審すれば軽く済むなど度言われ、無い罪まで認めてしまう人もたくさんいるようです。大変不名誉なことです。

 真実は神のみぞ知るということでしょうが、人のやることには、必ずこのようなことが起こるのです。君子危うきに近寄らずが一番です。気をつけたいことです。

 「火のないところに煙は立たず」「君子危うきに近寄らず」という言葉もあります。日常疑われたりして紛争に巻き込まれない為にも、このことも肝に銘じておくことです。反対に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という、言葉もあります。とにかく、思慮深く行動したいですね。

 「李下に冠を正さず」という言葉もあります。スモモの木の下で冠をかぶりなお そうとして手を上げると、実を盗むのかと疑われるから、そこでは直すべきではないという意味です。また、「瓜田(かでん)に履(靴)を入れず」という言葉もあります。瓜(うり)の畑の中で靴を履き直すと、瓜を盗むと疑われるということです。

 昔は、このような事を親からもよく言い聞かせられて、育ちましたが、最近はあまり使われない言葉になったような気がします。この言葉は現在でも生きていますので、身辺は清潔にして過ごすのが一番です。

 まあ、今の世の中紛らわしいことに巻き込まれないように常日頃から気をつけることに超したことはありません。

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仮想通貨から不易流行まで

2018年01月29日 | エッセイ
トミカ ドリームトミカ スヌーピー バレンタイン
クリエーター情報なし

タカラトミー

震災8年1月29日

 仮想通貨が大流行ですが、先日も、500億以上の通貨がサーバー攻撃で盗難したというお話が出ていました。人間は色々なことを考えるものだといつも思います。あの仮想の、しかも、目に見えないものに通貨としての価値をつけるものです。

 古来、人間は欲しい物があると、自分で探し、物々交換をしていました。そのときには、まだ、通貨は必要ありませんでした。

 しかし、そのものを貯めると言うことを考えた時、物々交換していたのでは、物の移動が大変でした。倉庫も一杯になってしまったのでしょう。

 そこで、人は通貨という便利な仲介役を考え出したのです。初めは大きな石を通貨にしていた国もありました。また、金や宝石をその代わりに使ったこともありました。その後、もっと、便利で場所も取らなくて軽い物はないかと考えました。

 そして、生まれたのが、紙幣等の貨幣です。持ち運びも保管も大変便利になりました。そして、人はそれを仲介として取引をするようになりました。その中心に銀行ができました。

 ところが、今や、仮想通貨や電子マネーの時代です。倉庫という物理的な大きな部屋はいりません。RAMの様な記憶装置さえあればいいのです。

 銀行も、低金利ということもありますが、通貨が利益を生まなくなり、電子マネーや仮想通貨の利用増加と、反対に大きなリストラの問題に直面するようになりました。

 インターネットを介してのお金のやりとりは、益々増加し、電子マネーから今では仮想通貨の時代になろうとしています。仮想通貨はネット上のあらゆる利用者が利用できるようですので、爆発的にその取引が増えて来ました。

 反面、今回のような500億以上の盗難などのリスクも孕んでいてとても危険なハイリスクハイリターンの商品になってしまったのです。具体物がない、目に見えないデータだからよりわかりにくくなってしまったのです。

 株式からFXへそして、今や仮想通貨へと、投資の流れは加速しています。と、同時に一度不祥事がおこれば大変な事になる危険と隣り合わせであることが表面化して参りました。

 何でも、新しい物はリスクとリターンを内包しています。いつか訪れる危機が最近目立ち始めたのです。株と同じようなものでしょう。人間も賢くならなければいけません。遊びのはした金で楽しむぐらいにしておかないと大変な事になってしまいます。

 今はネット上で取引所がいくつもでき、銀行保証や国家補償のない通貨で自由にやりとりできますが、やがて、規制をしなければならなくなるのでしょう。

 そうすると利便性が無くなってしまいます。利便性をより追求していく中で、確実性とのバランスが今後はかられていくのでしょう。

 ちなみに、過去に遡れば遡るほど、具体物、アナログの世界になります。人の進歩は具体から抽象の歴史でした。抽象の世界という宗教でさえ、仏とか、キリストとかいう具体物を掲げています。

 電気が発見されたのも、その理論は電子という仮想のものを-として定義し、電子理論は発達して参りました。

 そして、人は10進数という便利な理論を考え計数を発達させて来ました。その後、数は2進数や3進数があることが分かり、コンピュータと共にデジタル社会を築いてきました。

 日本にはゼロという考え方が無かったようですが、インドでは0が発見され十進数理論は確実に進歩しました。

 今や、ネット時代となり、ネット社会では国家の垣根がなくなりつつあります。通貨も1ドル360円時代から瞬時に他通貨への変換がなされるようになり、金利も瞬間瞬間、需要と供給で変化していく時代になりました。

 最近では量子力学を応用した量子コンピュータの時代になり、より速くより小さくはトレンドとなっています。そして、より低エネルギーの時代でもあります。

 しかし、どんなに周りは変化していっても変わらないのがあります。不易流行の不易の部分、人の心の問題です。

 この心ははるか昔から具体でなく抽象だったのです。ですから、どんなに新しい論文が生み出されても心の問題だけはもっと、深い意味があるのです。だから、人間が人間たるゆえんを意味しています。

 宗教の問題も同じです。どんなに科学が発達しても、この心と宗教も、問題は人間の尊厳として永久に残るでしょう。

 最近、どこでも、AIの進歩と共にロボットが活躍する社会になりつつあります。先日も、寿司屋にいったら、まず、ロボットがお出迎えでびっくりしました。

 ロボットも最近は人間の感情にまで入ってきているのにはびっくりしていますが、これは所詮、無機質のロボットです。血の通った人間とは違います。この辺は、人間の尊厳とも関わり、重要な問題です。人の規制が必要でしょうね。

 ひょっとすると、今後は量子コンピュータから息するバイオコンピュータの時代へと突入していくようになるでしょう。

 そうなると、人の尊厳の重要性がよりクローズアップされ、その開発に倫理的な規制がかかることも、十分考えられます。

 時代は流れていきますが、不易流行は永遠のテーマです。松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念です。「不易を知らざれば 基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」即ち「不変の真理を知らなければ基礎が 確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」即ち「 両者の根本は一つ」であるというものです。「不易」は変わらないこと、即ちどんなに 世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの、変えてはいけないものという ことで、「不変の真理」を意味します。逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化 に従って変わってゆきますが、両者は普遍の真理なのです。

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国益優先の現実が変わるとき

2018年01月23日 | エッセイ
ニチレイ)たいやき 約80g×10個入
クリエーター情報なし
ニチレイ

震災8年1月23日

 外交と武力というのが、今、現実の国際社会です。本当は思いやりという言葉が、国際間でも望ましいのですが、未だ現実は、これとはほど遠い感じです。

 死の商人という言葉さえあります。武器のやりとりを商売にしている人です。悪いと知っているは思いますが、無くならないのです。現在の、国際紛争が無くならない限り、それを生業とする人たちが存在してしまいます。日本も、否応なしに、防衛予算を増やしています。利益を上げているのは世界の軍需産業です。それも、国とつながって商いをしているからたまりません。

 世界に緊張を作り出して、赤字を埋めることもあるでしょう。そう、思いたくはありませんが、それが、紛れもない現実です。今回の、北朝鮮問題ではたくさんの軍需産業が利益を得たのでしょう。

 軍事技術の発展といえば、こんな話があります。インターネットはもともとは、軍事用に開発が進んだと聞いています。それが、民生用に利用され現在大きな影響力を持つようになりました。でどこは悪いのですが、平和に利用されているのです。

 古来、人がいる限り、世界の歴史はある面、戦争を舞台にその犠牲の上に成り立っているといっても過言ではありません。戦争と戦争の間に平和があるようなものでした。 

 自分を守るために軍備を拡張する。この流れが現実の物となってしまいました。過去、人類は大きな戦争を二度してしまいました。今度起きれば、地球規模で大きなダメージを追ってしまうでしょう。そうさせてはいけません。そのために、国連ができ、オリンピックが開催され、サミットも行われ、世界は自国の利益を求め、軍備を拡張させながら、ある時は軍縮に傾き、どうにかバランスを保ちながら、平和を維持して来ました。

 平和はほっておいても、力の論理でどこかに追いやられてしまいます。平和は維持することが大切です。無関心でいては、国家のエゴの為にどこかに追いやられてしまいます。二度の世界大戦から人類は大きな教訓を学んだのです。それを、今後も生かして言って欲しいです。

 その解決は現実ではBalance of Power しかありません。非武装中立などあり得ないのです。スイスでさえ武装中立です。自分の身は自分で守るのです。そして、その自分が確かなものとなった時、人様の為になる思いやりが発揮されるのです。それが、現実です。自分がなくなっては、人も守れません。

 イスラエルの首都をエルサレムに決めるというのも、大国の論理です。残念ながら現実世界はこの国益で動いています。国益とは国のエゴになります。エゴ、自己中は人間関係に於いて嫌われてしまいますが、こと国際間においてはこの言葉は当然とよしとして使われています。個人では常日頃立派なことをいっていても、残念ですが、この現実は今の所、誰も変える事はできません。

 個人間なら、自己中と言われるだけで非難されるのですが、どうして、国際間ではそうならないのでしょう。ちょっと、不思議な感じがします。国家と個人はどこが違うのでしょう。個人的に立派な人でも、ひとたび国の代表になれば、国益を第一にしないとやっていけないのです。矛盾を感じますが、仕方ありません。

 このことについて、ちょっと、考えてみますと、誰もが、今の世の中で、外交交渉をするときに、国益を重視して外交しているということに、罪の意識はありません。むしろ、当然として、交渉に当たっているのです。借款とか、援助ということはどの大国も発展途上国にしています。

 しかし、最終的にはそのお金は周り巡って自国の利益の為にばらまいているようなものです。国家間の軋轢や紛争もすべて、この国家のエゴがぶつかり合っています。ですので、現実はパワーゲームの様なもので、残念ながら最後は国益優先の大国の論理で動いています。国連も、大国の拒否権がありますし、オリンピックも似たりよったりでしょう。

 北朝鮮はその現実を百も承知で核大国化をめざしています。だから、絶対、核は手放さないのです。大国が核を放棄しない限りどんなに国際世論がいっても聞く耳を持たない理由が手にとって分かるのです。

 しかし、このエゴも、自国の利益は守るだけに使われるなら、まだいいのです。 戦争になるのは、国益を追求するあまり、外国を侵略したり領土を拡張したりし、他国の権利を脅かすときに戦争になるのです。この一歩手前で踏みとどまるようにしなければなりません。残念ながら、この現実が踏みにじまれるような大国の論理がたまに見られるのが残念です。

 そういう面から、観光は大きな平和外交の手段です。日本も今後オリンピックを挟んで観光立国に傾いていこうとしています。これは、お互いに交流しあうことで異文化理解につながり、平和にも大いに貢献するものと思います。どんどん進めて欲しいです。

 

 自己啓発系著書の原点とも言われる、デール・カーネギー氏は著書「人を動かす」中でこんな事をいっています。

人を非難するかわりに、相手を理解するよう努めようではないか。どいういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれてくる。

 カーネギー氏は文中で、批判、非難する行為について以下のように記しています。

他人のあら探しは、なんの役にも立たない。相手は、すぐさま防御体制をしいて、なんとか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心をおこすことになり、まことに危険である。

批判が呼びおこす怒りは、従業員や家族・友人の意欲をそぐだけで、批判の対象とした状態は少しも改善されない。他人の欠点を直してやろうという気持ちは、たしかに立派であり賞賛に価する。だが、どうしてまず自分の欠点を改めようとしないのだろう?他人を矯正するよりも、自分を直すほうがよほど得であり、危険も少ない。利己主義的な立場で考えれば、たしかにそうなるはずだ。

 

 さて、ここで私が言いたかったことは、国益優先の世界観を根底から覆すにはどういう条件が整えばいいかです。これは、人間がもとより、性善説か性悪説かを昔から議論していく以前の話であり、本能に訴えるお話です。

 それは、生き物は外敵があると、内紛をやめてそのために立ち向かうと言うことです。いわゆる地球人すべてが運命共同体になったときです。それは、一度は読んだことがあるでしょう。椋鳩十「片耳の大鹿」の物語です。

 その中で、鹿を殺そうとした狩人が偶然にも起こった嵐により、洞穴に逃げ込み鹿に助けられ、鹿に感謝するお話です。

 このお話こそ、人類を国家のエゴから救う大きなヒントが隠されていたのです。誰もが、是非、呼んで頂きたいです。世界の著名な政治家にも呼んで頂きたいです。英訳でもされて、世界の図書館に並べられるべき名著です。

 人類が運命共同体になるときとは、今後あり得そうな事は、温暖化がもっと、進んで、自国の利益ばかりをいっていられないときです。そのような時も現実、段々近づいているように思います。温暖化で海面も膨張してきています。自国の事ばかり言っていれば自国も滅んでしまうのです。運命共同体となり、協力してこの脅威から守っていかなければいけません。SFの世界ではないのです。

 そんな主題の映画でも映画監督であれば作りたいです。どうか、大国の政治家が国益からをやめ、地球益を追求する賢い人になって欲しいと思います。そういう地球人が一つになる運命共同体の日も、少しづずつ近づいているのではないでしょうか。

 

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文系も理系もない、ただ現実があるだけ

2018年01月20日 | エッセイ
【Fuwari】バレンタイン お菓子 クッキー チョコレート ラッピング 300枚 包装袋 小分け ホワイトデー 義理チョコ 友チョコ プレゼント などに ( ホワイト、ミント、ベージュMix, M)
クリエーター情報なし
Fuwari

震災8年1月20日

 やたらと、人は分けたがる傾向にあります。あの方は理系だとか、文系だとか言いますが、ステレオタイプ的に決めつけない方がいいのではないでしょうか。たまたま、今、考えていることは理系的だとか文系の発想だとは思いますが、文系も理系も混ざっているファージーな状態が適切な表現ではないかと思います。そういう見方の先にあるのが、極端ではなくバランス感覚に繋がってくるのだと思います。

 よく、こんな話があります。雪は解けると何になる?①春になる。②水になる。どちらも正解です。また、③春になって水になる。なんて、③の答えもあるかもしれません。そうですね。実際は③の答えも多いのではないでしょうか。

 文系か理系という前にそのものをしっかり見つめることが大切だと思います。そして、今はそこから何を得ることが大切なのかを、しかと見つめることだと思います。理科の勉強というと理系といいますが、その前に、それを確かめたいという強い追及心とか、誰かに認められたいとか、人の役に立ちたいとか、そのことで人を救いたいとかいう内面的な動機が結構大切な気が致します。それは、文系理系以前のものだと思います。そして、それを解決しようとする強い意志は文系理系以前の心の問題です。

 戦後の教育はその内面のメンタルな部分で大きな後れを取っているのではと思います。なんでも、すぐ、答えが欲しいし、効率や効果を期待しすぎています。人生そればかりではありません。すぐ温まるものはすぐ冷えます。人の心は複雑です。このように時間というエイジングを経て為すことがおろそかになっている現代人は大きな大切なものを失っています。長く延命を図るだけの命ではいけません。どう生きたか、が大切です。そういう面で現代人は退化して来ています。長く生きることが大切でなく、どう生きるかが大切です。寿命という意味をもう一度考え直さなくてはいけません。

 文学は理屈では割り切れない内面や人の弱さを表現できます。ロケットを打ち上げるには科学や化学の力を借りることが多々あります。そして、月に到着したいと思えば宇宙をイメージする力も必要でしょう。同じロケットでも性能ばかりでなく見た目のスマートさやかっこよさも追及したくなるでしょう。誰もが、乗りたくなるような夢のデザインも必要です。

 こう考えると、すべてのことはシームレスに繋がったり、交じり合ったりするのが本来の姿のようです。分け隔てることは差別にもつながりますし、分断にもつながってしまいます。

 しかし、トータルで見たり、バランス感覚で考えたり、デザイン感覚でとらえたりシームレスに物事を見れば、人を許したり寛容な態度が取れたり融和点も容易に見つけられることになるのではと思います。人種問題や同和問題も同じようなものではないでしょうか。解決の糸口はその辺にあるようです。

 広く、浅く、あまねく、共通点を見つけることが仲良くなる最大のことです。光があれば必ず影ができます。影があるから、光が生きてくるのです。空白があるから、実物も生きてきます。休符があるから音符が生きてきます。緩があり急があります。陰があり陽があるのです。一面から全体を想像しますが、全体を見て一面を理解することもあります。主観があり客観があります。自分を俯瞰してこそ本質も見えてきます。すべてトータルにとらえてこそ、確かなものが見えてくるのです。

 今の世の中、もう一度、大切なものを失っていないかをじっくり考えてみたいと思いいます。

 

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庭の花で生ける

2018年01月16日 | 我が家の庭
フェレロ ロシェ(FERRERO ROCHER) T-30 チョコレート 30粒
クリエーター情報なし
フェレロ

震災8年1月16日

 冬になると、花が少なくなります。が、見渡すと山茶花や寒椿がまだ咲いていました。花の少ない時期ですが、殺風景な玄関を少しでも彩り豊かにしたいと思い飾って見ました。

 ちょうど、家に花瓶がありましたので、生けて見ました。実は興味があって少しだけ、池坊を習ったことがあったんですよ。それは、池坊が自然に近い生け花だったこともありました。自分の感性に近かったんですね。

 花だけでは物足りなくなり、以前近くで採ったヒヨドリバナというフジバカマにそっくりな花が庭にありましたので、枯れてはいましたが、一緒に花瓶に挿してみました。その雑草はフジバカマと同様アサギマダラの大好きな花です。

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