震災8年1月23日
外交と武力というのが、今、現実の国際社会です。本当は思いやりという言葉が、国際間でも望ましいのですが、未だ現実は、これとはほど遠い感じです。
死の商人という言葉さえあります。武器のやりとりを商売にしている人です。悪いと知っているは思いますが、無くならないのです。現在の、国際紛争が無くならない限り、それを生業とする人たちが存在してしまいます。日本も、否応なしに、防衛予算を増やしています。利益を上げているのは世界の軍需産業です。それも、国とつながって商いをしているからたまりません。
世界に緊張を作り出して、赤字を埋めることもあるでしょう。そう、思いたくはありませんが、それが、紛れもない現実です。今回の、北朝鮮問題ではたくさんの軍需産業が利益を得たのでしょう。
軍事技術の発展といえば、こんな話があります。インターネットはもともとは、軍事用に開発が進んだと聞いています。それが、民生用に利用され現在大きな影響力を持つようになりました。でどこは悪いのですが、平和に利用されているのです。
古来、人がいる限り、世界の歴史はある面、戦争を舞台にその犠牲の上に成り立っているといっても過言ではありません。戦争と戦争の間に平和があるようなものでした。
自分を守るために軍備を拡張する。この流れが現実の物となってしまいました。過去、人類は大きな戦争を二度してしまいました。今度起きれば、地球規模で大きなダメージを追ってしまうでしょう。そうさせてはいけません。そのために、国連ができ、オリンピックが開催され、サミットも行われ、世界は自国の利益を求め、軍備を拡張させながら、ある時は軍縮に傾き、どうにかバランスを保ちながら、平和を維持して来ました。
平和はほっておいても、力の論理でどこかに追いやられてしまいます。平和は維持することが大切です。無関心でいては、国家のエゴの為にどこかに追いやられてしまいます。二度の世界大戦から人類は大きな教訓を学んだのです。それを、今後も生かして言って欲しいです。
その解決は現実ではBalance of Power しかありません。非武装中立などあり得ないのです。スイスでさえ武装中立です。自分の身は自分で守るのです。そして、その自分が確かなものとなった時、人様の為になる思いやりが発揮されるのです。それが、現実です。自分がなくなっては、人も守れません。
イスラエルの首都をエルサレムに決めるというのも、大国の論理です。残念ながら現実世界はこの国益で動いています。国益とは国のエゴになります。エゴ、自己中は人間関係に於いて嫌われてしまいますが、こと国際間においてはこの言葉は当然とよしとして使われています。個人では常日頃立派なことをいっていても、残念ですが、この現実は今の所、誰も変える事はできません。
個人間なら、自己中と言われるだけで非難されるのですが、どうして、国際間ではそうならないのでしょう。ちょっと、不思議な感じがします。国家と個人はどこが違うのでしょう。個人的に立派な人でも、ひとたび国の代表になれば、国益を第一にしないとやっていけないのです。矛盾を感じますが、仕方ありません。
このことについて、ちょっと、考えてみますと、誰もが、今の世の中で、外交交渉をするときに、国益を重視して外交しているということに、罪の意識はありません。むしろ、当然として、交渉に当たっているのです。借款とか、援助ということはどの大国も発展途上国にしています。
しかし、最終的にはそのお金は周り巡って自国の利益の為にばらまいているようなものです。国家間の軋轢や紛争もすべて、この国家のエゴがぶつかり合っています。ですので、現実はパワーゲームの様なもので、残念ながら最後は国益優先の大国の論理で動いています。国連も、大国の拒否権がありますし、オリンピックも似たりよったりでしょう。
北朝鮮はその現実を百も承知で核大国化をめざしています。だから、絶対、核は手放さないのです。大国が核を放棄しない限りどんなに国際世論がいっても聞く耳を持たない理由が手にとって分かるのです。
しかし、このエゴも、自国の利益は守るだけに使われるなら、まだいいのです。 戦争になるのは、国益を追求するあまり、外国を侵略したり領土を拡張したりし、他国の権利を脅かすときに戦争になるのです。この一歩手前で踏みとどまるようにしなければなりません。残念ながら、この現実が踏みにじまれるような大国の論理がたまに見られるのが残念です。
そういう面から、観光は大きな平和外交の手段です。日本も今後オリンピックを挟んで観光立国に傾いていこうとしています。これは、お互いに交流しあうことで異文化理解につながり、平和にも大いに貢献するものと思います。どんどん進めて欲しいです。
自己啓発系著書の原点とも言われる、デール・カーネギー氏は著書「人を動かす」中でこんな事をいっています。
人を非難するかわりに、相手を理解するよう努めようではないか。どいういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれてくる。
カーネギー氏は文中で、批判、非難する行為について以下のように記しています。
他人のあら探しは、なんの役にも立たない。相手は、すぐさま防御体制をしいて、なんとか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心をおこすことになり、まことに危険である。
批判が呼びおこす怒りは、従業員や家族・友人の意欲をそぐだけで、批判の対象とした状態は少しも改善されない。他人の欠点を直してやろうという気持ちは、たしかに立派であり賞賛に価する。だが、どうしてまず自分の欠点を改めようとしないのだろう?他人を矯正するよりも、自分を直すほうがよほど得であり、危険も少ない。利己主義的な立場で考えれば、たしかにそうなるはずだ。
さて、ここで私が言いたかったことは、国益優先の世界観を根底から覆すにはどういう条件が整えばいいかです。これは、人間がもとより、性善説か性悪説かを昔から議論していく以前の話であり、本能に訴えるお話です。
それは、生き物は外敵があると、内紛をやめてそのために立ち向かうと言うことです。いわゆる地球人すべてが運命共同体になったときです。それは、一度は読んだことがあるでしょう。椋鳩十「片耳の大鹿」の物語です。
その中で、鹿を殺そうとした狩人が偶然にも起こった嵐により、洞穴に逃げ込み鹿に助けられ、鹿に感謝するお話です。
このお話こそ、人類を国家のエゴから救う大きなヒントが隠されていたのです。誰もが、是非、呼んで頂きたいです。世界の著名な政治家にも呼んで頂きたいです。英訳でもされて、世界の図書館に並べられるべき名著です。
人類が運命共同体になるときとは、今後あり得そうな事は、温暖化がもっと、進んで、自国の利益ばかりをいっていられないときです。そのような時も現実、段々近づいているように思います。温暖化で海面も膨張してきています。自国の事ばかり言っていれば自国も滅んでしまうのです。運命共同体となり、協力してこの脅威から守っていかなければいけません。SFの世界ではないのです。
そんな主題の映画でも映画監督であれば作りたいです。どうか、大国の政治家が国益からをやめ、地球益を追求する賢い人になって欲しいと思います。そういう地球人が一つになる運命共同体の日も、少しづずつ近づいているのではないでしょうか。