我が家にナンキンハゼの木がある。最初は1mほどの小さな木であったが今では5m位の大きさになり、我が家のシンボルツリーとなりつつある。ほっておくと枝が伸び、隣のうちへも迷惑をかけるので、時たま、枝打ちをしている。以前枝打ちして薪にして(七輪でサンマ等を焼く)おこうと思い保管してあった物を斧でわったところ、その肌の持つ触感、香り、色、年輪模様等の魅力にとりつかれた。「蛙の子としての父の遺伝子が組み込まれているのかな。」と、一瞬そのとき思った。実は父は家具職人であった。そういえばはるか昔の父の面影がその木肌の感触にふれたとき、ふっと湧いてきたのである。親父もこうして木を見て、これは桜だ朴の木だとか言っていたなと思った。生きていれば99才になるのだ。
私が幼少の頃、父はまだ、座卓を自宅で作っていた。それを仕上げ売って生活をしていた。にかわや御飯粒でできた糊で木と木を接着していたことも思い出す。当時の私としては、親父の働く姿は見ていたが、なぜか、家具職人の後を継ごうなんて事は微塵にも考えていなかった。還暦も過ぎこの年になり初めて父の仕事の良さが分かってきた。「人生は芸術だ」と、言ったPL教団の本を読んだことがあった。彼はその中で対象とする素材が難しければ難しいほど意欲が湧くようなことをいっていたと思う。私の人生観も後半は、人生はなるほど芸術だともいえるなと思うようになっていた。物作りの本質もここになるなと思う。いや、人作りもすべてここに集約されるなと思う。芸術ということばの奥ゆかしさや広さは無限大である。また、そこには偏りやよどみは無い。ゆらいでいるようで芯はいつもしっかりしている。なるほど、人生は芸術であるといえるなと思う。色々な所に芸術性は求められる。そうでなかったら、淋しい気がする。考えれば考えるほど含蓄のあることばである。物を作る。生きものを育てる。皆芸術的な発想が必要だと思う。
割れた切り口を見ていると何とも幸せを感ずるから不思議だ。いつか、
かんなで削って表面を見てみたい。木は外観も色々だが、木目も色々で不思議だ。それぞれの持つ持ち味を生かして、いつか家具でも作ってみたい気もする。想うことはほんとに自由で楽しい。
参考 木材図鑑A 木材図鑑B
我が家のナンキンハゼの幹(直径15cm位)後ろは葉蘭(おむすび等を包む為に植えてある。)
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