想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

木肌(杢)から想う

2009年02月17日 | インポート

 我が家にナンキンハゼの木がある。最初は1mほどの小さな木であったが今では5m位の大きさになり、我が家のシンボルツリーとなりつつある。ほっておくと枝が伸び、隣のうちへも迷惑をかけるので、時たま、枝打ちをしている。以前枝打ちして薪にして(七輪でサンマ等を焼く)おこうと思い保管してあった物を斧でわったところ、その肌の持つ触感、香り、色、年輪模様等の魅力にとりつかれた。「蛙の子としての父の遺伝子が組み込まれているのかな。」と、一瞬そのとき思った。実は父は家具職人であった。そういえばはるか昔の父の面影がその木肌の感触にふれたとき、ふっと湧いてきたのである。親父もこうして木を見て、これは桜だ朴の木だとか言っていたなと思った。生きていれば99才になるのだ。
 私が幼少の頃、父はまだ、座卓を自宅で作っていた。それを仕上げ売って生活をしていた。にかわや御飯粒でできた糊で木と木を接着していたことも思い出す。当時の私としては、親父の働く姿は見ていたが、なぜか、家具職人の後を継ごうなんて事は微塵にも考えていなかった。還暦も過ぎこの年になり初めて父の仕事の良さが分かってきた。「人生は芸術だ」と、言ったPL教団の本を読んだことがあった。彼はその中で対象とする素材が難しければ難しいほど意欲が湧くようなことをいっていたと思う。私の人生観も後半は、人生はなるほど芸術だともいえるなと思うようになっていた。物作りの本質もここになるなと思う。いや、人作りもすべてここに集約されるなと思う。芸術ということばの奥ゆかしさや広さは無限大である。また、そこには偏りやよどみは無い。ゆらいでいるようで芯はいつもしっかりしている。なるほど、人生は芸術であるといえるなと思う。色々な所に芸術性は求められる。そうでなかったら、淋しい気がする。考えれば考えるほど含蓄のあることばである。物を作る。生きものを育てる。皆芸術的な発想が必要だと思う。
  割れた切り口を見ていると何とも幸せを感ずるから不思議だ。いつか、
かんなで削って表面を見てみたい。木は外観も色々だが、木目も色々で不思議だ。それぞれの持つ持ち味を生かして、いつか家具でも作ってみたい気もする。想うことはほんとに自由で楽しい。
 
  参考 木材図鑑A  木材図鑑B  

  我が家のナンキンハゼの幹(直径15cm位)後ろは葉蘭(おむすび等を包む為に植えてある。)

  

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Spring has come.

2009年02月17日 | インポート

 浜岡砂丘公園)(御前崎市)の河津桜が八分咲きになりました。500M以上に渡って道の両側に植えてあります。健康をかねて見に行ってきました。植えてから7年目だそうで、まだ、苗は小さいですが、これから、どんどん伸びて花のトンネルになると、有名な観光スポットになると思います。ピンク色の花が何ともいえない可愛らしさです。
 しばらくすると山桜や染井吉野の桜ももうすぐ咲くことでしょう。

  

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 霧から想うこと

2009年02月10日 | インポート

  今日は朝霧が凄かった。実に幻想的な風景である。私が住んでいる付近は結構このように霧が出ることがある。気温が急激に上昇し冷えた空気と混ざって起こる現象だろうと思う。霧もよく観察していると濃いところと薄いところがある。自然はどちらにしても美しい。神秘に満ちてもいる。たまに、虹を見るときもある。古来人間は自然と共に生きてきた。これからも未来永劫こうしていくのが自然の摂理であろう。自然は摩訶不思議な世界でもある。自然は懐深くだれにでも手をさしのべてくれる。私たちはそれに身を任せるだけでいい。だから、人は癒される。自然は一時たりとも同じ事はない。その刹那刹那で状況を変えていく。喜びも悩みも 絶えず変化していく。
  今の時代に一番欠けていること、それは畏敬と感謝と謙虚な心だと思う。人は自然の一部でもある。自然の一部であると悟るとき、人は自然から畏敬という二文字をいただく。

  
 東から出て、西に沈む太陽。よくウォーキングをするときに、夕日を見るのだが、サンセットということばを思い起す。沈んでいくんだが、やがて、また、東の空から昇ってくる太陽。それを見ていると太陽の持つとてつもなく大きなエネルギーを感ずる。今日も一日終わったなという感じだ。一日一生ということばもある。確かに一日一日はこのようにして、希望に始まり感謝に終わるのだろと思う。そして、この営みは永遠に続いていくのだろうと思う。しかし、やがて何億年か立てば、太陽も自然の流れには逆らえず、寿命を迎え、大きな自然の流れの中で消滅し、他の物に変わって行くことだろう。ずとるべきこれが自然である。必ず自ずと然るべき所に落ち着いていく。人は自然には逆らえないのだ。自然を利用したつもりでいるだけである。それで、天寿を全うする。(個人はそうであるが、人類は子孫を残しつながっていく。だから、一人で生きていると思ってはいけない。祖先や子孫のことも考えなくては、また、周りの人のことも)
   自然のリズムに乗って感謝して生きていくのがいい。大河の流れの中の手こぎボートのようなものである。自分の力で船を漕いでいると思う。だが、遠くから眺めれば確実に大河の流れに押し流されている。だから、大河の流れを遙か彼方から、混じりけのないピュアな心で見なくてはいけない。そう考えれば、虚飾と嘘が混じり合う自分で漕いでいると思うボートのような現実の世界も見えてくるだろう。その現実の彼方にある世界を感じつつ毎日を生きて行くことの大切なことが分かってくるだろう。

 古来人間は太陽や光を神とあがめてきた。いつのまにか、その恩恵を忘れ、独りよがりになり、万物の霊長などとおこがましいことを言うようになったのだろうか。人間は決して万物の霊長ではない。自然の一員なのだ。その辺から温暖化という問題が出てきているのだろう。今、100年に一度といわれる不況の底なし沼の中に我々はいる。しかし、これとて、なるようになっている自然現象として今があるのだと思う。朝の来ない夜はない。「おごれる平氏も久しからずや」だ。平家物語もこの辺の真理をいっている。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ (平家物語序文)  人の心は今も昔も同じことかなと思わずにはいられない。ただ、気になっていることに、現代人はしゃべりが少し早くなっていないかということだ。この辺が、時々気に掛かっている。昔はもっと悠長にのんびりしていたと思う。この速度がどういう問題を起こしているかが興味深く感ずる。学校の音読でも、昔話を読む場合は幾分遅めに読むのがよいだろう。

  

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