震災9年8月16日
体の調子が余りよくないときあなたはどうしますか?すぐに薬に頼りますか?あるいはすぐに医者にみてもらって、大量の薬を処方してもらいますか?
今の日本では、体調がすぐれないときに、何の躊躇もなく、すぐ、薬を飲んだり、医者に行ったりします。どうも、そういう傾向は日本だけのようです。
日本は病院で寝たきりの老人大国でもあります。また、平均寿命の延びが健康寿命の延びより上回っているというおかしな現状でもあります。これは、寝たきりの状態が長くなり、平均寿命が延びているということになり、QOLの期間が延びたのではなく、薬漬け医療付けの期間が増えただけです。これは、何の為に人は生きているかというよりも単に平均寿命が長くなっただけです。人間の尊厳にかかわる由々しき問題でもあり医療費を無駄に使っているといえます。
これからは、健康寿命そのものに焦点を当てていかないといけません。そして、その健康寿命余命年数の統計を急ぐべきです。今、残念ながら健康寿命の統計値はあるのですが、そこまで、健康だった人が後、あと、何年健康でいられるかという、健康寿命余命年数の統計値がどこにもないようです。それがないと、健康寿命を延ばす根拠がないことになります。これでは、どう現状を理解してどういう行政サービスをしていったらいいかという点で有効な施策を行えないはずです。平均寿命延ばして魂いれずになってしまいます。
先日も、その健康寿命余命年数について、電話で聞いてみましたが、地元の市役所、県、国にも健康寿命余命年数の統計がありませんでした。例えば現在72歳で健康な人の健康寿命の余命の統計値がないのであります。QOLという生きている時間を快適に過ごすという言葉が叫ばれるようになり久しいわけですが、言葉だけに終わってしまいます。政治は現実化させなければ意味がありません。
高福祉・高負担の国で知られるスウェーデンが実は「寝たきりゼロ社会」だとご存じでしょうか。そして、そこでは、胃ろうは虐待だといわれ、QOLが定着しています。言葉だけ広がった日本とは大きな違いです。最も、介護士も日本の低賃金の介護士と違い、公務員として身分も安定しています。ですので、当然、そこの国では介護士の力が大きいのです。
日本の場合は病院経営をする医師などが主導権を持っているケースが多く、すぐ投薬・治療という方向になり、どうしても、薬漬け、医療漬けになりやすいのです。しかし、スウェーデンの場合は介護士たちが大きな権限を与えられていて、認知症の場合には薬を使うよりも、本人がどんな助けを必要としているか汲みとることが重視されています。
日本の介護施設のように、寝たきりでベットで横たわっていることは少ないようです。何より本人の意思が一番に尊重され、散歩に出るのでも普通は誰かが付き添いますが、どうしても一人で散歩したいという人がいれば、家族の同意のもと、GPS付きの携帯を持たせて出かけるのを許可します。それで本人が事故に遭ったとしてもあくまで自己責任なので、施設の責任が問われることはありません。やたら、施設に縛り付けておく日本とは大きな違いです。
もっとも、スウェーデンでは、在宅看護が基本で、そこに介護士が派遣されていくのが一般のようです。この点も、日本とだいぶ違いますね。施設の行くときは臨終間際です。日本では施設にいってからの寝たきりが多いですね。意味もなく生きているのは、虐待だというコンセンサスがしっかり取れている国ですね。そこまで、行くには長い年月がかかっているのでしょう。日本もそのような高齢者対策も見習うべきです。
また、高齢者の在宅医療も進んでいて、すぐ、施設にいくよりも、まず、在宅に介護士が訪問するのが普通のようです。そして、胃ろうなどは虐待と捉えていますので、まして、点滴や投薬漬けになるようなら、その時点で寿命が尽きたと考えているようで、とにかく、QOLを最大限尊重した考えのようです。
日本も今、在宅が基本が施設が基本かで意見が分かれているのではと推察します。もし、施設を基本に高齢者医療を考えるのなら、過剰医療はしない、それは虐待であるという基本に立ち返り、リハビリや気分転換を図るなり、QOLを最大限尊重する施設に帰る事が大切です。そして、社会福祉大国をめざすように大きく方向転換しないといけません。その、財源をどこから捻出するのかも大きな課題です。元気な人が増えれば医薬品代や医療は減っていくと思いますので、その辺も考えたらいいのではと思います。
もう一つ、介護の質を上げるのも重要です。そのためには、低賃金体質をやめることから始めないといけません。人を相手にする仕事はもっとも大切な仕事だということを賃金で示してあげることです。保育士も同じようなものです。低賃金ではモラルにも影響してきます。
無駄な薬漬けと医療は日本の健康保険制度にも大きく関わってきます。まず、保険料金がすごく高くなるということです。潤うのは製薬業界でしょう。直す基本は薬ではなく、それぞれの人が生来持って生まれた自然治癒力なんです。それを、強くするのは薬ではなく、運動や栄養などなのです。その辺に政府はもっとお金を使って欲しいと思っています。そうすれば、病院にかかる人も減っていくでしょう。市民の為の健康保険制度です。その寄金をそういう健康維持の施設などにも振り向けることはできないのでしょうか。薬を使う以前の問題なのです。保険税の使い方を再構築することが大切です。
たとえば、ジムを使ってリハビリする費用を保険で賄うとか、高齢者が旅行に行く費用の一部を年間1回だけ負担するとか、アイデアは色々出てくるのでは無いかと思います。それも、結果的に医療費を使うよりも、その面にお金を使う方が費用がかからないという前提があるからです。最終的にはすべての事は人間らしく幸せに何人も生きるという憲法第25条にあるのです。
そうするだけで、医療費は大きく減少するのです。病気になる前の施策が大事なのです。病気になってからでは遅いのです。そうして、過剰医療は虐待だという世論を作り上げることです。そうすれば、健康保険にたくさんのお金を払っている市民はもっと、その負担の軽減をすることができるのです。そういうキャンペンも市民参加のSNSを通してやれる時代になってきたのです。健康保険と医薬品業界との癒着についても十分市民は監視して行かなくてはなりません。
今の世の中、ITやAIの活躍する世の中になり、便利で効率的なものにどっぷり、つかり過ぎているのが目に浮かびます。まさに、それは、日本の医療そのものが、社会的に病魔にかかっているようなものです。そういう認識を持つ必要があります。
個人の病気には関心があるのに、社会の病理には無関心もいけません。もっと、広く公的な面にも目を向けていないと、いい社会にはなりません。基本的人権と口供の福祉はバランスが大事なんです。若い頃はこの勉強をよくやりました。保険制度の功罪を洗い出し、制度や運用方法を今一度洗いなおすことをしてもいい時代だと思います。NHKばかりでなく何でも長い年月が過ぎると、だいぶ垢がたまってきます。
便利な他力に頼り過ぎていないで、何でも、自分の力で考える習慣をつけたいものです。忙しい時代だからこそ、心を亡くさないで自分で考えるのです。忙しい時こそ、心の余裕を失ってはいけません。心の余裕とは間口を広くして考えるのです。便利なものほど、結果的に不便になるのです。一時の便に心を動かされてはいけません。
さて、薬を使えばは目先の症状を一時的には緩和してくれます。ちょっとした発熱なら、医者にかかる頃には、実は治りかけていることが多いのです。薬で治ったのでなく、時間の経過と自己の自然治癒力おかげで治ってきたのです。
それは、自然界を眺めていれば良くわかります。風が起こる理屈です。気圧の差が起これば、それを是正させようとして、空気が流れ風となります。それで気圧の差が無くなれば、また、凪となります。それが、また、何らかの影響で気圧の差を生み、風が流れ、そのサイクルは永遠に続いて行くのです。それが、自然の道理です。弁証法で言えば、正反合、正反合と続いてゆくのです。自然は最高の教師なんです。
病魔も同じもので、肉体の内面のバランスが崩れるときに、起こるのです。それを、是正しようとして内面葛藤しているときが、病気の状態なのです。それは、自然現象であり、人体という中でバランスを取っているのです。病気というより、自然現象だと思えばいいと私は考えています。やがて、ある時期がくればそれは平準化されてくるのです。その状態が健康な状態なのです。
自然をよく観察すれば、色々なことが分かるのです。また、仏教では諸行無常といって、いっときも同じ状態は無いと言っています。だから、ずっと風邪をひいていることもなく、いずれは治るのです。また、死もこれも、諸行無常が招来するのです。これは真理です。ですから、避けることはできないのです。避けることのできない物は受け入れるしか無いのです。死は現世の終着ではありますが、永遠の命の始まりでもあります。人の心とはまか不思議なものです。私もいつか永遠の命の世界、質量や形の無い世界に旅立つことでしょう。