想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

緑の効用

2016年11月22日 | エッセイ

震災6年11月22日

民泊サイト

 私は野山を歩いたり緑の多い所をドライブしたりするのが、大好きなんですが、その時、ふと思いついたことがあります。それは、緑の野山を見る人には非行人間はないのではと思ったのであります。それは、第六感とも言うべき者だったかもしれませんが、どう考えても緑と非行は結びつきません。

 その緑とは都知事でも有名になった小池カラーでもありますし、実に心をきれいにする色だなと思います。そして、私たちが生活して行く上で緑はかかせません。自然の草木はほぼすべて緑でできあがっています。そして、緑を鑑賞する人の心理状態を見てみますと、落ち着きとか思慮深さが関連してくるように思われます。そうです、緑は平和にも繋がる色なのです。

 それが、空の青と調和したらどうでしょう。美しいと思いませんか。その中に、朱色の柿でも実っていたらまた、すばらしい色彩の絵が出来上がるでしょう。まさに、透き通り秋空の中に泳ぐ柿の実や錦織りなす紅葉の山々も同じようなものでしょうね。それに、心を寄せ、感動し、感銘を受ける人の中に非行少年はなじみません。どう、考えても彼らとその絵がマッチングしません。それが、絵画だとしたら、とても同じキャンバスに描くことさえ想像できないでしょう。そうなんです。健全な精神は自然の緑に宿るということです。
 
 山ガールや登山愛好家、ハイキング好きに非行はなじまないのです。また、どうでしょう。園芸好きな人と非行も結びつかないでしょう。花を見て怒る人はいないでしょう。花を愛でるという言葉があります。愛でるとは物の美しさ・素晴らしさをほめ味わう。感嘆する。 かわいがる。いとおしむ。等の意味があります。

 そうなんです。そう考えるとどうも、非行という概念は人とのつながりや人工的な物の関連において何か屈折したものが、あったに違いありません。特に人間関係が大いに関連してきます。そして、背景は人工物で溢れています。そこには自然や緑は出てこないでしょう。

 今の子に一番欠けているのが、畏敬の念です。それと正反対の世界、自分が我執にとらわれてしまっています。諸行は無常なのです。 

 

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壁画

2016年11月21日 | 野山散策

震災6年11月21日

 とある工場の壁画と思いきや、よく見ましたら、ツタが壁に沿って這っていた跡だったのです。珍しい自然の壁画ができていたのです。縦横8M×8M位で60㎡有余あるような大きさです。なかなかこのような絵を描こうとしても書けるものではないですね。

 自然は実に変化に富んでいます。壁画まで作っちゃうなんて本当にびっくり仰天です。

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微笑ましいマガモ夫婦

2016年11月21日 | 野山散策

 震災6年11月21日

マガモビデオ

 毎回訪れる公園のマガモが、先日もつがいで泳いでいました。あまりにも微笑ましい姿でしたので、写真に撮りました。ほんとに中のよい夫婦だなと感心しました。潜っては何かを食べているのでしょう。同じ動作を何回も何回も飽きずにやっていました。
 何度見ても飽きない風景です。

 

 

 

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自家菜園から想う

2016年11月20日 | エッセイ

震災6年11月20日

 

   菜園の様子を紹介します。その他,日野菜、パパイヤなどもそだてています。里山農法と称して基本は鶏糞と中和の為の石灰来以外は使いません。 後は自然とどう仲良く付き合うかを考えています。

  我以外は師であり、自然は最高の教師でもあります。自然の摂理の中から色々学びます。畏敬の念も大事にします。今の子に欠けているのは畏敬の念です。
 

  今後は珍しい品種や花なども植えてボタニカルガーデンもやったり、ブルーベリーもどうかと考えています。
終活テーマは自然ですので、その観点から考えています。無理をせず、自然の力を生かすことです。

  生来、そのものが実存するということは、そこに何らかの価値が内包されていると考えます。その価値を最大限伸ばす事が私の務めと考えています。
 

  自然は価値のない人間はこの世に誕生させません。後はケセラセラ、成るようになり、成るようににしかならないのが世の常と思います。

  また、諸行は無常でもあります。森羅万象、刹那刹那日々変わっていきます。常識を過信してはいけません。その根底も常々変化しています。私は発見はいつも、常識を疑うことから始まると思っています。富士山も五合目の景色と山頂の景色が違うように、自分の立ち位置により見え方は変わって来るのです。

 庶民には庶民の目線があります。権力者には権力者の目線位置があります。それが、違えば見え方も違って来るのが自然です。このことはとても大事なことです。自分は固定的なものではなく、常々変わっているのです。

 戦後の農地改革など、誰が想像したでしょう。小作人はいつでも小作人でしかありませんでした。それが、終戦と共に大きく変化したのです。誰がこんなことを予想したのでしょうか。農地制度は特に第二次大戦後、GHQの指令により、地主制が解体され小作人も土地がもてるようになりました。

 いわゆる小作人の立ち位置が変わって来たのです。今までの目線が変わったのです。どうでしょう。そうすると景色が変わって見えて来たのです。

 今、貧困と富裕層の差が日本でも益々開きつつあります。どちらに属するかにより、立ち位置が変わって来るのです。

 そうです。今、教育界では絶対評価方法がとられていますが、現実は私は相対評価が正しいと思います。もし、人間がいないと仮定するなら、絶対的なものも存在するでしょうが、我々の社会は人間の眼から見ての社会です。すべての仕組みも人間が考え出したものなのです。ですので、絶対評価といっても結局は人間が評価する社会ですので、相対的の物事はとらえることからは逃れられないのです。ですので、文科省のいう絶対評価は間違っていると思います。現場でも困っていることと思います。やはり、偏差値でみるしか仕方がないのです。

 真っ黄色のひまわり畑で黄色い服をしてても目立たないと同じようなことです。その補色の色があってこそ、黄色い服も人に注目されるのです。世の中ダイヤモンドが浜の真砂のようにたくさんあったら誰が宝石とみとめるでしょうか。それと、同じです。稀少であるが故に価値があるのです。昔のバナナがそうでした。高かったですね。滅多に食べられませんでしたが、今はどうでしょう。言わずもがなです。

 

鶏糞を入れ石灰で中和しています。

ほうれん草です。左は冬瓜

白菜、右は大根

ほうれん草とソラマメ


九条太ネギとジャガイモ

小豆


ヤマトイモだったかな?


じゃがいも、左の少し見えるのがほうれん草

大根


太ネギとイチゴ 左下のが、バジル

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小豆に群がる昆虫たち

2016年11月16日 | 家庭菜園

震災6年11月16日

 菜園の中の小豆にたくさんの虫たちが群がって来ます。密を吸うのか分かりませんが、チョウがたくさん乱舞してます。また、それをねらって蜘がきます。花芽の近くではありが密を吸うのでしょうか。集まっていました。さながら、小豆の所は昆虫ワールドです。ずっと、みていても飽きが来ません。

チョウを虎視眈々とねらっています。今にも飛びつきそうです。

 

 

 

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