想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき) 

2024年04月24日 | エッセイ
コロナ5年4月24日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 最近は4文字熟語は、あまり使われなくなりました。ひょんなことから、唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)こんな二つの言葉が出てきましたのでブログに書いてみました。

 唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)です。魑魅魍魎(ちみもうりょう)とか、艱難辛苦(かんなんしんく)、付和雷同などの言葉なら聞いたり使ったりしたことはありますが、唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)初めてでした。

 そんなわけですが、どんな意味を持っているか、ちょっと調べてみました。そしたら、唯唯諾諾とは、言われるがまま従ってしまうという意味で、相手の言うことに少しも逆らわず、従うさまを言い、昔の書物ではかしこまって了承する時の応答の語としても使われていたようです。主体性のない協調性かな。

 倜儻不羈(てきとうふき)は個性的で自立心の強い人々を表す際に使われ、自由奔放で束縛されないさまを表し、この表現は、規則や慣習に縛られず、自分の信念や欲望に従って行動する人を指すことがあり、江戸時代には、よく使われていた言葉のようです。まあ、信念のある主体性というところかな。

 まだまだ、この年になっても、私の知らない日本語の言葉がたくさんあったのですね。もう、びっくりしてます。勉強のし甲斐がありますね。日本語は奥が深いとあらためて想いました。

 同志社の新島襄、早稲田の大熊重信、作家の司馬遼太郎なども、好んで倜儻不羈という言葉を使っていたことが分かりました。明治維新の流れを感じますね。

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人生、どこで差がつくか?気づく力

2024年04月20日 | エッセイ
コロナ5年4月20日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 学校教育というのは幼稚園(保育)に入ってから大学卒業するまでと考えると、およそ20年ぐらいありますよね。まあその中には先生と言われる人がいてその教えをこうわけですね。

 ところが、人生というのは80年生きたとして、まあ、あと60年は自分で生きていかなきゃいけないわけですし、自分で職業も決めることもできるし、居住も決めることができますよね。伴侶も決めることができます。

 まあ、何でも自分で行動しないとできないわけですですから、その60年という、そこで、その人の人生っていうのは決まってしまうわけですね。だからそこをどう生きるかということが非常に大切ですが、なかなかそこをどう生きるかってのは難しいですね。

 小学校一年生からやる生活科っていう教科が新設され久しいわけでありますが、この生活科は気づく力の連続、まあそういうようなことをやるんですが、やはりね、いろんなものと遭遇してるわけですね。人間って。

 で、これは、自分の意思で遭遇する場合もあるし、偶然に遭遇する場合もあるわけですよね。問題は、そこで遭遇することによって何を自分が得るか。何に気づくか。そのことで、将来が決まってくるんじゃないかと思いますね。

 その連続がまあ人生じゃないかな。まあその積分とも言えますよね。大げさに言うわけじゃないですが、その通りだと思いますよ。

 私はよく人生って、なるようになるし、なるようにしかならない。ケセラセラ、なんてことを言ってますが、このなるようになるには、後で考えてみると、どんなことをしたかが、現在の自分を作っているわけですよね。

 まあ、行動による気づきの連続が人生だと言うこともできるわけですね。まあ発見の連続だとも言えますよね。発見するというのも、気づく力があってこそです。そこに、直観とか、感性いうのも重要なファクターですね。

 まあポスト生成AIということも考えますと、芸術的にものを考えたり感じたりする力も大きなものもありますよね。人生というキャンパスはこう描かれているわけですが、学校教育というのは基本的には学習指導要領というのがありまして、国の方針に従って、先生がこう指導しているわけですね。

 ところが、人生というのは、それを元にして自分で切り開いて行かなければなりません。学校教育の知識に安住していてはいけませんね、そこには勇気、行動力というのもまた大きな力になってきますね。

 まあそのようなことは、個人でできることです。ただ困ったことに人生は個人で対処できるものと個人では到底対処できないような大きな事件に遭遇することがあります。例えば、戦争、大震災、コロナの出現みたいなものですね。

 今の古老の中には太平洋戦争をくぐり抜け、財産や家族を失い、満州から命からがら逃げ帰り、シベリアに出兵し、生死をさ迷った人もたくさんいますね。

 私の母なども嫁ぎ先の都会の広い土地を空襲のドサクサでなくしてしまったとよくいっていました。

  どうも私たちというのは戦後、基本的人権と称する個人の問題として考える事は多々あるわけですが、個人を超えて国家とか人類とか祖先とか子孫、そういう大きな捉え方をするのに、どうも慣れてないようですね。

 ですから今回のコロナの問題は、個人を超えて人類というものを考えるのに大きな影響を与えたと思いますよね。

 ある意味人間が一人ひとりわがままになっていたのかな。もっと私たちは日常、今あるのは祖先のおかげであり、将来禍根を残さないように子孫に良い社会を残して行くという考えも常に持って行くといいのかなとも思いました。

 私たち団塊の世代は、 日本においては大きな戦争もなく、やてきましたが、周りの国々ではきな臭い話も多くなってまいりました。特に日本の周りでは考えの違う国が多く、ますます今後注視していかなくてはならない時代です。
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お金持ちより心持ち

2024年04月07日 | エッセイ
コロナ5年4月9日
(ウクライナ、ロシア戦争3年)

   最近、相対的貧困という言葉をよく使いますよね。今、貧困層が増えてると…。しかし、これをよく見るとね。今の貧困と言うのは軽自動車やテレビは持っていても、貧困になってますよね。だからこれは一面、心理的なものでもあるわけですね。

 そして,昔の絶対的貧困っていうのは、もうほんとに物もない、食うものもない、そういう時代だったと思います。だから、今の貧困というのは、どうもピンとこないですね。想いは考えようでどうにでもなりますもんね。私のうちなども、バラック建てでひどいものでした。特に伊勢湾台風の時は、家が飛んでしまうかと心配をしたものです。もう、遥か昔の出来事になってしまいました。

 周りみんなが豊かになっているのに、自分だけという疎外感が心に響くんですよね。だけど、太陽は誰にでも光を与えてくれてるし、空気もただですよね。時の流れも、誰にも平等に与えられています。それこそ、天下の周り物です。そう考えれば、自然や周りの環境に恵まれてさえいれば、案外、内面は豊かだという考え方もできますね。ないものをないと嘆くのでなくて、あるものに気づきそれに感謝する気持ちが大切ですね。

 そういえば、お天道様とか罰が当たる、閻魔様に舌を抜かれる、壁に耳あり障子に目あり、月明かり、ほのぼの、良心の呵責、おかげ様で…などの言葉が使われなくなって久しいわけですが、寂しいですね。そこには自然への畏敬の念や、感謝がありますね。

 どうも、今の貧困は、物の豊かさで決まっている部分も大きいですね。心の貧困、それこそ、一番心配しなければならないことではないでしょうか。心が満たされること、心持になることが何より大切です。心は永遠ですし、形もないし、場所も取りません。お金持ちより心持をめざしましょう。

 昔、「名もなく貧しく美しく」と、いうタイトルの映画がありましたが、まさに、そんな考えが漂って、輝いていた昭和の時代が懐かしく想い出されます。そういう私は古い人間でしょうかね。今の時代が変わりすぎてしまって、一種のノスタルジアを感じるのかもしれませんね。夜中でもこうこうと照明がつき、田舎でも、闇夜がなくなり、植物の生態に影響があるかもしれません。やはり、自然と共に人間も生きるのが一番良いのではないかと想います。自然こそ最大の師匠ですから。

 相対的貧困という言葉も最近使い始めたんですよね。まだ私が子供の頃は、もう、貧乏といえば、お金がなくて、物もかえない。それだったんですね。そうそう、近所にも恵んでくださいといって、浮浪者がまわって来ていました。そんな時代を知っている世代が私たちかな。

 
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