コロナ5年4月20日(ウクライナ、ロシア戦争3年)
学校教育というのは幼稚園(保育)に入ってから大学卒業するまでと考えると、およそ20年ぐらいありますよね。まあその中には先生と言われる人がいてその教えをこうわけですね。
ところが、人生というのは80年生きたとして、まあ、あと60年は自分で生きていかなきゃいけないわけですし、自分で職業も決めることもできるし、居住も決めることができますよね。伴侶も決めることができます。
まあ、何でも自分で行動しないとできないわけですですから、その60年という、そこで、その人の人生っていうのは決まってしまうわけですね。だからそこをどう生きるかということが非常に大切ですが、なかなかそこをどう生きるかってのは難しいですね。
小学校一年生からやる生活科っていう教科が新設され久しいわけでありますが、この生活科は気づく力の連続、まあそういうようなことをやるんですが、やはりね、いろんなものと遭遇してるわけですね。人間って。
で、これは、自分の意思で遭遇する場合もあるし、偶然に遭遇する場合もあるわけですよね。問題は、そこで遭遇することによって何を自分が得るか。何に気づくか。そのことで、将来が決まってくるんじゃないかと思いますね。
その連続がまあ人生じゃないかな。まあその積分とも言えますよね。大げさに言うわけじゃないですが、その通りだと思いますよ。
私はよく人生って、なるようになるし、なるようにしかならない。ケセラセラ、なんてことを言ってますが、このなるようになるには、後で考えてみると、どんなことをしたかが、現在の自分を作っているわけですよね。
まあ、行動による気づきの連続が人生だと言うこともできるわけですね。まあ発見の連続だとも言えますよね。発見するというのも、気づく力があってこそです。そこに、直観とか、感性いうのも重要なファクターですね。
まあポスト生成AIということも考えますと、芸術的にものを考えたり感じたりする力も大きなものもありますよね。人生というキャンパスはこう描かれているわけですが、学校教育というのは基本的には学習指導要領というのがありまして、国の方針に従って、先生がこう指導しているわけですね。
ところが、人生というのは、それを元にして自分で切り開いて行かなければなりません。学校教育の知識に安住していてはいけませんね、そこには勇気、行動力というのもまた大きな力になってきますね。
まあそのようなことは、個人でできることです。ただ困ったことに人生は個人で対処できるものと個人では到底対処できないような大きな事件に遭遇することがあります。例えば、戦争、大震災、コロナの出現みたいなものですね。
今の古老の中には太平洋戦争をくぐり抜け、財産や家族を失い、満州から命からがら逃げ帰り、シベリアに出兵し、生死をさ迷った人もたくさんいますね。
私の母なども嫁ぎ先の都会の広い土地を空襲のドサクサでなくしてしまったとよくいっていました。
どうも私たちというのは戦後、基本的人権と称する個人の問題として考える事は多々あるわけですが、個人を超えて国家とか人類とか祖先とか子孫、そういう大きな捉え方をするのに、どうも慣れてないようですね。
ですから今回のコロナの問題は、個人を超えて人類というものを考えるのに大きな影響を与えたと思いますよね。
ある意味人間が一人ひとりわがままになっていたのかな。もっと私たちは日常、今あるのは祖先のおかげであり、将来禍根を残さないように子孫に良い社会を残して行くという考えも常に持って行くといいのかなとも思いました。
私たち団塊の世代は、 日本においては大きな戦争もなく、やてきましたが、周りの国々ではきな臭い話も多くなってまいりました。特に日本の周りでは考えの違う国が多く、ますます今後注視していかなくてはならない時代です。