想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

エビヅル発見!

2009年07月29日 | インポート

 先日、子どもをサッカーの試合に安倍川海岸に連れていった所、歩いていると「エビヅル」があるではないか、一瞬我が目を疑ったほどだった。これが
私が探していた「エビヅル」だった。その、紫の実がとてもおいしそうにぶら下がっていました。ちょっと、食べてみましたが、酸っぱい感じがしてぶどうそのものでした。実を蒔いてまた、自分で育ててみたいと思います。早速まいておきました。以前にも職場のフェンスにありましたので、それも、蒔いてあります。ほんとのぶどうのように房になっていました。エビヅル酒にしてもおいしそうですね。これに似た、植物に「山ぶどう」や「野ぶどう」があります。この違いは葉の裏と実の付き方、葉の大きさにあるようです。葉の裏が毛で覆われていて葉が小さいのが、「エビヅル」、大きいのが「山ぶどう」そうでないのが、「野ぶどう」。また、「エビヅル」や「山ぶどう」は雄雌の木に分かれているらしく、雄の木の方は実にまで成長しないようです。または実の付け方はエビヅルと山ぶどうは殆ど同じです。「野ぶどう」が「やぶからし」のように平らに実をつけるのに反して、エビヅル」や「山ぶどう」は本物のぶどうと同じように房になって付けています。両方「ぶどう科」のようですね。野ぶどうは実が美しいですね。丁度水彩絵の具でにじませて描いたようです。山野草として鑑賞価値は十分ありますね。 「やぶからし」は3才ぐらいのころから、私と関わりがある植物なんですよ。家の周りにいくらも咲いていました。その花をみると、子どもの頃の記憶が沢山浮かび上がってきます。どこかでも、述べていたと思いますが…。

※サッカー場のフェンスに絡まってたわわに実るエビヅルの実




※海岸で見たエメラルドグリーンの宝石のような実

 

 すべて人知れず実っていました。そんな所が山野草の魅力のようですね。

※多分ヤマブドウでなくて、エビヅルだと思います。どちらも同じぶどうの仲間です。

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ウォーキングから想う

2009年07月17日 | インポート

  ウォーキングをする楽しみは周りの景色や自然にふれることである。そこから、エネルギーをもらう。そして、心身共にリフレッシュする。周りに働きかけ、語りかける。実に色々なものとのふれあいや驚きがあった。そのためにいつも心を磨いておく必要がある。はっとすること、過去との遭遇、未知の発見、生きていることの実感。そのことがなくなったら自分の人生も終わったようなものだ。「手のひらを太陽に」という歌があったが、まさにそのとおりだ。自然界は実に多様だ。異種物がうまく調和して生きている。生きているからすばらしいのだ。三次元の世界を自由に自然の摂理に則り生きている。自然はなんとすばらしいことか、自(おの)ずと然(しか)るべき姿におさまっている。だから、自然。人間も自然界の一員。自然というといつも思い出すのが、かの有名なスイスのマッターホルンだ。あの山を見ていると無駄がない。すべてが自ずと然るべき所に落ち着いているのだ。すべて、虚飾を落としスリムになり神々しいほど美しい。古来人間は山々を神とあがめてきた思いも分かる気がする。スイスに行けば、きっとあの山に神秘を感じ宗教的な思いを抱く人もたくさんいるだろう。機会があればいつか、かの雄姿を見てみたいものだ。

 ところで、ウォーキングで出会った時の写真を載せてみます。

 池のほとりで見つけました。きれいですが、きっと毒きのこだと思います。

やぶからし」「のぶどう」のそばにありました。やぶからしはわたしが、3,4才の頃ら近所で遊んでいるとよく見かけたものです。その蜜をアオスジアゲハが気持ちよさそうにすっていたのを今でもはっきり思い出します。その周りに錆びた鉄条網も残っていました。鉄条網というといやな記憶が蘇ってきます。遊んでいて、それにひっかかり足に傷を負ってしましました。直りが悪くいまでもその後が残っています。ちょうちょというと、子どもの頃いつも見たのが、アオスジアゲハです。実に軽快にとびます。直線的に右左上下とその忙しいこと忙しいこと。
 こがね虫も昔からよくいました。昔は、こんな歌があり<WBR>ました。「黄金虫は、金持ちだ<WBR> 金蔵建てた 蔵建て<WBR>た~♪」という歌もよく口ずさんだものでした。

 「ハマヒルガオ」でしょうか。こんなのも今、真っ盛りで咲いています。砂の
色とのコントラストがとてもいいですね。

 「やまぶどう」でしょうかね。よく分かりませんが、「野ぶどう」ではない気がしますが、一緒のところにありました。もうちょっと様子をみたいと思います。緑の宝石のようにきれいです。

「かわらなでしこ」です。清楚で周りの風景ともよく似合います。

 黄色と緑のコントラストがきれいで撮影しました。それから、砂の銀色もきれいですね。

かにさんが赤い手を挙げこちらを向いていました。

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夏も涼し家庭菜園

2009年07月11日 | インポート

  家庭菜園から想う

 緑がいっぱい、自然がいっぱい、オゾンがいっぱいの家庭菜園、今、キュウリやトマトが、次々実り、食べきれないくらい。お隣さんにもお裾分けした。
 今は、アグリとか食農が脚光を浴びてきた。昔から「衣食足りて礼節を知る。」という。生きていくすべが確保されなければ、教養も礼節もない。最も必要なのが、食農だ。これは自然と共にある。
  昔から旬という言葉がある。おいしい時期がある。旬に反したことをやってはいけない。何にでも旬がある。その刹那を逃がしたら永遠にその刹那は戻ってこない。だから、旬なのだ。旬は一瞬の瞬である。子育ても、人間の成長においても、伸びていく旬がある。チャンスといっていいかもしれない。その縁を生かすものだけが、成長し進歩する。

 流木に囲まれ、ベンチで休憩する野菜達

 天にまで伸びてゆくキュウリの苗、後日おいしく頂きました。

 今年は、鶏糞をふんだんに混ぜたので、栄養価十分の苗床ができた。来年もこの調子でやろうと想う。連作障害もあるので、その点も考慮しなくてはと思う。

 山菜でたらの芽と共に有名なウドである。若芽をつまみ、、天ぷらにして
食べると、ウド特有の香りと共に、周りの広大な大自然の息使いも口の中に広がる。自然のウドを採取したり食べて見たい方があれば、野山散策をご案内致します。わたしは、よく、ウドを天ぷらにして食べます。写真は我が家に植えてあるものです。種もでき、苗もありますので、興味ある方にはお分けいたします。自然のものは、香りも強いです。

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父がいて母がいた

2009年07月04日 | インポート

父がいて母がいた
昔 私にも 
父がいて 母がいた
そんな私も、いつしか父となり 齢を重ねて六十有余年 
まもなく、母の旅立ちの年(享年64才)を越えようとしている
時折 母のこんな言葉を思い出す
「父の恩は 山よりも高し
  母の恩は  海よりも深しっていってね。」
当時、何となく分かったような分からないような
深遠なものにふれたような思いがよぎったような気がする
かけがえのない親の思いを自然の偉大さにたとえたのであろう
古来 人間はいつも自然と一体にあった
自然を師と仰ぎ、そこから教訓を学んだ
今の人間に一番欠けているのが 感謝と畏敬の念だという
自らの分け前である自分と周りとの関わり
いつからか、そこから、離れ おごるようになってしまったのか
おごれる平氏久しからずやではないか
自然のしっぺい返しで 温暖化も叫ばれている
時代を超えて 永遠に変わらないもの
それは、自然の摂理 神の意志
そこから、もう一度学ぶべき事はないのか。
人間は生きているようで生かされている
母の言葉と優しさが、懐かしく 今 我が心の琴線をゆさぶる
両親とも明治の生まれ 明治は遠くなりにけりだ
両親とは、今も、ときおり、対話している。
優しく、育ててくれてありがとう。

    小さな木の実歌唱(you tube)
    ママのそばで
    母さんの歌  歌唱(you tube)

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