想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

すべては繋がっている

2011年01月25日 | インポート

 <o:p></o:p>

  自然は、よく観察することが大切、詰まるところすべては繋がっている。自分と自然界すべて、ある事実とある事実、その裏に因縁果も関連している。物や心もすべて関連の中で起こっている。そして、それらは瞬時にして世界に伝わっている。意識の中ではその関連を断ち切って考えることはできるのだが、根本では繋がっているのが事実なのだ。

昔、小学校で説明文を指導するときに、事実と感想を分けなさい。と、いう指導をよく言われたことがあった。説明文を読んで、事実と感想を分けることは、その内容をある意味ではわかりやすくしているが、事実といえどもその裏には人間の感情がうごめいていると考えるのが妥当だろうと思う。事実と感想とのつながりが見えてくれば大したものだと思う。最初は事実と感想を分けて考えてもいいだろう。しかし、根底ではつながっていると考えないと主題が見えてこない。人間とはそのように簡単には分けることのできないものなのだ。
 自然界も然り、白と黒と分ければこんなに簡単なことだと思っても、その間にグレーゾーンというか、のりしろの部分が存在するのだ。その「のりしろ」が結構大事な役割をしているのだ。家いえば空間である。朗読でいえば間である。人生でいえばゆとりであろう。それらがあるからこそ、それがクッションとなり間合いがうまく行く。
 最近の温暖化の気候はそれが、なくなりつつあるように思う。猛暑と極寒、洪水と干ばつが交互に来て、春や秋というクッションになる季節がなくなりつつある。由々しき問題である。

色々な場面でこのような先鋭化が起こっている。しかし、世の中を広くとらえれば、それもやがて収まって来るというのが自然界であるはずだ。気圧の高いところから空気は低いところに向かって流れる。そして、風が起こる。やがてそれが終われば、気圧の差はなくなり、風はやむ。いわゆる凪(なぎ)という現象だ。しかい、やがて、また、気圧の差が生じ風が起こる。弁証法的な考え方である。自然界はこのようにして日々瞬時流転する。     経済とて同じである。日本が絶頂期を迎えればやがて、バブルとなりはじけてその流れが変わる。地価が下がり、その流れは中国へ向かった。中国は今や世界第2位の経済大国となった。しかし、それも矛盾を抱えやがてバブルを生み、その流れはインドへ向かい、やがてアフリカや中南米の貧しい国に向かうだろう。そして、すべて一巡した後の世界こそ、経済を主体として世界でなく、心や精神的な幸せを第一に考える世界に向かうだろうと考えられる。

どちらにしても、世の中はつながりの世界なのだ。周りの事象を主観を離れ客観的な目で観察する必要がある。そして、今、何が起こっているか。どうして、このようなことが起こるのか、よく考える必要がある。そして、そのことが、世界と瞬時につながっていることを理解する必要があるなとつくずく思う。どこかで、干ばつがおこっているということは、どこかで洪水が起こっていると言うことだ。世界はつながっているのだ。そのことが今は、インターネットで瞬時に分かる世界になってきている。インターネットの世界でもWWWのウェブで世界はつながっている。ガラパゴス化などと言っている場合でないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他力自力

2011年01月24日 | インポート

 他力本願、自力本願という仏教用語がありますが、結局は人間は生かされているわけですので、自分で生きているようで結果は生かされていると考えています。これが、私の人生観の中心を貫いています。
 自分で生きているが、結果は生かされている自分がいる。だから、自分の人生は自分で切り開いているように一見見えますが、広くは生かされている自分がそこにいるわけです。
 ここでこうして文を書いているのは自分ですが、神(私はこれを自然の摂理ととらえていますが)はこの私をしかるべくしてここに導いておられるのだと考えています。そこに、自分の意思で能動的に活躍しているように一見見えますが、宇宙の遙か彼方から自分を眺めますと、生かされている自分がいるわけです。主体的に生きている自分と客観的に生かされている自分がここに存在する訳です。
 寿命という言葉があります。辞書には「あらかじめ決められたものとして考えられる命の長さ」と出てきます。これはもう人智を超えた神があらかじめ決めた命のようなことが書いてあります。まさに、いくつまで生きるかは神のみぞ知るです。だから、天命と言ってもよいかも知れません。
 「人事を尽くして天命を待つ」私の好きな言葉の一つですが、まさに、これも主観を離れた客観の世界の言葉でしょう。主観と客観、自力と他力、不易と流行、陰と陽、理想と現実…いずれも別物のように相反する物のように思われますが、広く宇宙の目線からとらえれば、どちらも繋がっている物だと私は考えています。
 そうして、最後は永遠の命に繋がって行きたいと思います。今、こうして毎日の健康でいられることに感謝します。
 こうしているといつも浮かんでくるのが、幼少の頃から見ている父の般若心経を唱えている姿です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 富士川パーキングからの富士山

2011年01月23日 | インポート

 今日は長泉町まで、東名でお見舞いに行って来ました。途中で立ち寄った富士山がとてもきれいで写真に納めました。最近、寒さが厳しかったのですが、きょうは、春のような暖かさを感じました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康は足腰から

2011年01月21日 | インポート

 最近、なるべく歩くことを念頭にして、体力作りを実施している関係か知らないが、体の方は調子がいい。風邪もこの所、殆どひいたことがない。さて、どこまで続くか分からないが、後は自分の健康は天に任せるしかない。すべて、人事を尽くし天命を待つ心境だ。
 毎朝、6時に起床し朝のウォーキングに行くと、結構、地域の高齢者に出会う。今日も76歳の人に出会った。彼はもう20年もやっているらしいが、地域でも活躍し姿勢もいい。とても、76歳だとは思えない。会えばお互い「お早うございます。」と、気軽に声をかけている。
 ここ、1週間は1万歩をキープしている。1万歩ゆくには合計毎日意識して1時間はウォーキングをすればいいと分かった。
 だいたい、一日3回に分けて20分位ずつ歩くことにしている。
   さて、気をつけて見ていると、どうも、階段を下りる際の足の筋肉が衰えてきているように思う。そのため、階段をまず下りて上がることを一日の中に何分か入れる訓練を取り入れている。この事を自分なりに「踏み上げ」ならぬ「踏み下げ」と称している。
 人間の体は沢山の関節と筋肉でできている。骨が丈夫でも、それを支えている筋肉や腱が弱ってくると体のしなやかさがなくなるようだ。関節の問題よりもどうも、腱や筋肉が弱って、そこに負担がかかるのが正しい見方だと思っている。新聞にグルコサミン、ヒアルロン酸、コンドロイチン等、その種の宣伝が載っていないことはないが、まず、自分で力をつけることが大切だと思う。薬はその後で、考えるのが正解だと思うが、薬にだまされてはいけない。
 勉強ができないと、すぐ、塾に通うようなものだと思う。その前に、どこに欠陥があったか自問自答して、自分なりに原因を考えることが大事だと思う。親からもらった大切な体を自分でよく見つめ直す必要がある。現代人はその辺が欠けてきている。
 勤めているコミュニティでも、太極拳やヨガが行われている。いつか、入ろうかなとも思うときがある。やはり、このような運動をしていると、色々な筋肉を使うので、体にいいように思う。東洋医学の勉強も多いに必要だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哀れ トカゲ

2011年01月19日 | インポート

 

 先日、ロウバイの手入れをしていたら、こんなのが見つかった。トカゲが
枝で日干しにされていたのだ。どうも、モズの仕業らしい。モズは習性ととして、かえるやバッタなど小動物をこのようにして枝に刺しているらしい。後で食べるのさだかではない。自然界は無情だ。
 政界では、海江田さんが世の中は不条理だといっていたことをなぜか思い出した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする