想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

新型コロナからの教訓

2020年03月30日 | エッセイ

コロナ元年3月30日

 私たち団塊の世代は今まで戦争とは無縁な時代を過ごしてまいりましたが、その間、高度成長、バブルの崩壊そして、東日本大震災を経験し、それに人災の原発放射能漏れを経験し、日本沈没かと、やきもきした時代を過ごしてまいりました。あれから早9年が過ぎました。

 やっと、そこから立ち上がり、二度目のオリンピックも開かれると、希望に満ちた時を過ごしてまいりましたが、今回のコロナ災禍はそれらの比ではない規模で起こっています。いわゆるパンデミックの発生となってしまい、日本のみならず世界規模での大問題となってしまいました。

 ましてや、今回のコロナは発生からパンデミック迄の流れが速く予測もつかないところで、あれよあれよというまに広がってしまいました。これだけ、瞬時に繋がっている世界に私たちはいるんだという事をあらためて意識することになってしまいました。もはや、一国では処理しきれない事態の発生です。だからパンデミックなのです。国こそ、独立していますが、世界はまさに情報の中では一つの時代です。

 もはや戦後ではないという言葉がはやりましたが、まさに今は戦争中の真っ最中です。ミクロのウイルスとの戦いとなりました。私は基本的には戦うという言葉は好きではありません。なぜなら、すべてのことは必然であり、必要だから起こっているのです。自然の摂理から眺めれば、それも必然的に発生しているのでしょう。そこに思いを馳せないと、自然は驚異、災害となってしまいます。根本的な解決を図っていかないとまた、同じようなことが起こってしまいます。

    ある学者がこんなことを言っていました。世界の経済はリーマンショックから立ち上がっているのでなく、まだ、大きなバブルの財政をひきづったままでいると…。そして、今回また、財政的に大きな援助をしていくとなると益々バブルは膨れて近い将来大変な金融危機になると予言しています。考えないといけませんね。対処療法でなく、何でも根源から考え治療していく必要性を感じます。もっともっと、薬で解決するのでなく、医学も人間の自然治癒力を高めるところに研究をもっていかないと、いけないなとつくずく感じます。これが、根本の解決に繋がってゆくのです。

 そこで、人類の英知を集めてどうすべきか考えないといけません。まず、根本的なことは人類も自然の一員なのにそのことを忘れているように思えてなりません。もっと、自然の前で謙虚にならなくてはいけないのです。万物の霊長たる人間はありえません。虫も、最近も、植物もすべて繋がっているのです。性質こそ違えども根本は皆生命なのです。

 私は植物が好きで育てていますが、そのことをいつも感じています。共に青い地球の上に存在しているのです。何かの使命を持ってここにいるのです。一つたりともその使命に外れたものは実在しないと考えているのです。そこに思いを馳せたとき新しい解決の糸口が見つかるのでしょう。

 以前から、人類の数が異常に増えてしまっているなと想っていました。一つの種だけ増えると、長いスパンではその修正が起こるのです。多すぎる分人口減少がおこるのです。当然生き物は生態系を維持するために程よい数で分布しているはずです。

 また、石油を掘り起こし地球に穴を開けたり、水を地下から莫大に吸い上げたりして言い訳がありません。そして、飽食となり、まだ、食べられる命を捨てていい訳がありません。昔はそんなことをすると罰があたるといわれました。「一円を笑うものは一円に泣く」とか「一寸の虫にも五分の魂」とか言われていました。

 さて、世界人口の推移をみてみますと1950年は25億で2020年は予測ですが、79億となっています。この流れで行くと2055年には100億に到達してしまいます。よくテレビでアフリカの干ばつをイナゴの大群が襲うニュースが流れることがありますが、この穀物を食い荒らすイナゴでさえ多くても何百万程度でしょう。いかに人間が多くなっていることが分かります。自然界を人間だけのものでないと考えるなら、当然この流れは不自然なはずですので、どこかで是正されるはずです。その力が自然の中で働くのは自明の理であろうと想います。それが今回のようなコロナ禍ではないかと考えられます。人口抑制策を世界単位で今後は考えていかないと大変なことになります。イナゴと違って人類はたくさんの食べ物や自然界の資源を使いすぎます。これでは、地球はもはやもたないでしょう。あちこちで、天災が起こることになってしまいます。

 今回をいい機会ととらえて、一刻も早く拡張資本主義を自然循環型経済に変更していかないといけません。消費されるものも地球の生態系を壊さないような物質に変え、石油製品と原子力を一刻も早くとめ、人口抑制政策をとり、バランスある人口ピラミッドに変え、健康年齢をより重視した施策に変えていかなければなりません。もう、海も空気も限界を超えて環境汚染が進んで来てしまっています。新しいウイルスも手を変え品を変え出て来ています。

 潜伏期間の長さや実態の分からない今回のコロナウイルスはもしかすると、自然にできたものでなく、人工的に作られたものかもしれないと、勘ぐってしまうような不思議な性質を持っています。今回は世界が協力して経済の流れも変えていくいいチャンスだと想います。

 まだ、国益だのと自己中的な考えをやめて、広く地球と共存していく新しいシステムや思想を世界に広宣流布していく時期だと想います。自分勝手な考えをやめ、他の生物と共存共栄の道を歩んでいってほしいです。もっと、人類は賢いはずです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美しきかな 葉牡丹の花

2020年03月18日 | エッセイ
コロナ元年 3月18日

どんなにコロナが暴れても、自然の理はやって来ます。水がぬるみ、春になれば、山川草木も生き生き輝きます。毎年、新年に門松に生けていた葉牡丹です。今回は種から育ててみました。手塩にかければかけるだけ愛おしく感じます。それが人情というものかな…。
植えておくと、これからも枯れることなくずっと咲き続けます。小さな葉牡丹ですが、これからもずっと関わっていきます。そして、老木になるとまたいいのです。それなりの良さが滲み出てくるのです。
エージングという時が植物をまたより良くするのです。燻銀という言葉がありました。まさにそれがそうです。













コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の兆しがあちこちに

2020年03月09日 | 我が家の庭
コロナ元年3月9日
 
 庭を見渡すと、あちこちに春の気配を感じます。
 
 
馬酔木の花が咲いていました。漢字では馬酔木と書きます。それだけで、なんとなく意味が分かりますね。馬も酔う木とかきます。食べると馬もふらふらしてしまうようです。まあ、毒のある木ということでしょう。ですが、なかなか花はかわいらしいです。しかも、色は純白でとても毒のある木とは思えません。
 

葉ボタンです。毎年、門松の一素材として使っています。直径が10CM位の小ぶりの苗です。小さくても、とても、きれいな色合いが気に入ってます。紅白で植えたりしています。この花は実生で種から育てました。
 
馬酔木の白と万両の赤の対比がいいです。右側にはつわぶきの葉っぱがあります。
 
 
シンビジウムのつぼみです。後、1週間後には開花しそうです。最初の1鉢が20数年で10鉢ぐらいに増えました。色は白でしだれるように咲くのが特徴です。割と寒さに強く、冬、外に出しておいても花芽をつけます。
 
 
山茶花の花とすみれのコラボが気に入ってブログにあげてみました。生け花をいけたようになりました。
 
 
アボガド
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年号「震災」を今後は「コロナ」と改元

2020年03月08日 | エッセイ

コロナ元年3月8日

 世界は今、温暖化による気象の変化や生態系への影響に大きく揺れ動いています。私たち、人類はこの変化に戸惑いを感じ,世界中は右往左往している状況です。まさにその自然の驚異の真っ只中に私たちは今いるわけです。
 もともと、自然は正直ですので、圧縮すれば爆発します。爆発すれば、それは広く拡散してゆくのです。水の流れも気流も電流も皆、高きより低きに流れ、気流は風となって、時には暴風となります。温度差が大きくなれば水も大量に蒸発し雨雲となり、各所で洪水を起こします。それが、自然なことなのです。それが、自然の理なのです。それを現代人は忘れているのではないかと危惧しています。
 
 
 
 
 今こそ、我々は虚心坦懐に反省して自然に戻らなければなりません。自然から学び取れということなのです。これは言うまでもなく原始社会に戻れと言っているわけではなく、自然と共存していく道を選ぶことです。プラごみの問題も自然に帰る物質で作ればいいのです。従来の石油製品で大量消費の資本主義から脱却し、CO2を極力減らし、自然と協調してゆく資本主義に変化していかなくてはいけません。このままだと、まだまだ、新種のウイルスがぞくぞく出てきて人類を困らせたり大きな自然災害になやまされるでしょう。
 
 
 
 太古の昔は人類はこの大自然と共に生きてきました。現在は、自然からどんどん離れていっています。もう、一度自然と共存する道を選ばないと、そろそろ人類の将来も危ない気も致します。自然は絶えず変化し続けているのです。一時も同じ時はないのであります。 
 
 私は社会を揺るがす大きな出来事が起きた時に、これを教訓として、新しい年号を自分なりにつけて、反省心を呼び起こすようにしています。日本を揺るがす東日本大震災の時には、もう、原子力発電はやめた方が良いとか、できるだけ高台に住居を移す方がいいと思ったりしたものです。まあ、このようなことは一人でできるわけでもなく、国策として取り組むよう働きかけるしかないでしょう。
 
 ところで、私が生まれたのは昭和22年です。その2年前までは、太平洋戦争が行われていたのです。今から、考えてみても、2年前まで、あれだけ大きな戦争が行われていたなんて、想像もできませんでした。当時私は、まだ、この世に誕生していなかったのですから、当たり前かも知れません。
 その後、戦後ずっと平和な時代を通り抜けてここまで来ています。そして、72年の歳月が過ぎてしまいました。団塊の世代は戦後派になります。学級会を経て民主教育の中で育ちましたので、戦中、戦前を生き抜いて来た人たちとは、だいぶ考え方も変わっているのだろうと思います。これも致し方ないことです。
 
 兎にも角にも、この第2次世界対戦は世界に最も大きなインパクトを与えてきたのです。その後、高度成長、バブル崩壊、東日本大震災を経て、今、ここに新型コロナの世界大流行を迎えているのです。
 
 そこで、この大きな危機を捉えて、今年から今までの震災年号を改め、コロナ元年と改元した次第です。私も後、数年で後期高齢者の仲間入りとなります。やがて、私も鬼籍に入ることになりますが、今後、何時改元があるやもわかりません。一寸先は闇です。これ以上の国難は起こって欲しくないと思いますが、社会への大きなインパクトを考えて、ここに「コロナ元年」を宣言致します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする