想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

有馬稲子のエッセイから

2010年04月29日 | インポート

 日経新聞を読んでいたら、有馬稲子(女優1932年生まれ)のエッセイにこんな文が載っていた。

・しまい込んで1年使わなかったものは2度と使わないもの、思い出は物ではなく心に刻む物
・人生は船酔いのない船旅のようなもの

  以上の2つが新鮮に私の脳裏をかすめた。現在は神奈川?の老人ホームに一人で住んでいるらしいが、年とともに物がどんどん増えていく現在、私も定年退職を機に少しでも物を減らそうと思ったがあまり減らすことができなかった。苦い思いがある。でも、最後天国に行くときはいくら沢山物を持っていても、それを持っていくことは出来ない。やはり、思い出は心に刻む物だとつくづく私も思う。教育とはすべてを忘れた後に残るものである。と、いった人がいたことも思い出した。最後は、心に残った物を持って天国に行くのが正解だと思う。
  人生は船旅のようなもの、という言葉も何となくそんな気もする。私も現在の地に居を構えるなんて考えてもいなかった。この地に住み早20年になろうとする。「人間到る処 青山あり」だ。最近はコミュニティセンターの方にも勤務することになり、地域の人とも接する仕事につくようになった。本当に人生どうなるかわからない。ちょうど、そういうめぐりあいになっただけだと思う。まさに、私のすきな言葉「人生は邂逅の歴史である」その邂逅の一つ一つを何かの縁だと考え精一杯誠意を尽くすだけだ。ここを後何年つとめることが出来るかもわからない。これも、神のみぞ知るということだろう。色々な考えを持った人との出会いが毎日あり、結構生き甲斐のある仕事である。

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人は毎朝生まれ変わる

2010年04月24日 | インポート

   「人は毎朝うまれかわる」実にすばらしい言葉である。歩いた後に道が出来る。これも、一理ある言葉である。過去の延長が未来であるのも事実であるが、人は生きるために知恵を働かせることも出来る。いわゆる心の持ち方をどう変えるかが、大切な面である。過去の延長に今があるのも厳然たる事実であるが、前向きに生きるためには、事実は事実として押さえつつも、心の持ち方を変える。すなわち「人は毎朝うまれかわる」という信念を持っていきれば、きのうのいやなことは水に流せる。心は全く自由である。法で、外面は縛ることができるが、心の中までは縛れない。事実としては現在は過去の延長ではあるけれど、生き方としては「人は毎朝うまれかわる」を実践して前向きに進んだ方が幸せな人生を歩めると思う。なぜなら、すべては幸せを求めていきているのだから。


 最近の学校教育をみていると、この点がかけてきていると思う。だから、勉強ができないだけで、自分はだめな人間だと思ってしまうような人を沢山作っているような気がする。在職当時からなぜ、学校生活の最終目標を幸せに置かなかったか不思議だった。やたら数値目標的な具体目標があり、1年生で算数は80点をとらないといけないような目標を作ってしまったのか。人間ひとそれぞれ、個性がある。勉強ができるのも一つの個性ととらえることができないだろうか。出来ないのも個性。個性に優劣はないはずである。金子みすずもいってるではないか。「みんなちがって、みんないい」って。


  算数60点でもその子が幸せ感100%の学校生活を送っていれば、90点取っていても、幸せ感80%の子より、算数60点の子の方が、幸せな人生を送っているではないか。それが、取りも直さず、生きる力になり、明日を切り開くエネルギーになる。


    なぜ、そのようなことができない学校生活になっただろうか。不思議でならなかった。知能指数より、情緒指数、幸せ指数である。幸せ指数を決めるのはその本人自身である。その自分で決める力を養ってやるのが、学校教育であり、親の教育力ではないだろうか。一番すばらしい人生は自分で幸せを感じることではないだろうか。自分で生きていてよかったと思う心は点数の問題などでなく、自分自身の心が感ずる問題である。教育技術の問題ではない。この辺が、しっかり育ってないと、勉強はできても、おかしな人間が出てくる。

 だから、私の世界では落ちこぼれは存在しないことになっている。皆個性が違うのだから、その人なりに精一杯幸せに生きることが、できれば、それが最高な人生なのだ。人と、くらべるものでもない。自分の個性をよく見つけそれを最大限伸ばし、その個性を与えてくださった神(自然の摂理)に感謝することである。

 人生は芸術である。人生をデザインする芸術的感覚が大切である。今の知的教科だけ大切にしている学校教育をやっていると、人間がだめになってしまう。スポーツもいい、情操教科もいい、人間もっと広くとらえていかないといけない。なぜなら、人は生まれてくるときは、すべてを包含して生まれてくるのだから、その中には遊びがあり、空間があり、小さいこほどトータルな生活をしていたはずである。もっと、究極的にいえば羊水の中では全く自由な存在だったのである。胎内という枠はあるが…。

 話は変わって、今日、朝、早起きして車を運転していたら、ラジオで「病気ということは心が生きる力を失っている状態である。」と、いうようなことをいっていた。病気というと、現代医学では病原菌やウィルスの問題に置き換えられてしまうが、やはり病が半分気が半分とか、本来は心の問題ではないかと思う。その辺の考え方がおかしくなったのではないかと思う。心の問題がどこかへいってしまっている。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というではないか。経済でも「限界効用逓減の法則」というのがあるではないか。

 最近週5日働くことになったが、畑を耕していて、ふと、指の間を見ると水ぶくれになっているのではないか。前にも、このようなことが種を蒔いた時に起こった。そのときは直らないので、皮膚科にいったが、原因がわからず、3つめの医者でなおった。今回も同じようなケースだったので、よく考えて、様子を見ることにした。結局1週間ぐらい様子を見たところ、原因がなくなったのか、自然になおった。自然治癒力をどうやっって出すかを考えた。原因を取り除けばあとは、自分の力に体は治るものだとおもった。あのとき、医者に頼っていたら、きっと、薬のせいで、もっと、悪くなっていただろう。自分を内省し原因をとりされば、後は親からもらった命の力で直ったように思う。基の原因をなくすことを考えないと、今度は薬の害で体が、悪くなり本当の原因が見えにくくなってします。医療もよくよく考えて使わないと自然治癒力を落としてしまう。現在は気をつけないと、薬漬けの時代である。

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すみれの花咲く頃

2010年04月20日 | インポート

 すみれの花咲く頃といえば、宝塚歌劇団の歌にあったと思うが、この時期、まさにすみれの花咲く頃である。野山は新緑につつまれ、 生物も活発に活動を始めるエネルギー溢れた時期である。
 こんな時期、すみれとの出会い、緑の中で咲く紫の花がとっても、きれいに咲いていた。偶然の出会い、笑顔で私に話しかけてきたような感触、周りには鴨も泳いでいる。静かな湖畔にたたずんでいたすみれの花、思わず「すみれの花咲く頃……・」と、口ずさんでしまった。もう、春そよ風も吹いてきた。

  すみれ色がぴったりくるような花だった。可憐にすっと立っている。まさに野のすみれという感じだ。清楚なところがいい。ちょっと、気取った感じがしないでもないが、実に素朴で品もあり、路傍の花としては申し分ない。今が、一番美しいときかもしれない。

向き合って
    何を話そか
       すみれ草

向き合えば 二人の心は通じ合う
           すみれの花の 不思議な魅力

すみれ草
  野に咲くからこそ
          美しい

すみれ草
  小さな森の
      女神かな
   

 金蘭が今年も同じところに芽生えていた。5月頃にはきっときれいな黄色い花をつけるだろう。そのときには、今年も会いにいくよ。待っててな。

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こもれび

2010年04月20日 | インポート

 木漏れ日 こもれび 実に優しい響きを持った言葉だ。しかし、最近はあまり使われることが少なくなったような気がする。漢字で書く場合とひらがながあるが、ひらがな表記の方が優しさが伝わってくる。ふれあいも漢字では触れ合いと表記するがこれなどもひらがなの方が感性が伝わってくるようだ。日本語は実にいろいろな表現ができる。

 こもれびを見つけそこをすみかにしようとする植物もたくさんある。日本の国には広葉樹がよく似合うのに、山は檜ばかりになってしまっている。実に残念なことだ。それにより、花粉症が増えている。儲かるのは製薬会社ばかり、何ともわびしい限りである。

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二胡の演奏会

2010年04月12日 | インポート

 二胡の演奏会が春野の山の農家のうちであったので行ってきた。本当に山の中であったが、自然の中で演奏が行われた。聴いてみて感想は、まず、電子オルガンとやっていたが、やはり、二胡だけの方が、いいのではないかと思った。電子オルガンの持つ雰囲気と二胡のそれとが合わない感じがした。そして、マイクで音を拾ってやっていたが、視聴者が近くにいるので、なるべく生の音をききたかった。最近やたらと、マイクを通すようだが、やはり本物の音を届けてほしかった。
    曲目も親しんでもらおうと思って、日本の曲を二胡で沢山ひいていたが、やはり昔からの中国の音楽をそのまま聴きたかった。変に日本人にこびない方がいいと思った。1、2局ぐらいならいいが…、あまり日本に媚びない方がいい。中国の楽器の良さを中国の曲で聴かせてほしかった。
  音楽を聴きながら、この雰囲気なら、むしろ、バイオリンの独奏の方があっているなと思った。以前、琵琶の弾き語りを聴いたが、それは、周りの雰囲気とうまく解け合っていた。あまり、お客に迎合しないで、その楽器の良さをストレートに出すことが人を感動させることだと思った。
 

 

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