「人は毎朝うまれかわる」実にすばらしい言葉である。歩いた後に道が出来る。これも、一理ある言葉である。過去の延長が未来であるのも事実であるが、人は生きるために知恵を働かせることも出来る。いわゆる心の持ち方をどう変えるかが、大切な面である。過去の延長に今があるのも厳然たる事実であるが、前向きに生きるためには、事実は事実として押さえつつも、心の持ち方を変える。すなわち「人は毎朝うまれかわる」という信念を持っていきれば、きのうのいやなことは水に流せる。心は全く自由である。法で、外面は縛ることができるが、心の中までは縛れない。事実としては現在は過去の延長ではあるけれど、生き方としては「人は毎朝うまれかわる」を実践して前向きに進んだ方が幸せな人生を歩めると思う。なぜなら、すべては幸せを求めていきているのだから。
最近の学校教育をみていると、この点がかけてきていると思う。だから、勉強ができないだけで、自分はだめな人間だと思ってしまうような人を沢山作っているような気がする。在職当時からなぜ、学校生活の最終目標を幸せに置かなかったか不思議だった。やたら数値目標的な具体目標があり、1年生で算数は80点をとらないといけないような目標を作ってしまったのか。人間ひとそれぞれ、個性がある。勉強ができるのも一つの個性ととらえることができないだろうか。出来ないのも個性。個性に優劣はないはずである。金子みすずもいってるではないか。「みんなちがって、みんないい」って。
算数60点でもその子が幸せ感100%の学校生活を送っていれば、90点取っていても、幸せ感80%の子より、算数60点の子の方が、幸せな人生を送っているではないか。それが、取りも直さず、生きる力になり、明日を切り開くエネルギーになる。
なぜ、そのようなことができない学校生活になっただろうか。不思議でならなかった。知能指数より、情緒指数、幸せ指数である。幸せ指数を決めるのはその本人自身である。その自分で決める力を養ってやるのが、学校教育であり、親の教育力ではないだろうか。一番すばらしい人生は自分で幸せを感じることではないだろうか。自分で生きていてよかったと思う心は点数の問題などでなく、自分自身の心が感ずる問題である。教育技術の問題ではない。この辺が、しっかり育ってないと、勉強はできても、おかしな人間が出てくる。
だから、私の世界では落ちこぼれは存在しないことになっている。皆個性が違うのだから、その人なりに精一杯幸せに生きることが、できれば、それが最高な人生なのだ。人と、くらべるものでもない。自分の個性をよく見つけそれを最大限伸ばし、その個性を与えてくださった神(自然の摂理)に感謝することである。
人生は芸術である。人生をデザインする芸術的感覚が大切である。今の知的教科だけ大切にしている学校教育をやっていると、人間がだめになってしまう。スポーツもいい、情操教科もいい、人間もっと広くとらえていかないといけない。なぜなら、人は生まれてくるときは、すべてを包含して生まれてくるのだから、その中には遊びがあり、空間があり、小さいこほどトータルな生活をしていたはずである。もっと、究極的にいえば羊水の中では全く自由な存在だったのである。胎内という枠はあるが…。
話は変わって、今日、朝、早起きして車を運転していたら、ラジオで「病気ということは心が生きる力を失っている状態である。」と、いうようなことをいっていた。病気というと、現代医学では病原菌やウィルスの問題に置き換えられてしまうが、やはり病が半分気が半分とか、本来は心の問題ではないかと思う。その辺の考え方がおかしくなったのではないかと思う。心の問題がどこかへいってしまっている。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というではないか。経済でも「限界効用逓減の法則」というのがあるではないか。
最近週5日働くことになったが、畑を耕していて、ふと、指の間を見ると水ぶくれになっているのではないか。前にも、このようなことが種を蒔いた時に起こった。そのときは直らないので、皮膚科にいったが、原因がわからず、3つめの医者でなおった。今回も同じようなケースだったので、よく考えて、様子を見ることにした。結局1週間ぐらい様子を見たところ、原因がなくなったのか、自然になおった。自然治癒力をどうやっって出すかを考えた。原因を取り除けばあとは、自分の力に体は治るものだとおもった。あのとき、医者に頼っていたら、きっと、薬のせいで、もっと、悪くなっていただろう。自分を内省し原因をとりされば、後は親からもらった命の力で直ったように思う。基の原因をなくすことを考えないと、今度は薬の害で体が、悪くなり本当の原因が見えにくくなってします。医療もよくよく考えて使わないと自然治癒力を落としてしまう。現在は気をつけないと、薬漬けの時代である。