想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

幼虫の擬態

2009年04月29日 | インポート

 先日公園に不思議な形をしていた虫がいた。生まれて初めて見た幼虫の擬態であった。竜の落とし子のような実に珍しい顔をしていた。目玉が二つあって、よくよく見ないと昆虫の幼虫だと気がつかなかった。アケビのつるについていたので、ツルを折って現在家でかっている。どんな昆虫になるか楽しみである。アケビの葉を食べるようである。

真ん中にぶら下がっている黒いものが擬態の昆虫である。アケビの蔓の先端にぶら下がっていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶花

2009年04月19日 | インポート

 何といってもこの時期の庭は美しい。さわやかである。ざっと我が家の小さな庭を見てみても実にたくさんの花が咲いていた。ここにはないが、まだ、アケビやコデマリなどもさいていた。山野草や植物を育てていると自然のことがよく伝わってくる。周りの気候と微妙に関わって調和を保って生活しているのがよく分かる。自然は最高の芸術作品である。「人生は芸術だ。」と、いった人がいたが、なるほど、分かる気がする。自然から学ぶことは沢山ある。天然色という言葉が死語になってからまだ、日が浅い。懐かしい言葉が随分となくなっていくのは淋しい気がする。お天道様、お陰様なども段々使われなくなってきていると思うがいい言葉はずっと残していきたい。
<山芍薬>

人知れず山の中で咲くらしいが、私はまだ、実際に咲くところを見たことがない。一度見てみたい気がする。この花は先日買ってきたばかりである。露地に1本植えてあるが、だんだん小さくなってしまって花は咲いていない。(尚、茶の湯では露地(ろじ)とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。)
山芍薬は茶花としてはかなり有名である。(茶花とは茶の湯の席でいけられる花のことです。お茶会で茶席の床の間に飾ります。茶花の基本は、季節の花を自然のままにいけることです。いわゆる「花は野にあるように」)
山芍薬の純白の白さが緑の中で研ぎ澄まされていて千利休のいう「わびさび」の世界にぴったりだろうと思う。利休といえば
「一期一会」も有名である。一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざ、『あなたとこうして出会っているこの時は、二度とめぐっては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう。』と言う意味の利休の茶道の心得である。

<どうだんつつじ>
これも、茶花である。かわいらしい花をつけ、紅葉がまた、きれいである。家に3株植えてある。


<十二単衣>

平安時代の貴族を思い出すような名前である。ほっておいても結構増えていく繁殖力が強い植物である。これに似た花に「都忘れ」がある。この花もよく茶席に似合うようである。以前植えてあったが、いつの間にかなくなってしまった。今度はしっかり育てたい花である。

<ミヤマツツジ>

これも、茶花に使われると思う。4月の初旬が満開だった。この時期、山にゆくと、結構見かける。とても、きれいな花である。

 <サフィニア>
ペチュニアの仲間であり、その新種らしい。ナメクジが大好きな花である。ちょっとはでであり、西洋の花でもあるので茶花には不向きである。初夏に生える花である。昨年から越冬している株である。

<藤>
日本舞踊によく登場する花である。茶花にも勿論なる。野山でも結構見かける。藤の花で思い出すことがある。私が、4,5才の頃だったと思うが、母によく山羊のお乳を買いにいかされた家に咲いたいたのが、物心ついたころの話である。そこに昔は瓶を持っていったものだ。そして、牛乳の代わりの栄養価にしていた。母に聞いたことだが、一つ下の妹など、栄養失調になり、目に膜がはってもうだめかと思った時期があったようだ。戦後は大変な時代だっただなと今になって思い起こすことが度々ある。

<センパフローレンスベゴニア>
ベゴニアには色々な種類があるが、一番ポピュラーな品種である。これも昨年からの越冬ものである。

<葉ボタン>
これは、小型の葉ボタンである。この花も結構枯れずに残り2年前のものである。門松を立てた時からずっと植えてある。

<キンギョソウ>

金魚のような口元をしたかわいらしい春の花である。昨年のこぼれ種が咲いた。

<ヒラドツツジ>

ゴールデンウイークに近くなると道路際に植えてあるツツジが満開になる。浜松祭りの頃の道路に沢山植えられドライブがてらにとてもきれいな思い出がある。ピンクと紫を混ぜて植えてあるととてもきれい。我が家でも今まで目立たなかった所にあったものをガレージの目立つところに植え替えた。

<空木(うつぎ)>

「卯の花の匂う垣根に、ホトトギス、早も来鳴きて、忍音もらす 夏は来ぬ。・・・・」
夏は来ぬの「卯の花」とはウツギの花のことです。 とても、きれいな花です。これも、白で清楚です。昔は垣根に使われていたそうです。最近はあまりみないようです。幹に中が空洞になっています。だから、空木だそうです。茶花でも有名です。

<シバザクラと十二単衣>

<モッコウバラ>
紀子様の花ですね。

<侘助(つばき)>

代表的な茶花です。ピンクがとてもきれいな色です。サザンカとはまた違っておちている花にも風情がありますね。わびさびにぴったりの花です。落ちた花もとても、風情があります。桜の良さが散り際にあるように、椿の良さも、あおい苔の上に横たわる様が何とも情趣(風情)というか無情を感じます。

<モッコウバラのアーチ・ヤマモミジ盆栽・イワギボウシ>

<タンチョウソウ(イワヤツデ)>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜咲く春の野山

2009年04月07日 | インポート

 ・萌えいずる 緑の山 点々と 咲くたいまつの 炎にも似て 山桜花
 ・里山に でんと構えて 鎮座する 神の化身か 山桜花
 ・点々と 山々に咲く 山桜 心にも似て 温かきかな
 ・山紫水明 山々に 自ずととけ合う 山桜かな
 ・山路きて ふと見上げたる 天頂に 空をも覆う 山桜花
 ・天竜の 川面に映す 桜花 さざ波と共に 揺れている
 ・山桜 憂いを秘めて ひとひらに 今燦然と 命輝く
 ・天空を 埋めるがごとく 咲く花の 狭間に光る 命の光
 ・温かき 声の飛び交う 花の下 家族で集う 昼下がり

                                 水萌
                                          

 一度吉野山の桜も見てみたいと思っている。来年にでもいければいいなと思う。きっと、この辺の野山の比ではないと思う。全山を燃え尽くすような感じではないかと今からわくわくしている。まだまだ、日本にはすばらしい自然が沢山残っているなと思う。一生かけてもみれるものではないなと思う。楽しみな事である。それにしても、自然はすばらしい。自分の生き方も自然体で行きたいものである。自ずと然るべしで…。泣いても笑っても一日一日はすぎてゆく。ならば、人生よりよい考え方をしたいものである。幸せな人は同じ事が起こっても明るく考えることができるものだ。人生なるようになる。なるようにしかならないものである。人生時期というものがある。タイムリーといってもいいかもしれない。
  この時期を逃すとチャンスはつかめない。桜を愛でる時期もまさにこに時期である。この時期を逃がすとまた、来年までまたねばならない。まさに刹那刹那だ。数学でいえば微分されたその一時一時の大切だ。その積み重ねで積分でもあり人生だ。
  教育も同じだ。伸ばす時期がある。その辺を動物的な勘で感じ取ることが大切だ。その時期は神様が決めている。それに気づくか否かだ。自分で気づく人もいる。人から言われて気づく人もいる。人から言われても気づかない人もいる。人生様々だ。結局はそれに気づくか気づかないかの問題のような気がする。いわれたときは気づかなくても10年立って気づく人もいる。親になって初めて気づく人もいる。失って初めて気づく人もいる。人生様々だ。そのためにいつも感性を磨いておきたいと思う。素直に、すばらしいことに気づくように、心が濁っていたり邪心があれば美しいすばらしいことも見えなくなる。感性を磨いていればこそ人生、こんなにすばらしいものはない。人は生きてきたように死んでいく。4月3日で私も62才の誕生日を迎えた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山桜花

2009年04月01日 | インポート

 この時期になると、山々の所々がかすかに薄桃色になる部分があります。これは山桜が咲き始めている証拠です。わたしは決まってこの花を見ると次の歌を思い浮かべます。よく、現役の頃はそのような山々の風景を見ながら通勤したものでした。

 『うらうらと のどけき春の 心より 
                にほひいでたる 山ざくら花』

【通釈】やわらかな陽が射してのどかな春の天地――その心が現れたかのように咲き出た、山桜の花よ。ここでは染井吉野ではだめなんです。山桜の素朴さが何ともいえずいいです。私もこの、山桜が大好きです。山桜は、若い葉が出てくるのと花が咲くのとがほぼ同時で、山野の景観を美しく彩る 野生の桜です。日本の山と見事に調和して咲きます。山桜は 古くから和歌に数多く詠まれています。染井吉野とは違い奥深さがあります。私の大好きな花です。

 ピンクっぽい部分が山桜が咲いている所です。秋の紅葉の時期よりきれいです。
   掛川市佐束山付近を撮影

  佐束山頂上付近から撮影、ピンクの花が山桜、周りの樹木と解け合っていて美しい。

                                  

 作者はかの有名な浜松出身の国文学者、賀茂真淵であります。以前私が勤めていた浜松市立県居小学校の集会でよく歌いました。この歌が気に入り曲がついていましたので、よく口ずさんでいました。何度歌ってもいい歌です。言葉の使い方がいいというか、まろやかで品があり情趣に富んでいます。言葉の周りに色々なイメージが沸き立ってきます。いい詩とはこのような色々なイメージを醸し出してくれる言の葉のことだと思います。わたしも、たまにまねてみますが、とてもとても雲の上の存在です。
  いい詩とは、いつも思うのですが、その言葉から色々なイメージがわき、言葉に色や艶があり、一つ一つの音が声に出すと美しい響きを持っています。また、リズム感ばかりでなく手触り感すら感じられます。また、言葉の周りに漂う何かがある。だから、詩が歌になるんだなとも思います。また、詩を作る本人の人間性が豊かでないと、詩も豊かな広がりのあるものにならないようです。作者の日頃の品性が滲み出てくるのであります。自分を磨きに磨きそして、言葉で表現する。言葉の持つ響きやイメージを大事にして打算の心なくありのままに表現する。その自分の意図するところに一番忠実な音や言葉を探しながら…。まあ、彼の場合は天性の努力家でもあり漢字、ひらがな、ことば、文章などを道具として自由自在に使える文才にも秀でていたと思います。賀茂真淵記念館の前に彼の銅像があります。1億光年かなたの真理をじっと見つめておられるようなお顔です。何時間みていても飽きません。また、見に行きたいです。 

 

  こちらは、浜松城公園から「ホテルコンコルド浜松」をバックに撮影しました。こちらのサクラは染井吉野 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タンチョウソウが咲いた

2009年04月01日 | インポート

 毎年この時期我が家の庭にタンチョウソウ花が咲きます。2月の末頃からさいていたように記憶してますが、春を告げる山野草です。

我が家の庭にて(3月17日撮影)タンチョウソウ



我が家の庭にて(3月17日撮影)
アセビの花 ツツジ ?


横地城址公園  ショウジョウバカマの群生

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする